コロナ禍をからだに聞く
劇作家で精神科医の胡桃澤伸さんの投稿を読む機会があり、なるほどと思ったので、ところどころ抜粋してシェア。
感染症は、しっかり手洗い・消毒・マスクとかで対策できるけれど、心の緊急事態は対策が難しい。そして一度悪い状態になってしまうと治すのもなかなか難しい。
いくつかの都市にはまたもや緊急事態宣言が出され、特定の業種に対しての休業要請や、宣言区域の人たちへの外出・移動の自粛要請が出されている。私の身近なところでも、特に関西や首都圏ではイベントやライブが続々と中止や延期になっている。長い時間と大変な労力をかけて準備してきたものが、多少は予測していたとはいえ中止になってしまうのは本当に無念だろうと思う。「感染症の対策として」ということで仕方がないと思って過ごすしかないが、この「仕方がない」という思いについて「からだに聞く」ことの大切さを改めて考えるきっかけとなった。
新型コロナの感染拡大で人に会うことが減った。会食もしなくなった。もともとお酒は飲まないし、家で作って食べるのが好きなので「まあいいか」と思ってやり過ごした。「思うことにして」いたことには、からだに聞きながらこの原稿を書き始めてみて気が付いた。「まあいいか」で乗り越えている気になってはいたが、実は乗り越えていない。容易にははい上がれない深い穴に落ちている。からだに聞きながら書くと上っ面の言葉ははがれていく。
コロナ禍はざっくざっくとからだを切り刻んで行く。「まあいいか」でやり過ごしていた有象無象が蓋を破って姿を現す時がいずれ来る。そんな気がする。
オンラインでの講演やミーティングが盛んにおこなわれるようになり、それはそれでありがたいのだが、その場に行って人に会い、集まりの中に入って学ぶ機会がなくなってしまったのは痛い。残された人生で途切れることなくからだに入れたかったものが入ってこない。
からだに聞きながらコロナ禍をこうして言葉にしてみると、痛みが胸でうずいているのがわかる。本当に痛い。いったいどれほどのものがからだから引き離され、どれほどのものを失ったのだろう。わからない。なのにそれを「まあいいか」でやり過ごしていた。こんなことを続けたら、蓋ばかり大きくなって気持ちを感じ取る力が落ちる。自分の、そして自分以外の人の気持ちを感じ取れなくなっていく。それが怖い。「まあいいか」で蓋をしないで、「失ってつらい」と口に出したほうがいい。でないとコロナ禍を分かち合うことができない。同じような経験をしているたくさんの人、もっとつらい経験をしているたくさんの人たちと切り離されてしまう。
からだに聞きながらコロナ禍を書いてみると、「まあいいか」をいかに多用しているかがわかる。この「まあいいか」をからだの声が引き剥がしていく。「ちっともよくない」が聞こえてくる。その後から姿を現すのは腹の底に隠していたそう簡単には言葉にならない生の感情、気持ち、思い。熱やエネルギーのかたまり。魂と呼んだほうがいいのかもしれない。いつもからだの声を聞き、そういうものをあふれ出していたら生活に差し障りが出るかもしれないが、時々は溢れ出させたほうがいい。でないと生きていることにならない。私の「まあいいか」のように蓋として、生きるために仕方なく使っている言葉をからだの声を聞いてひっぺがす機会をこんなふうに作らないと、人間でいられなくなってしまう。表に表すと書いて表現。生の感情、気持ち、思いを表現する機会をコロナ禍で失いたくない。それは居場所を失うことだ。声を聞いてもらえなかったら、からだもからだでなくなっていく。
コロナ禍で庭へ出て木や花や草を見ることが増えた。庭に来る鳥も見るようになった。言葉で木や花や草や鳥と会話するわけではない。木や花や草や鳥を思い、こころを寄せ、からだを近づける。
夜の散歩では月と猫を見るのが楽しみになった。こんなに近くに月と猫を感じたことはない。アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンは著書『現代精神医学の概念』のなかで患者に期待したい第一の営みとして「自分のからだに起こった変化を意識すること」をあげている。サリヴァンのこの言葉も最近思い出した。コロナ禍で「まあいいか」をを多用している私に「サリヴァンもこう言ってるぞ」を、からだがささやいたのかもしれない。庭へ出ろ、歩け、月を見ろ。からだのささやきだ。
ITは感染症対策には役立つし、便利だが、それだけで乗りきれるほどからだは単純ではない。からだからそう聞こえる。皆さんのからだはいかがだろうか。
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