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2024年5月



わりと沈黙というのか、言葉にならない、啞というのが念のため意味を調べたらピッタリとくる、そんな日々だった。

労働、生活は大事なのだけど、どうしてよいのかイメージが付かない、それは日に日に深刻で困っているので、さておくしかなく、三月頃からずっと、ひょんな事から水中を目指していた。心は取り残し、言葉を保留する身体の時間だった。

その前々から、時間の進む向き、その都度思うこと、インスピレーション…

処理が追いつかない、駄目で元々、やった感、何を求めるか…

目的なんてあまりない、ただ在ることが望みで、人間のどうしようもなさ、女であることの喜びと仕方なさに溺れ、生きてきた墓場で埋もれてどうにもならなくて、今自分が在ることを認められなくなっていた。


そんな中で、ひとつ明確な『泳ぐ』という目標が、人との交流で与えられて、自分でも受け取り、必死に目指していたら、巣移り(引越し)をしなければならない状況が押し迫ってきて、もう何がよいのかが何もみえなくなってしまって、裸で踊る意味らしきを支えていた様々な念、情念や執念が何であったのか、生活、生業、どうしたかったのか、これからはどうしてゆきたいのか、が、外野の動きに反撥しながらも(スミマセン)みえてきたら、もう踊れはしないだろうと観念したはずだったけれど、決まった距離を海で泳いでみようとする心、行動?とまではいかなかった気はする、行為というのか…その積み重なりの中で、踊りの機会も5日間頂け、どうにか畏れていた土左衛門にもならず、無事にうみで泳げた。

トドメの怪我をし、それまで未熟ながらも愛していたであろう生活であったり、生業であったり、行為をすべて失った、心とからだ、我身にすごく貴重な時間だった。



6年前頃から始まっていた
大きな破壊への道筋と
仮死していた心が震えるようなトキメキ
と同時にそれとは到底繋がらないように思える
目前の憂鬱と
やはり心沸き立つ更なるかりそめの日常も
捨てる心、怪我(捨てる我が身?)も、偶々なのか望んでなのか知ることはないが、

すべて沖縄が与えてくれた…

と、ちょっとだけだけど
沖縄のうみを無謀な状態で目指し、
運よく泳ぎ切った今、思うことにした。

上記のことは経験というのか、身ひとつで生きてゆくこととなった時間の堆積で、脚色みたいで退屈で滑稽で愛せずにはいられない自分の人生の自分で日々つむぐ物語のような感情や行為の墓場だったり、置場であったりで、ずっと継続していて、結末なんて分からないし、思い描いたところで天気や運命のようにコロコロ変わってゆくものだけど、書きたい、書くしかない、と毎日思っている。

試しに、今この話をドン引きされようがしてみたい、伝えたい相手と、もしかしたら何かこの人なら自分が何を言いたいか、伝えることは非常に困難と予想できるけれど、もしかしたら受け入れてもらえることがあるのじゃないか?と度量を感じられる人と一昨年くらいに知り合った。自分の勘違いでもいいし、ギョッとされることもあるかも知れない。それでもよしと思ってる。

今までも、数あまたいない友人や知人に身の上話を面白おかしく語る機会はいくらでもあった。

わたしも'何か'というのは執着する生活上での’念'であり、土地のエネルギーだったり、人のエネルギーであったり…に取り憑かれているのだろうし、それを自分にとって相応しくない特定の相手にぶちまけてしまった為がもともと、直接の原因かどうか知ることはできなかったが、無用な人の巻き込みという一番最悪で厭なしっぺ返しにより、それまでの膨大な全エネルギーを注いでいた仕事と生活をそれぞれ支え成り立たせていた骨組が抜き去られ、散々なこととなっている。


未熟な愛、稼ぎ、競争…


どう生きたいか、ニンゲンとケダモノの誇りの狭間で

制限時間内に、決まった距離を、うみで泳ぐことを目指し、泳ぎ切る最中に、身ひとつであること、時間の向き、踊りと泳ぎ…

無目的と在ること、ときめく心で佇むこと

段々と日が経つにつれ、やっぱり自分の核、テーマであるそこへ還ってきている気がする。


当日は当然に余裕が全くなく、ちっとも進まない距離、水を蹴れない我が身、波、まわりの熟練スイマー群に惑わされまくり、目前のブイをみてひたすら苦しくならぬよう泳ぐだけで精一杯だった。


ただでさえどうしたらよいのか分からない墓場、捨て鉢のような生活を一旦かなぐり捨て、ただでさえ思うように語れず、働けず、思考できずな時間もさらに諦め、どうにか泳ぐ時間に充てて、5月は2日ずつ関東と沖縄のうみに計4回。プールは頭があがらない熱海のマリンスパに4回、なんと北海道と沖縄で1回ずつ、4月は都内を9日くらい…

お酒のみながら記録を振り返り、あれこれ連想数珠つなぎに綴る時間は至福だろうなぁ

手帳にメモしたりつぶやくだけでもちょっとしたモチベーションになった。


3月中頃の念解放、踊れはしないと思ったこと、ドン引きされてもいい、むしろされるように語り伝えたい破壊と再生への軌跡、心身のことを描く、書くために何がしたらよいかは分かっている。

すべては至るところにある?(でよかったかな)という今年に入ってみた映画のタイトル通り全てはもう在る。それを実践していくうちに少しずつ、蓋していた現実である核にも迫れるのかな。

もう2ヵ月経つけれど、福井県の称念寺へ一遍上人ツアーに行って新田義貞公の貌が明るくなった際の、大変お気に入りエピソードのレポートも、日々の食レポも…書きたい、書きまくりたい(写真の整理。白目。重複しながら書かせてくださいね)

在り、佇み、踊るために布を重ね縫い、飾りを考え、音を削り聞きならべ…

熱海へ、廻廊流宇、演しものについても怠りなく……

水中という自由の効かない領域に佇むことを夢み、めざし、潜りぬけた身で、目の前のブイではない、まだそれが分からない未知の予定であったり、夢であったり、妄想であったり、現実の旅にまた向かいます。

それがうつくしかったり、心休まったり、掻き乱されたり、たのしかったり、心臓に杭を打つような感じ(minoriの豆知識→クレソン、山わさび、辛味大根、ゴーヤー好き!)だったり、色々するだろうなぁ…

積み重ねてきた生活をあまりに愛していた。未熟に。おぼろげに。






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