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『本能寺』を語る

麒麟が来る』ついに最終回を迎えましたね。
面白すぎて、毎回45分間正座凝視、終わると体が妙な形で凝っているという現象が起きるくらいでした。

明智光秀の大河をやる、と聞いたときに、これは面白くなるだろうと予測していましたが、まさかここまでとは。本日の琵琶曲の稽古は「本能寺」に決まり、と歌本を紐解いて稽古をしています。そうすると、見終わったばかりの『麒麟が来る』のシーンがいろいろとよみがえってきて、演奏にも色がでてきます。自分のために、感想を書き残しますが、大河ドラマ好きのかたは是非読んでいただけると嬉しいです。(未見の方は、ネタバレするかもなので、観てからね)。

明智十兵衛という人間の物語


大河の王道、戦国時代のど真ん中。歴史上最大の謎とされてきた光秀の謀反。その光秀を主人公にその謎を解き明かそうという、創作上の試みはとても広がりのある人間物語になっていました。美濃という小国に生まれ、その国がいつも周囲から攻め込まれ、争いに巻き込まれる。それを何とかしたいと考える若き日の十兵衛の人間らしさが描かれるところから物語は始まっていました。

キャスティングの妙

大河ドラマの前半が面白くなるかどうかは、主人公の父親を演じる人の力量にかかっていたりもするのですが、歴史上資料の少ない明智光秀の父に近い存在として、本木雅弘さん演じる斎藤道三との絡みを綿密に描いていました。また、叔父・光安を演じた西村まさ彦さんも(「真田丸」のときの「黙れこわっぱおじさん」を思い出して、この人いつか裏切るんじゃ…と思ってしまいましたが 笑)いい味を出していました。母はなんと石川さゆりさんというキャスティングも話題を呼びましたね。

そして、成長していく上で欠かせない「兄貴分」としての存在として吉田鋼太郎さん演じる松永久秀との出会いがあり、それが重要なファクターになっていく。最終的に光秀を討つことになる木下藤吉郎=秀吉は、佐々木蔵之介さんで、これから先ずっと秀吉の顔は蔵様でリプレイされるくらいの猿っぷり、お見事でした。

あと、印象に残る役として今川義元の片岡愛之助さん。もう彼が討たれる桶狭間の回が好きすぎて、消さずに録画をとってあるくらい。塗り籠の中から目をちらっと動かす映像がツボすぎて。(細かすぎるわ!)
それから、徳川家康を風間俊介さんに配したところも拍手したい。竹千代の子役からの風間さんの演技は、この後訪れる「麒麟が来る世」をずっとどこかで視聴者に静かに期待させてくれるのです。

光秀の娘のたま=細川ガラシャ(芦田愛菜さん)が息子の相手として嫁ぐことになる細川藤孝を演じた眞島秀和さんもよかった。今回の中では単純にいちばん顔が好きなw役者さんなのですが、最後光秀に加勢しなかったことをナレーションだけで片付けられてしまうのがもったいなかった。これはひょっとしたら、本来はきちんと描かれていたのに、コロナ禍で撮影が減ったためにシーンが削られたのかな、そう思いたいな。

オリジナルキャラクターの望月東庵(堺正章さん)駒(門脇麦さん)が物語をつなぐいい役割で、東庵先生が出てくるとほっとできましたね。門脇麦さんは出てきたころから凄かったですが(私たち小劇場の人間の間では映画版『愛の渦』の演技も定評がある)、これで国民的な女優になったのではないでしょうか。

ほかにも好きなキャスティングは山のようにありましたが、きりがなくなりそうなので、この辺にして。

褒められたい信長

光秀の話を書こうと思ったら、それは半分以上は信長の話になる。それはもう致し方のないことです。今回は染谷将太さんの演じる信長トリッキーに見えるけれど、かなりプランが練られている演技に毎回戦慄を覚えることになりました。父からも母からも褒められず育ち、「褒められたい信長」。だんだん狂気じみてくるあたりは絶妙のドライブ感で、淡々としながらも内に熱いものを秘める長谷川博己さんの光秀とのコントラストが二人の関係性に信憑性をもたらしたのだと思います。

直前に沢尻エリカさんから役をひき継いだ川口春奈さんの帰蝶=濃姫も、イメージとしては多くの歴史ファンが思い描く濃姫に近かったのではないでしょうか?(沢尻さんの演技も見たかったな、とは思いますが。)信長の「帰蝶は褒めてくれる。あれは母じゃ」という台詞は、胸に響くものがありました。

