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親ではない


親ではない



その感覚が
安心を得る度にのしかかることがある。




そもそも安心感ってなんだろう

これが安心感なのか


そう思いながらも求めていく。

こぼさないように集めていく。


知らないからどれかわからない。


何かわからない。


どういう感覚が安心感なのか。


初めて得た感覚に

これがそうなのかもと思い
ほっこりもするけど


それでも絶対的なものはない。



人は変わるから。

環境や心境、関係性は変わっていく。


悪いことじゃなくて当たり前のこと。


なんなら自分だって変わる。
いい方向に進んでいきたいから変えていく。



相手がいい方向に進むことや
変わっていくことはなんなら嬉しい。

応援したいと思える。


だからこそそう言った時に


「親」と言う絶対的なものが
人の心の柱になってる重要性や意味を

思い知らされる。



普通ならば親という実家は
お互いがどれだけ変化していっても


帰る場所として存在しているもの。


親のが先にいなくなるが
それを子が見届ける。


その絶対的な柱の「親」


それがないから
なんとか支えとなる居場所

安全地帯を探すのだけど

どれだけいい人に出会っても

「親」以上のものはないわけで。


他人である以上
越えられなくて当たり前。


しかも私の場合
自分から手を離した。


今でも母親からの
ごめんね、許して欲しいという連絡がくる。


謝られると私が悪いことをしているようで
罪悪感に襲われる。


謝って欲しいわけじゃない。

自立して欲しいだけ。




私が親と関わろうとすれば
実家はある。



ただそれをしたら
共依存の共倒れだ。


だから私は他で安心を求める。


生きていかなければならないから。



守りたいと思える
旦那との家庭がある。


いい加減
自分を生きたい。




「親」という柱は抜けているけど
周りの支えとなる人たちに関わりながら

私は生きていく。



負けるもんか。

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