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日常と器の中身

さて。そろそろやるか。

夕食後、重い頭と腰を上げて食器洗いに取りかかる。誰も代わりにやる人がいないので仕方がない。

ここ一週間ほど、頭に鈍痛を抱えている。朝起きた時はすっきりしているのに、時間が経つにつれ徐々に背中や首がガチガチになり、夕方には後頭部の芯に嫌な痛みが走る。首を動かすとズキンと痛むそれは偏頭痛とはまた種類の違う、神経に触る感じの痛み。自称頭痛のデパートと言ってもいいぐらいの私だが、この痛みはいつもと違う。大きな病気の前兆ではないかと数日前帰宅途中の電車の中で思い始めると心配になり動悸がして、それが気分の悪さに拍車をかけた。

痛みの原因はなんだろう。凝りだけでこんな深部の痛みが出るのだろうか。腕の脱力感もある。以前行ってた整体マッサージに行くか?それともやはり医療機関か?でも何科を受診すれば?

ぐるぐると迷った挙句、近所の整形外科を受診。以前かかったことがあるが、経過観察中に行かなくなってしまったので再診を受けるにも後ろめたさはあったが、背に腹はかえられない。予約なしで飛び込みしれっと診察券を出した。

あらかじめ今日までの症状や思い当たる原因、直系の病歴などをメモしておいた。先生は丁寧に話を聞いてくれて、レントゲン4枚撮って出た診断は「ストレートネック」。来週からリハビリを開始することに決まった。長期戦になりそうだ。

思えば、痛みなどパフォーマンスが落ちる状態が長く続くことは人生において悪阻を除いてはこれが初めてかもしれない。酷い風邪でも長くても一週間もすればそこそこ良くなるし、胃痛や腹痛も同程度。皮膚科や歯科も長期間かかったことはあるが、日常生活のクオリティや仕事のパフォーマンスをそんなに下げることはなかった。悪阻だって終わりがあるとわかっているから耐えられた。

この痛みが日常となる。朝から晩までではないにせよ、辛い時は集中できない。QOLは明らかに下がる。生死に関わる大きな病気を罹患されている方から見ればどうってことないレベルだろうし大袈裟かもしれない。とはいえ痛みは程度の差こそあれ辛いものに変わりはなく、気持ちが折れるものである。

これまでの自分の健康を振り返った。30代は小さな家族と共に暮らしていたので食べることには気をつけていた。40代に入り少しずつ身体の変化を感じてはいたが、社会復帰してからはあまり自分を顧みず、食べたいものを食べたいときに食べたいだけ食べて身体も動かさなかった。50代に入り、定期検診結果を見ると、これまでのツケが少しずつ現れ始めていると漸く実感した。

痛みも浮腫みも全く何もないすっきりした身体には、おそらくもう二度と戻れない。どこかしらに不調を抱えながら生きていくことになるのだとは思う。日常生活にそれが入り込んでくるのだから、なかったことにはならないし蓋をすることだってできない。あるいは、それが煩わしいからといって日常生活を終わらせることだってできないのだ。命がある以上どうしたって生きていかねばならない。

であれば、せめて自分という器の中身を100%その不調で占領されることだけは避けたい。切り離すことはできないとしても、一日のうちのほんのひと時でも自分の好きなことに目を向け、たとえ数%でも器にそのことを注ぎ込む。不調に無関係の何かを日常に取り入れる。要は「逸らす」のだ。

自然や緑に囲まれるのも一つ

子どもがぐずった時、好きなものや興味のありそうなものを見せて気をそらせることがあるが、それはその場しのぎの策で根本的な解決にはならない、という意見をどこかで聞いたことがある。

原因や問題に真正面から向き合うことはもちろん大切だ。だけど、真正面から向き合っても解決できないことはこの世の中に山ほどある。

いいんだよ。解決しないことがあったって。
燃え殻さんも、他の誰かも「保留する/棚上げするのも一つ」って言ってたよな。
しばらくの間だけでも気持ちを逸せるものがあれば。
問題は一生解決しないかもしれないのだから。
今というこの刹那に、少しでも煩わしいことから自分自身を解放するすべを知っておくことが、自分を救ってくれるのではないだろうか。

誰に見せるためでもない、自分の器。
外側がしっくりこなくても、内側だけは自分が納得いくように、自分を保つためにも明け渡してしまいたくない。











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