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『紫に還る』 第九話(Ⅱ-5.6)
5
建物に入ると男たちの大声で騒然としていた。カンターは誰にも止められないのをいいことに、グレースの後をついていった。食事の膳や割れた壺を下げる女性たちと何度もすれ違った。みんな悲愴な顔をしている。前を歩くグレースとミーブの会話が切れ切れに耳に入った。
「ワン族の男が剣の戦いを申し出た」
「そんな馬鹿な。今日は顔合わせだし、友好の席のはずだぞ」
「酒に酔ったらしい。俺もはっきりとはわからないんだ」
ミーブがグレースを連れて入った大広間には、数十人の男たちが立ち上がり二手に別れて睨み合っていた。
「ユリシアには腕自慢が多いと聞いて楽しみにしてきたのに拍子抜けだな」
嘲るように言った男はカンターたちが入った扉の向かい側に、赤い房のついた剣を持って立っていた。ワン族の男らしい。顔から裸の上半身にかけて黄色と青の模様が塗られている。蛇が蠢いているようだ。
男を取り巻く者たちも肌に模様が塗りたくってある。ワン族の風習なのだろう。
板敷きの間の中央には、ユリシアの男が二人、倒れたまま呻き声を上げている。
「これは一体、どういうことだ」
グレースが唸った。ユリシアの男たちが振り向く。
「グレース、来たか」
「待っていた、グレース」
みな安堵の表情を浮かべて、口々にグレースの名を呼んだ。この男はユリシアの人々に頼られているらしい。腕も立つのだろう。カンターは髭面を見直した。
「おう、ようやく骨のありそうな奴がおでましか。さあ、剣を抜け。俺はワン族の王子、タウ・ワンだ」
グレースが最後の言葉を聞いて息を止めた。カンターは腰の剣に伸ばしかけたグレースの手がわななくのをすぐ後ろで見ていた。
そうか、食料援助をしてもらう相手国の王子と戦うわけにいかないんだ。
「どうした、怪我が怖いのなら心配はいらん。我が妻になる王女に治させてやるぞ」
タウ・ワンが笑って大広間を見回した。広間の上座に初老の男が二人。痩せた方の顔はどぎつい絵の具に彩られている。その模様が生き物のように踊っている。笑っているのだ。ワン国の王だろう。
「ファイアメーカー、王女はどうした。助けてやろうと手を差し伸べているワン国の王子に挨拶もないのか」
タウ・ワンは父親の隣に座る男に視線を向けた。精悍な男は三万人を越える国民の王にふさわしく威厳があるが、鋭い頬の線が動いている。奥歯を噛みしめているのだ。
「まあいい。王女が挨拶したくなるまでユリシアの戦士を血祭りに上げてやろう。さあ、次の相手は誰だ」
タウ・ワンの胴間声。ユリシアの男に声はない。グレースはするりと大振りの剣を抜いて前に進み出た。
「俺はグレース・ユリシア。お相手しよう」
「グレース」
低い声が飛んだ。ファイアメーカーだ。束の間二人は視線を合わせた。何かが通じたのかグレースはタウ・ワンに向かって足を進めた。
タウ・ワンの打ち込みは重そうだった。グレースが素早く動くたびにその頭上で剣がぶつかり合う鋭い音が響き渡る。グレースは軽やかに足を使っているが、守勢一方で押し込まれている。
わざと攻撃しないのか、そして余裕をもって躱しているのか、カンターにはグレースの力量がわからない。しかし周りのユリシアの男たちが固唾を呑んでいる所を見るとグレースも必死なのだろう。
広間の反対側の入り口にリロイが立っていた。その周りに年かさの女性が数人いた。リロイはグレースの動きを目で追っている。唇を固く引き結び、胸の前で両手を握りしめていた。従者としては気が気ではないだろう。
