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なぜ産んだ。先祖に感謝と言われても


いつからだったか。

家にある先祖供養に
しばらく手を合わせることが出来なくなった。


感謝をしろ、と言われましても

うちの主人は次男。
私も嫁に出た。

お仏壇など家にない。


母方の家は今までの記事にも書いたように
後継問題がゴタゴタ。

祖母の家には
若くして亡くなった叔母の仏壇がある。

すごく立派な大きいやつ。

今もその仏壇は放置されているのだろうか。


母方の実家は後継が必要で
祖父も祖母も貰い合わせ。

後継のための結婚だったらしい。

そこに生まれた叔母と母。
男の子は生まれなかった。

跡取りの予定だった叔母は
20半ば、ガンで亡くなった。

母は若くして結婚前に妊娠し
親に勘当されていた。

祖父が生きている間や
祖母がまだ体が動く頃は

お仏壇やお墓のことも
定期的にやってたみたいだが
祖父が亡くなった頃から

手入れや手を合わせたりは
まともにされていないだろう。


大人になり気にはなっていたものの
ちゃんとしたことを教えられていないうえに

そもそも母と祖母が揉めているのだから
私たち孫は動き用がない。

祖母と母は
無責任に全てを渡してこようともするけど
私は引き継げるわけでもないので 


そうじゃないだろ 


と思うし、そう伝えている。


ただ
私自身も家庭をもち
家を建てるとなってくると

神ごとやそういった繋がりが
必要にはなってくるわけで。

家を建てる時に
知り合いのお寺にお願いして

地鎮祭や家の配置
あとゴタゴタして供養出来ていないものを
自宅で出来るようにしてもらった。

祖母のお仏壇やお墓が気にはなっていても
私が祖母の家を訪ねることはもうしんどくなっていたから、ちょうどよかった。


宗教的なことは
私はよく分からない。

それにすごくこだわっているわけでもない。

ただ、無下にしたくないだけ。

先祖とか神とかが全てとは思わないし

目に見えないものばかりを
どうこう言う信者は苦手だ。

だけど人の心とか人との繋がりだって
目には見えない。


目に見えないもので大事なものはたくさんあるから、無下にしたくないだけ。

あと
神頼みばかりにはしたくないが
主人の手術のこともあったから

どうしても神頼りになるしかない時があるのも感じている。

それに、神頼みと言うか土地とか自然とか
そういったものは適当に扱いたくない。

だって
これだけ発達しても人間がかなわないものって自然災害で、人間も自然の一部だと思うから。




えっと、方向性がずれたけど。

とりあえずそんな感じで

5年前家を建てるときに
先祖供養を自宅で出来るようにしてもらった。

毎日家でお線香を焚き手を合わせた。

気持ち的に余裕がない時は出来ないことも多々あったけど、それでも今まで続けてはきた。

数ヶ月も出来なくなったり、手を合わせることがここまでしんどいのは初めてだった。


家を建てて5年。


そこから父親と再会し
母親と祖母とは離れ

前職を退職し友人とも離れ
主人の病気発覚と再就職。

父方の祖父の死に
主人の手術。


最近は父親側とも距離をとっている。

今後の夫婦の形の方向性も決めた。

自分が育った家庭での当たり前の感覚から抜けて自分で立つためにも、他人と関わって関係性や居場所を作った。


いろんなことが流れていく中で
親の影響が今の苦しさに繋がっていることを

向き合えば向き合うほど
実感する。

色んなことを整えていて
環境は良くなっているのに

苦しさやなんとも言えない虚しさ、上手く表現出来ない感情・感覚だけは残されていく。


先祖供養を始めた
当初のような前向きな気持ちより

置かれた環境の影響で苦しさがあるのに
先祖供養で何を感謝したらいいのだろう。

どんな気持ちで
手を合わせたらいいかわからなくなった。


もちろん今の自分の命があるのは
先祖代々のおかげ。

そんなことは分かってる。

でも産むと決めたのは親だ。
私を作ったのは親だ。

親は責任があるのではないか。





「子どもを産んでなければ
自分も好きなことをしたかった」

私が親元にいる時
母親に何度も言われた。


そんなことを子どもに言い、子どもが好きなことや楽しんでいることを妬むのなら 

なぜ産んだ。


怒りなのかなんなのかは分からない。

別に親にどうして欲しいもない。
答えが聞きたいわけでもない。

今更愛してくれとか
なんで愛してくれなかったのかとも思わない。

ただ、もう私に構わなくていいから

祖母と母には
今後どうするか自分達で決めて欲しいし

父親や父親の祖母には
昔の愚痴を私に言わないで欲しい。

みんな
自分の感情をこちらに向けないで欲しい。


私を
受け皿にしないで欲しい。



自分の子を妬み
家庭が辛いと子に言うのは

子どもに
あなたはいないほうがよかった


と言っているのと同じだ。


しかもそう言いながら
頼りになる、助かると言われ

父と祖母の愚痴を聞かせながら
周りから片親だからまともに育ってないだなんて言われないでと。


私は家族のケアに回り、世間からまともに育ったと見られるように振舞った。


自宅で先祖供養を始めた時も

ご先祖達が
「やっとちゃんとやってもらえた」
と集まってきていると

お寺の方に教えてもらった。

今ではその言葉がプレッシャーとして
私に重くのしかかっているのだろう。


感謝。
今の命があるのは先祖のおかげ。
手を合わせましょう。

そんな誰かも分からない
世の中の声に

自分は素直な気持ちで
感謝出来ていないことに
心が苦しくなる。


生まれなきゃよかったとは思ってはいない。


どうせ生まれたのなら生きてやろう
負けるもんかって思っている。



なんのために生まれたのだろうって
思っていたけどもう考えても仕方なくて

意味なんてきっとなくて
死ぬときがくるまでただ生きているだけ。

だから

なんのために生まれた

より

なぜ産んだ?

が今は強い。



環境を整えてきて
もうだいぶ私は自由だ。


自分のために生きる準備は出来ているのに

また今更
今までの感情に支配されるようになってきた。

抜け出すのは怖い。
やったことがないから。

抜けたほうが楽なはずだけど
安心をもらうのは怖い。

安心を知らないから。


数日後は自分の誕生日。


今年は大丈夫かと思ったけど
まだまだ気持ちは持っていかれる。

どこにおめでとうで
どこに感謝なのかわからないから。



それに、今は先祖供養も
自分の立ち位置や感謝の居所を迷子にさせる。


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