最終的には、褒められたさが高じた信長の残忍かつ非道な振る舞いが多くなり、光秀の心との間に溝ができていきます。武家の棟梁・足利将軍を討てと無理難題を課され悩む光秀に、父・斎藤道三とうりふたつ、と自ら認める信長の妻・帰蝶は「(私が父上なら)毒を盛る」「今の信長を作ったのは、十兵衛だ、自分が作ったものは、自分で後始末をせねば」と決定的な一言を。さすがは、蝮(まむし)の娘。幼馴染ともいえる帰蝶の後ろに大いなる父祖の姿を認めてか、光秀の心は決まるのでした。

琵琶の「本能寺」

私の弾く琵琶の「本能寺」には、頼山陽による有名な漢詩『本能寺』がさしはさまれます。(琵琶歌は漢詩の引用から物語を膨らませているものも多いのです)。以下のようなものです。

本能寺 溝の深さは 幾尺なるぞ
吾 大事を就すは 今夕に在り
茭粽手に在り 茭を併せて食ろう
四簷の梅雨 天墨の如し
老の坂 西に去れば 備中の道
鞭を揚げて 東を指させば 天猶早し
吾が敵は正に 本能寺に在り
敵は備中に在り 汝能く備えよ

この漢詩では、光秀が出陣の前に本能寺の溝の深さを部下に聞いたとか、粽(ちまき)を皮ごと食べたとあり、私はこの曲を最初に弾いたときには「なにそれ?」という感じでした。しかも、最後に「備中にいる秀吉こそが敵だったのだ」と光秀を戒めちゃったりしてる。頼山陽の頃(1800年頃)はこれが一般的な光秀観だったのでしょう。

琵琶うたはあの有名な「時は今 天が下しる 五月かな」から始まり、光秀を主役として描かれます。そういえば、この和歌は大河で使われていないですね。これを入れると光秀がいかにも前から叛意があったようになるので、エピソードとしては落としたのでしょう。

前半のハイライトはこの漢詩で、後半は踏み込まれた信長が自害して果てるシーンなのです。つまり後半は信長に持っていかれちゃうんですね。後半は「崩れ」といって琵琶の聞かせどころである早弾きの手が続くので大変人気がありますが、本能寺に向かうまでの光秀の道行はちょっとまどろっこしく、斎藤利光らが光秀をとめたとか、軍勢がのろのろ進んだとかを非常にゆっくり語る。

日本の芸能は大抵がそうですが「序破急」といって、「序」が長くオーディエンスに試練を強いるんですね(笑)。その分「破」から一気に展開し、急にストンと終わるのがフリーフォールみたいでカタルシスがあります。日本の美学ではあるのですが、言葉も難しいので、前半で寝ちゃう人が多発します。

今回の大河ドラマで、光秀という人間が描かれて多くの人が共感を持った今なら、この前半を急がずにゆっくり楽しめるようになるかもしれない、と思いました。

歴史の裏側を書くということ

今回の大河は、ずっと「裏切者」とされてきた明智光秀という人の生涯を丹念に紐解き、視聴者にとって共感できる人物として描いた物語でした。そこには多分にフィクションも含まれていることでしょう。けれども、それは非常に有効な試みなのではないか、と思います。「史実」という言葉がありますが、それは「事実」とは隔たりがあるということに、もっと人が目を向けてもいいのかもしれない。

そもそも、一人の人間の内面などというのは、計り知れない宇宙のようなもの。それが激動の時代に置かれた人間であれば、また社会の動きと連動して深淵なドラマが生まれる。誰がどこでどうした、ということで社会が動いていったのなら、それは「史実」ですが、人物像や関係などは後世の人々が思いを馳せて、時に応じて自分のロールモデルとしていくことができる、壮大なロマンを含んでいます。

先に少し言及した「真田丸」もそうでしたが、歴史的に「影」の部分にいた人たちに、少しずつ光が当たっていくのは本当に面白い。琵琶語りを始めた時にもそう思っていましたし、今回のドラマを観て、また改めてそう考えました。琵琶の「本能寺」も主役は光秀。ぜひみなさん、機会があれば聴いてくださいね。

今稽古している「母常盤」(義経の母の物語)や、「源実朝」(鎌倉幕府3代将軍)なども、もっと深堀して楽しんでもらえるように、技術も磨いていきたいと思います。




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