タウ・ワンの剣を避けてバランスを失ったグレースは、体当たりされて壁に叩きつけられた。苦しそうに呻き声を上げたが、殺到するタウ・ワンを見るや横に飛んだ。
刹那、グレースが背にしていた壁にタウ・ワンの剣が突き刺さる。
タウ・ワンは本気だ。とても怪我では済まない。このままでは斬り殺されてしまう。カンターは拳を握り締めていた。興奮の余り、手のひらが熱を帯びてくる。
タウ・ワンは中央に戻ってグレースを待った。血塗られたような赤い唇を舐めている。グレースがその前で剣を構えた。両肩が上下している。
タウ・ワンが無言で襲いかかる。その右手から剣が消えた。次の瞬間、宙を飛んだ剣は左からグレースの肩口に振り下ろされる。
「あっ」
リロイの叫び声がした。グレースはのけぞって右から回した剣で受け止めたが、タウ・ワンの剣は金属がこすれる嫌な音を発しながらグレースの左肘を襲った。
「ま、参った」
グレースは血が吹き出る肘を抑えてその場に膝をついた。誰もが勝負がついたと思ったその時、赤い房が揺れてタウ・ワンがグレースの脳天に向けて大きく剣を振りかぶった。
「やめろ」
カンターは思わず飛び出していた。自分が無関係な存在であることを忘れて、グレースの横に片膝をつく。タウ・ワンを睨みながら、無意識にグレースの肘にそっと手を置いた。
「なんだ、今度は子供か。まあいい。今後、誰がお前らの上に立つのか、今日は嫌になるまでわからせてやる」
タウ・ワンはワン族の男たちを振り返りながら続けた。
「ワン族は名門ユリシアと血縁になり、そして俺がファイアメーカーになるのだ」
「タウ・ワン、タウ・ワン、タウ・ワン」
ワン族の男がタウ・ワンの言葉に興奮したように、彼らを次に治める王子の名を連呼した。
「カンター、お前、何を考えているんだ。他所者は引っ込んでいろ」
グレースが痛みに顔をしかめながら唸る。
「いいんだ、グレース。僕は一度、溺れて死んだ身なんだ。勝てるわけないけど助けてくれた君とリロイのために戦ってみせる。その間に逃げるんだ」
グレースは舌打ちするとタウ・ワンに言った。
「こいつはユリシアの者じゃない。昨日、滝の上から流れ着いたんだ。関係ない子供をいたぶるのはやめてくれ」
「なに、滝の上から来たのか」
ファイアメーカーが驚いたように言った。ユリシアの民もワン族もカンターを見てざわついた。
「滝の上の者と戦ったとはいい土産話になるな。小僧、立て」
タウ・ワンが剣を構えた。
「カンター、お前の適う相手じゃない。やめておけ」
なおも続けようとするグレースを手で制した時、自分の右手が仕事をしていたことに気がついた。それも今までになく上手に。
カンターは立ち上がって剣を抜いた。後ろでミーブがグレースを抱えて運ぼうとして声を上げた。
「グレース、傷はどうしたんだ」
グレースの左肘は血が止まっているどころか、針で付けたほどの傷もない。グレースは腕を見つめて口を開けた。リロイが前に出てきていた。
「カンター、嘘じゃなかったんだ」
腕を振るグレースを見たワン族の驚きはことさら大きかった。この力を初めて見たのだろう。顔をこわ張らせたタウ・ワンは気を取り直したようにぼそりと言った。
「その不思議な力もいずれ我が物にしてみせる。来い、小僧」
そしてカンターの初めての戦いが始まった。
6
「なんだ、小僧、足が震えているぞ」
勝てるわけはない。タウ・ワンと向かい合ったカンターの背中を汗が伝った。ただでさえ戦士に成り立てで剣を使った戦闘訓練を受けていない。木剣の訓練ではいつも打ち据えられてばかりだった。今、カンターの前にいるのはユリシアの戦士たちが敵わない強者だった。タウ・ワンの全身から圧力が風のように押し寄せてくる。
やっぱり無茶だ。
(お前はいつも無茶なんだよ、カンター)
