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哲学とAI

 1980年、私が大学生だったころ、コンピューターはまだ一般的ではなかったし、それは工学とか、数学とかの世界のものだったのだが、哲学科の若い助教授は、そのコンピューターに大変興味を持っていた。今から振り返れば、その先見の明を慕って、彼の研究室を志望すれば良かった、と思わないでもないが、当時の私は悲しいほど保守的だったから、人間の代わりに機械が考えるような未来、なんてまるでバカバカしいSFだと思っていた。神が存在することを裏付けるようなデータと、神などいない、というデータを同数コンピューターに与えたら、コンピューターは何と答えるんですか、などと、若気の至りな質問をしたことさえあった。
 そんな私が、OpenAIに課金して最初にした質問は、当然ながら、神はいますか、だったが、答えは「それは各人の世界観によります」。なるほどね、人間は今のところ、AIを飼い慣らしているらしい。
 今日の文化情報工学総論は哲学とAIについて、認知科学の話でおもしろかった。おもしろかったけれど、やっぱりちょっとひねくれたコメントを書きたくなるのは、もうはや若気とも言えない、年甲斐もなく・・・かな(>_<)。

だれのように考えるか

 AIはどこまで「人間のように」考えることができるか、と問うとき、どんな人間が想定されているだろう。ある絵を見たときの人間とAIのキャプション文作成比較を見て、考えた。「人間ならすぐ見分けられることがAIはまだわからない」。だからAIの学習量を増やしたり、学習の質を変えたりする、という方向性は理解できる。だがその「人間」という基準は、暗黙的に「定型発達の人」であるように思う。あるいは「平均的な人」といってもいいだろう。もちろん、そのような人と同じように考える(計算して答えを出す)AIの開発には実際的に利便があるだろうが、それだけでは、大事ななにかを捨象することにならないか。
 AIの回答は、発達障害と安易に括られている人びとのものの見方に似ていると感じることがある。それを、AIも発達障害も同様に、「ある能力が欠けている」と断じるのは簡単だろう。しかし、AIがそのように回答することと、発達障害の人びとの世界認識が似ているのであれば、私たちはそこから、世界認識の多様性について、何らか新しい視座を得られるかもしれない。なぜ人は異なる方法で世界を認識するのか。そこに優劣をつけて良いのか。AIは人間の映し鏡として、それを問うているのかもしれない。

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