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『紫に還る』 第七話(Ⅱ-2)

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 痛い。右腕が焼けるように痛い。何かで切られ引きちぎられている。
 目も開かず身体全体を重い石で押さえ付けられているようだ。カンターは右腕を襲う痛みに気が狂いそうだった。尖った何かが腕にめり込んでいく。赤い血が噴き出す。
 喰われている? 僕は抵抗できないままに何者かに腕を喰われているのか。いや、僕は生きているのか。これは夢なのか現実なのか。
 カンターは真っ暗な世界で自分の置かれている状況を何とか把握しようと焦った。だが痛みを覚える以外の感覚が働かなくてはそれも虚しい試みだった。
 しかししばらくすると不思議なことにカンターは右腕の痛みに慣れ始めていた。それどころか薄れていく。やはり夢か。それともいよいよ痛みの感覚をなくしてしまうのか。
 
 闇の中で何かが近づく気配がした。口の中に小さな塊が入れられた。それは柔らかくみずみずしい。カンターは無意識にごくりと飲み込んだ。ほどなく胃の深い所に落ち着いたその小さな塊は、かすかな熱を発し始めた。胃壁が震えて蠕動を始める。
 生命力を失い、固まりかけていた血は、血管の中を走り心臓の壁を勢い良く叩き、跳ね返るように手足の指先まで巡り、身体中を温かくしていった。
 
 
「ちょっと、大丈夫かい?」
 誰かがカンターに話しかけている。
「どこの部族の者だろうな。川上から流れてきたんだろうが」
「怪我はなさそうだけど。溺れて気を失っているだけじゃないかな」
 カンターは何者かの手が身体のそこかしこを撫でていくのを感じた。自分は助かったらしい。どこにも痛みは感じない。
 そうだ、右腕。僕の喰われた右腕は。
 目を開けた瞬間、手のひらが迫ってくるのが見えた。パン。頬が叩かれた音が川面に響いた。
「ああ、ごめん。気がついていたのか。なかなか目を覚まさないから」
 カンターは叩かれた顔を右に向けたまま動かない。
「あった、右腕」
 思わず涙が出そうになった。おそるおそる腕を上げて指を一本ずつ折り曲げてまた開いていく。
「なにやってんの。怪我はどこにもないはずだよ」
 カンターの前に見知らぬ少年の顔があった。卵型の顔に小さな鼻と口がのっている。カンターの顔を覗き込んでいる目は、青く澄んでとても深かった。
「こいつ、すごい剣を持っているぜ」
 少年の隣に背の高い男がいた。カンターより十歳ほど年上だろう。
「ちょっと見せてみろよ」
 男が身体を起こしたカンターの後ろに回って、剣の柄に手をかけようとした。
「やめろ、この剣に触るな」
 大声を出したカンターは頭がズキリと痛んで、右手でこめかみを抑えた。少年が笑う。まだ声変わりしていない。
「後でゆっくり見せてもらえばいいでしょ、グレースさん」
「後で?」
 グレースと呼ばれた男が手を引っ込めた。
「怪我はなくても弱ってる。食事をさせて休ませないと。それにファイアメーカーは客人好きだから」
 グレースが肩をすくめた。
「まあ、リロイがそう言うなら」
 リロイという少年がカンターに向き直る。
「僕はリロイ。こちらのグレースさんの従者だよ」
 リロイはにっこりと笑う。
 グレースはカンターに手を差し出した。
「そら、手を出せよ」
「ありがとう。ぼ、僕はカンター、よろしく」
 カンターはぎこちなく礼を言って、グレースに手を預け立ち上がろうとした。半分腰を浮かした時に、突然手を放されて尻餅をついた。
「悪い悪い。耳元で大声を出された礼さ。お、俺はグレース、よろしくな」
 髭面のグレースがにやにやしてカンターの顔の前にもう一度、無骨な手を出す。カンターは黙ってよろけながら自分で立ち上がった。
「あれあれ、怒らしちまったかな。冗談の通じないやつだなあ」
「グレースさん。そうやって人をからかってばっかりだから、女の子にもてないんですよ」
「はああ。聞いたか、カンター。キツイこと言うよな」
 主人と従者のやり取りとは思えない。二人の部族ではこれが普通なのだろうか。
 