シークの顔が浮かんだ。その顔を消すようにタウ・ワンの剣がきらりと光る。
あの剣を防がなければ。しかしタウ・ワンがグレースと戦っていたときの剣の動きは、カンターにはほとんど見えないほど速かった。
剣を両手に構えたカンターに、タウ・ワンは無造作に歩み寄る。カンターは初めて恐怖を感じて剣を振り上げた。声にならない叫び声を上げてタウ・ワンに向かって突進した。その時、カンターの右膝が氷を押しつけられたように冷たくなる。邪悪なものを感じたカンターは踏み込もうとした右足で床を蹴って左に飛ぶ。
カンターを追うようにタウ・ワンの蹴りが襲った。足を払われたカンターは床に叩きつけられる。そのまま身体を転がしてタウ・ワンから距離を取った。タウ・ワンは笑いを浮かべて待っていた。カンターの口の中に血の味が広がる。倒れたときに切ったのだろう。
「だめだ、相手にならないじゃないか」
誰かの声がする。
「いや、カンターは自分から飛んでいたぞ。あのまま踏み込んでいたら膝を砕かれていただろう」
グレースだ。逃げろと言ったのに。
カンターは血を飲み込んで立ち上がった。足は動く。グレースの言う通り、危うく膝の骨を折られるところだった。そこに感じた氷のような冷たさは何だったのだろう。
「小僧、勘がいいな。少しは楽しめそうだ」
タウ・ワンがカンターの剣に目を留めた。
「妙な剣を持っているな。それは滝の上の剣か」
カンターは答えずにゆっくりとタウ・ワンの周りを、円を描くように回り始めた。
どこだ、どこに打ち込んでくるんだ。
木剣の練習でも相手の打ち筋など予測できないのに、実戦でよめるわけがない。
カンターの円を描く動きに合わせて、タウ・ワンが身体の向きを変える。二周目に入ったとき、額がひやりとした。タウ・ワンの身体から、一筋の糸のような冷気がカンターの頭に吹き付けたようだった。
タウ・ワンの剣がカンターの頭に落ちてきた。投げつけられたようだ。カンターは反射的に両手で握った剣を頭上に振り上げる。
剣ごと真っ二つにされる。そう思った時、二振りの剣がぶつかり合う鈍い音がした。カンターは面食らった。木剣の軽い打ち込みを受けた程度の衝撃しかなかったのだ。タウ・ワンが一歩下がって自分の剣を見る。
「なんだ、今のは。タウ・ワンの剣が跳ね返されたように見えたぞ」
「まるでゴムでも叩いたような音じゃないか」
「それにあの小僧、タウ・ワンの打ち筋がよくわかったな」
ワン族の男が騒ぎ始めた。カンターの手の中でかすかに剣が震えている。アランじいの倉庫でカンターを呼んだ剣だ。この剣には特別な力がある。
タウ・ワンの表情が固くなった。額から頬にかけて鮮やかに塗られた黄色と青の線がぴくりとも動かない。カンターはまた左に回り始める。
一筋の冷気は膝に感じたものと同じだった。次の瞬間、タウ・ワンの剣が冷たい額に振り下ろされた。額に意識を向けていなかったらカンターの脳天は割られていただろう。わからない、どういうことだ。何が起きているのだろう。
(迷うな、カンター)
頭にその言葉が響いた。
父さん。
それは懐かしい父の声だった。
(自分を信じろ。相手を見るんだ)
震える剣の柄を握り直した。カンターの父親は、相手の剣の動きが読めたという。これは父からもらった力だ。カンターは今、父に助けられている。
首筋から背中に汗が垂れる。タウ・ワンもカンターの動きに合わせて徐々に向きを変える。さっきの一撃は子供相手だと思って力を抜いていたことだろう。今度は違う。大勢の前で誇りを傷つけられたのだ。
タウ・ワンの手から剣が消えた。ふいに凍り付くような冷気がカンターの左腰を覆った。その刹那、カンターが踏み出した側の左腰をタウ・ワンの体重を乗せた剣が横薙ぎに襲った。
