一歩手前

少し前、なんだかとても疲れていた日があった。

いつもとは違うバイト先に向かう途中、大きな川があった。バイト先はその川の向こう側。私はそこそこ車通りのある大きな橋の隅っこをちょこちょこ歩く。少し夕方になりかけた、曇った空。大きな川、流れる水音、轟音を響かせて私の隣にはを走り去る大型トラックの音。不意に川の方を見てみて、なんだかとても疲れていたから、その日、その時、私は初めて死のうと思った。

振り返れば、私は死にたいと思ったことが一度もなかった。23年間、たったの一度もだ。これって結構すごいことだと思う。恵まれていたのだ、間違いない。それだけは胸を張れる。

さて、私は別に日頃から死にたいと望んでいたわけではない。ただ、瞬間的に、あの一瞬だけ、なんの迷いもなく死のうと思ったのだ。いや、死のうというと、自分の意思で前向きに死に進んでる感じがするが、どちらかというと、死んでもいいかという感覚だ。あの瞬間だけは、死ぬことに迷いが1ミリもなかった。怖いものと痛いものが大嫌いな私が、だ。不思議なことだと思う。だけど、もしかしたら、こんな瞬間は常に日常の中にあるのではないかと、そう思った。

これはこの体験を通しての私の考察だけれど、死にたいという強い願いより、ふらりと訪れた死の瞬間に身を委ねてしまうことの方が恐ろしいんじゃないだろうか。例えば、どんなトリガーがあるのかはさておき、人が生きていく上では時折、死の瞬間というものがあるとする。それは、日常の隙間みたいな、綺麗なマンションとマンションの間にある、ネズミが通る事がやっと出来るぐらいの細い細いかび臭い路地のようなもの。それが近づいた時、おそらく半分くらいの人は気づかないんじゃなかろうか。現に私は、これまでの23年間では全く気づかなかった。そしてもう半分の人がそれに気づいて、どのくらいの確率かは不明だが、そこに誘われるように足を踏み出してしまう人がいる。それはただの興味かも知れないし、たまたまかも知れないし、特に疑問を感じは事なく、自然とそうなってしまったのかも知れない。結果としてそれが、自殺や自殺未遂となってしまっただけで…。

人生は死と隣り合わせという旨の話はよく耳にするが、これはあながち間違いではないと思う。

では何故私がその一歩を踏み出さなかったか、ということなのだが、これは私としても少し驚きの理由だった。

死のうと思った瞬間はあった。でも飛び降りたりしなかった。まあ単に勇気が無かったとも言える。が、その瞬間に頭をよぎったのは、愛する家族でも、あれだけ好きだと息巻いた芝居でも、大好きな大好きな友人でもなかった。その川を見たときに、美しくないと思った。だから、やめた。

確かにその川は、大きいが水は黒く、魚や生き物の姿は全く見えなかったし、川沿いには植物ではなく人工堤防が続くばかりだったし、おまけに少しカビ臭かった。見た目という意味で、決して美しくはない川だった。

それだけではなく、小学校5年生の時にとある先生から聞いたことがあるのだが、水死体というのは死んだ後の細胞が水をどんどん吸収するためブクブクに膨れてしまい、生前の姿はほとんど残さないらしい。うーん。ブクブクに膨れた状態で発見はされたくないな。美しくない。だから、やめた。

この判断は瞬時に起こった。そして、やめたと思った次の瞬間には、「私は何を考えていたんだろう」と恐ろしくなって少し早足で橋を渡り切った。正常かどうかはさておき、通常の私に戻るまでのおそらく数秒間、私は確かに死の淵の一歩手前にいたのだと思う。

とはいえ、死ぬことをやめた理由は、美しいか否かという判断だけだった。どうやら私の人生は、美しさというとのにかなり執着しているようなのだ。この自覚ができただけ、この経験も悪くない収穫なのかもしれない。

一緒に墓に入れてもらう物語に死ぬ瞬間の話があるなんて、なかなか面白いと思う。これはやはり棺桶に入れてもらおう。そして最後に伝えるが、この瞬間は私が特別だから訪れたとかではないと思う。誰にでも起こり得る。その時、死を選ぶか否かの選択は自分自身の何に委ねられるか全くわからない。現に私は、まさか美しくないからなんて理由で死なない結果になると思ってもみなかった。どうか、この話を他人事だと思わないでほしい。そんなこともあるかもしれない、と分かっていて回避できる話ではないが、どうも私だけに起こった事のようには思えないから。

最後の最後、これで本当に最後だが、私自身を知っていてこの記事を読んだ方へ。私は同情が欲しいのではないし、今はとにかく元気に暮らしている。心配するなという方が無理だろうが、心配しないで欲しい。が、もしどうしても気になって仕方ないという心優しい方がいるのなら、次にお会いした時にそっと美味しいカフェラテか、もしくは美味しい野菜を食べさせてもらえたら大変嬉しい。ちなみに私は今胡瓜にハマっています。

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