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ほぼ日と私と妻と任天堂と。

糸井重里さん率いる「ほぼ日」が21周年を迎え、今日、Twitterでお祝いのコメントが流れてくるのを眺めながら…

Twitterで存在を知った note。さっき登録して今書いている。いつか始めてみたいとぼんやり思っていたけれど、今回いいタイミングの様な気がして。

私は現在、ほぼ毎日ほぼ日を覗き、「今日のダーリン」という「糸井さんが毎日書くエッセイのようなもの」を読んでいます。

それは、いつから?2015年の7月。なぜ?それは「気になっていたから」としか言えないのですが…。2015年7月11日、当時の任天堂社長、岩田聡さんが永眠された日。

(話が飛ぶようですが…)

私と妻とは絵を描く者同士知り合った仲。ゲームも好きな彼女と初めて一緒に映画に行った日、上映時間を待つ喫茶店でニンテンドーDSを開き「ポケットモンスター」を見せてくれたのをよく覚えている。くさポケモンのツタージャが、可愛くぴこぴこ動いていた。ツタージャ好きである事は知っていたので、私は、ツタージャを形どった小さな飾りを作ってプレゼントしたりした。

ちなみに私にとっての任天堂時代はスーパーファミコンで終わっていて、それ以降はプレイステーションだったのだけれど、ニンテンドー3DSは二人で一台ずつ買った。再び任天堂時代が始まった。通信で一緒に遊べるのが嬉しかった。

3DS LLが発売され、彼女が欲しがった「とびだせどうぶつの森」仕様の本体を、当時品薄の中、問い合わせた店舗に丁度あると聞いて買いに走った事もあった(喜んでくれたなあ)。「どうぶつの森」はかなり遊んだ。

離れた場所で通信で遊んでいた二人も、やがて付き合い、一緒に暮らすようになった。2015年はまだ結婚前だった。

彼女の持っていた、絵画はもとよりイラストでもアニメでもゲームでも「作品」として向き合う視点・話が本当に面白かった。美術の学校を出ているというのもあったろうけれど、元々の性格もあると思う。作品に向き合う時の、感想を話す時の、彼女が好きだった。今でもそうだ。

私はそれまで、それらの一つ一つのコンテンツをあまり深く考えず消費していた方だと思う。けれど彼女と知り合い話を聞く内に、「作品」そしてその「作者」についての見方、何かが自分の中で変わっていったように思う。いつしか、作品の背景や、作者の思いに興味を持つようになっていった。

新作情報を任天堂の社長自らが「直接」ユーザーへ届ける、「ニンテンドーダイレクト」という動画配信があり(それも彼女が教えてくれた)、一緒に観る様になった。そこで知ったのが岩田聡さんだ。社長なのに、こんな風に?と当時の私には新鮮に映った。威厳はない。不思議な親近感と誠実さを感じる物腰。流暢さやスマートさはない。とにかくわくわくさせてくれるプレゼンテーションを毎回楽しみ、次回を待っている自分がいた。彼女にすら言った事はないけれど、おそらく私は岩田さんが好きになっていた、ちょっとずつ。一方的に。

「社長が訊く」という、岩田さんとゲーム開発者との対談・インタビュー、全て読んだ。その中で、ゲーム製作者の宮本さんや桜井さんといった人達を知り、気になる人が増えていった。そのゲームはやった事がなくても、ゲームを作る、ものをつくる、考えるという事、それを知るのが心底楽しかった。私は彼女を通じて色々な人のファンになった。その筆頭が岩田さんだったと思う。

そして、存在は知っていたけれど、岩田さん経由で糸井重里さんという人を知り直した。
私の妹はデザイン会社に勤めていて企画も手掛ける事もあるようで、自宅の妹の本棚には糸井さんの本がいくつかあった。コピーについての本だったと思う。有名なコピーライターの人。それくらいの認識だった。

(糸井重里その人は知らずとも、私は「MOTHER」を遊んだ。当時曲名なんかは知らなかったけれど、あの曲、『Eight Melodies』。妹が習うエレクトーンが家にあった。音を探して、何度も何度も弾いた。今でも口ずさめる。話の筋を忘れていたり、その物語の意味する事を案外わかってなかったりするけれど、所々の場面は不思議と凄く覚えている。)

そんな風に岩田さんを知り、糸井さんを知り直し、ほぼ日を知った(MOTHERの記事も面白く読んだ)。ものづくりに真剣で、楽しんでいる大人たちの仕事の話が、当時の私に羨ましくもあった。

岩田さんの過去の対談などを読みあさり、「今」に追いついて、そこからは進行形で楽しみが続いていくはずだったけれど。ニンテンドーダイレクトで見せる姿に闘病の影が映っていたけれど。

帰らぬ人となり、初めて経験するような気持ちになった。知り合いではない。TVで見る芸能人とも違う。不思議な位置の存在だった。彼女と悼んだ。私は何だか落ち着かなくて、そして糸井さんの事が浮かんだ。

ほぼ日に「岩田聡さんのコンテンツ」があった。7月13日の、今日のダーリン。また会おう、と、受け入れられたかのように。7月14日の、今日のダーリン・・・。
そして7月15日の今日のダーリン。その後半で、私は胸がじんとした。

糸井さんが「最後に顔を見て「だめじゃんっ」と言ってしまった」と、そして「しばらくして、心から謝った」と。そして、その後に続く言葉…。
私は、こんな正直な文章を読んだ事がないと思った。そして、それから気になって、ほぼ日に通った。本当に偉そうだけれど、何となく心配だったのだ。そして気になっていた。喪失とそれを乗り越える過程をこの人の言葉で知りたかった。

はじめに「ほぼ毎日読み続けている」と書いたけれど、少し遠のいていた時期もあった。彼女は私の妻となり、糸井さんは、友人について、折に触れ思い返す様に書かれる事はあったけれど、立ち直られた様にも感じていた。

私達に子供が生まれた。可愛い娘だ。娘は軟骨無形成症という病気を持っていた。生まれる前からわかっていたのだけれど、インターネットで検索をするという行為を、あんなに悲壮にしていた時期はなかった。その頃から私はブログを始めた。やがてTwitterも始め、ほぼ日や糸井さんや乗組員の方をフォローした。また少し世界が広がった。TOBICHIという、ほぼ日のストアにも足を運ぶようになった。娘も連れていった。

それまでは「今日のダーリン」のみと言ってもいい ほぼ日訪問 だったけれど、興味が向いたコンテンツも見るようになった。私は、嬉しさや楽しさや、つらい事があったって前向きに生きる人たちの集う場や、発信されている場を求めていたのだと思う。それを眺める事で慰められ励まされていた面もあったと思う。そして将来、ほぼ日そのものではないにせよ、そんなような場に娘が生きてほしい、と願っている自分の想いに気付いた。

あらためて今日(日付は変わってしまったけれど)21周年を迎えたほぼ日。おめでとうございます、そしてこれからも、やさしく、つよく、おもしろく。

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