速い。空気が切り裂かれる。
左肘をたたむようにしてタウ・ワンの剣と左腰の間に、剣を挟むのが精一杯だった。二人の剣がぶつかる、またしても鈍い音が響く。そしてタウ・ワンの剣が弾かれたように宙を飛んだ。
剣は持ち主の手を離れ、ワン族の男達の頭上を越えて壁に突き刺さった。柄から垂れた赤い房が揺れて、そして止まった。思わぬ結果に広間を沈黙が支配した。
呆然と立ちすくむタウ・ワンの目が怒りに燃えていた。
なぜこんな小僧に俺の剣が歯が立たないのか。そう言っているようだった。しかし誰よりも戸惑っているのはカンター自身だった。二度も身体が両断されそうな一撃を受けた恐怖は、胸に深く刻まれたままだ。
しかし腕にも腰にも痛みを感じない。タウ・ワンの剣による衝撃は、すべてカンターの震える剣が吸収してくれたとしか思えない。そしてそれをそのまま弾き返したのか。
その場に座り込んでしまいそうな自分を叱咤して、今は震えが止まっている剣を腰に戻した。
「カンター、危ない」
リロイが叫んだ。顔を上げたカンターに頭を低くしたタウ・ワンが体当たりをしてきた。
「許さんぞ、小僧」
足を取られ、あっという間に組み敷かれたカンターの首をタウ・ワンの両手が凄まじい力で締めつけた。
苦しい。グウッと喉が悲鳴を上げる。カンターは両手で下からタウ・ワンの太い腕を掴んで、もぎ放そうとするが力の差はどうしようもない。
「貴様のおかしな剣のせいで恥をかかされたが、これでお終いだ」
タウ・ワンの息が熱い。気が遠くなってきた。
「タウ・ワン、卑怯だぞ」
「そうだ、その子を殺すな」
ユリシアの男たちが立ち上がって口々に叫んだ。
カンターの頭の中で心臓の音が鐘を突くように鳴り響く。
その時、あの感覚がやって来た。紫草を枯らした時の記憶がほんの一瞬、甦る。身体中の血がすうっと足元まで下がり、反転してまた昇ってくる。身体から重さがなくなり、浮き上がっていく。右手のひらが焼けた炭を掴んだかのように熱くなった。
「うおっ」
タウ・ワンが大声を上げてカンターの首を離した。後ろに飛んで尻餅をつく。カンターの右手が掴んでいたタウ・ワンの肘は、火傷をしたように赤く膨れ上がっている。ワン族の王子は顎が外れんばかりに口を開けたまま、のたうち回った。
その場の全員の目がタウ・ワンに、そして次にカンターの手のひらに注がれた。誰もが息を飲む。
蒼い炎が浮かんでいた。
仰向けに倒れたまま、激しく咳き込むカンターの右手のひらにそれはあった。かすかに揺らめく炎は、目を痛めそうなほどの強い光を放っている。
「導師、あれは、あの炎は」
グレースの大声が耳を打つ。黒いマントを羽織った老女がフードの中の目をカッと見開いた。
「われも初めて見る。あれは……炎……伝説の蒼き炎かも知れん。だとしたらあの少年は」
「導師、あいつがなんだっていうんだ」
グレースが叫んだ。
「言い伝えにある真のファイアメーカー……」
「真のファイアメーカー?」
男たちが顔を見合わせて口々に呟く。それはやがて歓声に変った。
「ファイアメーカー」、「ファイアメーカー」、「ファイアメーカー」
その声はカンターの手のひらから炎が消えても収まらなかった。カンターの周りにユリシアの男たちが駆け寄った。カンターを守るように囲んで膝をつく。息ができるようになったカンターは起き上がろうとしたが身体に力が入らない。
「カンター、もういい。勝負はついた。お前の勝ちだ」
カンターの耳元にグレースの声がした。それを聞いてカンターの意識をつないでいた細い糸がぷつりと切れた。
<続く>
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