 三人は川下に向かって歩き始めた。
「あの、助けてくれて、どうもありがとう」
「せいぜい感謝しろよ。あんな所に倒れてたら干からびて死ぬか、竜の餌になっていただろうからな」
 グレースが恩着せがましく言う。それは事実だがグレースの物言いには、いちいち腹が立つ。
 カンターは頭を下げてリロイに話し掛ける。この少年は年も近いし、なんだか気が合いそうだ。
「リロイ。ここはどこなのかな」
 先を歩いていたリロイが振り返った。
「ユリシアだよ。ファイアメーカーが収める国の領土さ」
 誇らしそうな口ぶりだった。
「ファイアメーカーって何のことだい」
 リロイがカンターの顔をまじまじと見る。
「ファイアメーカーを知らないなんて、よっぽど遠くから流されてきたんだね。カンターもどこかの国に属しているんだろ。その王のことは何て言うの」
 するとファイアメーカーとは国王のことか。
「僕の部族は国には属していないんだよ」
「ほほお、今時、どこの国にも属していない部族があるのか」
 グレースが口を挟む。
「それでお前さんの未開の部族は何て言うんだ」
「部族の名前なんてない。ないといけないのか」
 カンターは気色ばんだ。
「まあまあ、そうとんがりなさんなって。別にお前さんが田舎モンで、名もないちっぽけな部族の出身で、時代遅れの服を着ているなんてことは誰も言ってないだろ」
 血がかあっと頭に登ったが、この気に喰わない大男と取っ組み合う体力はどこにも残っていない。疲労困憊とは今のカンターのためにある言葉だった。ふらついてよろけそうなのが情けなかった。
 
 それにしてもカンターの服はそんなに変なのだろうか。二人に気取られないように、カンターは自分の着ている緑の服に目をやる。カンターの部族では、すべての服は戦う時に動き易いように作られている。シャツもズボンも身体にぴったりしており、飾りの類は一切ない。それが普通でおかしいと思ったことがない。 
 グレースとリロイは厚手のシャツにゆったりした上着をはおっている。ズボンはカンターに較べて随分と幅広に作られている。そのすべての布は鮮やかな色で染められている。
 こんな服はカンターの部族では見たことがない。色も仕立ても派手なくらい鮮やかだが、どこか品がある。グレースは首から飴色に光る石を下げている。それが妙に目立つ。リロイはしていないから、位のあるものの印だろうか。
 この二人の属する部族がどんな暮らしをしているのか、これから連れて行かれるユリシアに興味が湧いた。
 
 小高い丘を登り切ったカンターが目にしたのは、とてつもなく長く広がる壁だった。大人二人分の背の高さが優にある。左右の端が霞んで見えないその建造物に圧倒されながらカンターが尋ねた。
「リロイ、あの壁は?」
「もちろん竜を入れないためのものだよ。カンターの部族にもあるだろ」
 竜から部族を守るために防壁を造ろうとしたと聞いたことがある。しかし部族全体を囲むのは無理だったらしい。大人の背丈程度の柵はあるのだが、竜が何度も突進すると倒されてしまう。
「あれは……丸太で作ってあるんだね。竜はまったく侵入できないのかい?」
「それほど簡単じゃないよ。傷んだ箇所が打ち破られることがあるから。ただ、その時はこちらも壁の内側で備えができている。だから被害はそれほど大きくはならないんだ」
 
 丘を下ってたどり着いた入り口には、壁よりも更に高く丸太を巧みに組み合わせた大きな門があった。カンターは疲れよりも驚きと好奇心の方が先に立った。
「リロイ、この中には一体、何人が暮らしているんだ」
「四千人くらいかな。それがどうかしたかい」
「それは……ユリシアという国全体でということかい」
 グレースが笑った。
「言っとくがユリシアはただの国じゃない。有数の大国だ。ユリシアが束ねる部族は大小合わせて四十は下らない。国民の数は三万人を超えるな」
「三万人……」
「それとは別にユリシア傘下の属国も五つある」
 カンターは言葉を失った。カンターの部族はせいぜい二百人しかいない。使いで行ったことのある隣の部族だって五百人がいいところだ。

<続く>

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