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「推し」を人質から解放せよ/跳躍する時間を僕らは(20210613日記 映画『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を見た)

同じ時間を生きなかった貴方へ

 「推しを人質にとられる」って誰かが言ってるのを聞いたことはある? 「推し」の定義について話すのはまた別の機会にするけど、これはあらゆるコンテンツの観客に「推し」文化が拡散した際に付随して広まった考え方で、最初に言い出したのは舞台俳優のファンの可能性が高い気がするんだけどどうかな。「推し」の出る舞台に、さまざまな思いを抱えて足を運んだことは、演劇の観客をやっていれば一度や二度ではないと思うし。

 観客としての僕たちは、鑑賞対象としての作品に本来なんの責任もない。例えばテレビ番組なら、録画して好きなシーンだけ何度も見ていいし、倍速で見たっていい。メディアミックスされてるコンテンツだからって全容を把握する必要もない。映画ならチケットをもぎられた時点で、入場特典を受け取って映像を見ずにそのまま家に帰る権利だってある。

 けれども演者やコンテンツそのものを「推す」、対象に対する能動的なベクトルを観客が持った時、全てを等速の時間で目撃しないことに対する罪悪感が芽生える。その罪悪感には何の根拠もないのだけれど、根拠がないからこそ純粋なものにも思えて、自分自身を燃やし尽くしながら今を生きる活力にもなる。等速の時間を生きたいのに、僕らのベクトルは「推し」のいた時間へと直交し、T字型をした不連続な関係が、あたり一面に散らばっていく。

 観客がそれぞれに生きた時間と、演者の生きた時間が、強制的に揃ってしまう芸術がある。歌に踊り、そして舞台演劇。自分と本来的には何の関係もない人と、同じ時間を生きる体験は、僕らを罪悪感から解放する特別なものに思えて、けれどほとんどの観客にとってそれは、かつて過ごしたことがある既知の時間だ。時間割とチャイムで区切られた学校生活という形で苦しさも楽しさも僕らはもう知っている。知っているのにまた最初から始めようとしている。パフォーミングアーツの演者と向き合うことは、観客にとって常に再演の形をとっているのかもしれないと思う時も、ある。

 歌と演劇と学校生活と殺し合いが詰め込まれた映画が今、劇場公開されている。『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を見たのは、僕に普段から映画館で映画を見る習慣があるからで、予備知識も何もなくチケットを買った。つまり「推し」を人質にとられていなかった。これから書くのは、そういう観客としての、僕の想像であり、日記であり、評論であり、考察ではない。

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

 愛城華恋は、12年前に幼馴染と見た舞台『スタァライト』に憧れ、名門、聖翔音楽学園の99期生としてレッスンに励んでいる。彼女のクラスに転校してきたのはその幼馴染、運命の舞台のチケットを交換した相手、神楽ひかりだった。ある夜、ひかりが寮を抜け出すのを見かけた華恋。追いかけた先の学校、地下に隠された劇場で、ひかりが同級生相手に凶器を手にして戦いながら、『スタァライト』を歌い、演じているのを華恋は目撃する。謎のキリンが主催する「オーディション」。そこで行われる「レヴュー」。「オーディション」の勝者がスタァになれるとキリンに告げられた華恋は、「オーディション」に飛び入り参加し、あかりと共にスタァになることを目指す。

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、舞台公演を基幹に据えたブシロードのコンテンツで、先に書いたのがテレビアニメ版の導入になる。子供だけが知る現在進行形の都市伝説と演劇、そして12年ぶりに現れる少女というイメージは恩田陸の小説『六番目の小夜子』を下敷きにしているのだろうし、肩にかけた上着を切り落とされたら負け、というオーディションのルールはアニメ『少女革命ウテナ』を思い出させる。錯綜した大量の引用によって背景情報を飽和させるのは現代演劇のオーソドックスな手法で、演劇以外でもよく見られるものだ。

 同じ演目の舞台を何度も見る理由として「舞台はなまもの」「その時の演技はその時しか見れない」などの謳い文句があるが、それらが嘘ではないとしても、単に等速で人間が処理できる情報量を超えるように作られているからという理由もある。演劇を題材にしている『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もまた、そのように作られている。

 では映画という表現形式は? 映画は基本的に風景で構成されていて、風景とは理屈によって成立した画面のことを指す。例えば背中を向けて立っていた二人の人間が、カットが切替わった瞬間抱き合っている。カットの間には、登場人物の気持ちの変容があったはずなのに、僕たちは目撃していない。しかしその映像を見て、確かにその時間があったと確信し想像することができる。繋いだカットを相互に無関係と感じさせないまま観客に跳躍を行わせることに映画の快楽があり、変容の時間、つまり理屈が存在したことさえ確信できれば、具体的な想像をするかしないかは問われない自由があるのが、映画の観客だと言ってもいいかもしれない。SF小説を読む時、手元にノートを広げて計算を行う必要が必ずしもなく、時間と空間を跳躍するスペクタクルに心躍らせる自由があるように。

 繋がれた風景により進行する映画とは違い、舞台演劇は台詞によってのみ進行する。舞台演劇で演じられるのは、映画でカットの対象となる変容の時間だ。しかし、映画だからといって全てがカットされる訳ではない。徹底的にカットを行った結果、どうしてもカットできない時間を見つけ出すことにもまた、映画の快楽はある。そのことを描いた作品としては現在公開中の劇場アニメ『映画大好きポンポさん』がわかりやすい。

 視覚としての演劇は、映画の風景のような、確信を要請し想像を必ずしも求めない機能を持たない。むしろ積極的に想像させる機能だけがある。『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の画面は演劇的に構成されていて、強烈なイメージを観客に向かって叩きつけてくる。理屈を確信しようとすると大混乱に陥る。舞台の背景、そこにたどり着いた過程のない意味だけが存在するものとして向き合えば、一旦混乱は収まる。しかし、大量の意味をその場で咀嚼することは等速で生きる僕らにはできないので何も解決しない。求められた想像を行う義理は、映画の観客にはない。もしあるとすれば、その観客が積極的に楽しさを見出すことに長けた趣味人であるか、でなければ「推し」を人質に取られている場合くらいだ。過去のコンテンツに触れていない僕らはそんな関係を結んでいない。

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』に映画の観客として付き合う理由はあるのか。それはこの作品が映画なのかという問いでもある。絶対にカットできない時間を繋いだフィルムとして構成されているという宣言は作中にあるのか。もしあるとすれば。スタート地点にたどり着きました。もう少しお付き合いください。

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』

「オーディション」から1年が経ち、華恋たち99期生は3年生になった。それぞれの進路面談の様子が映されるが、ひかりは既に自主退学しており、彼女と共にスタァになることを目指していた華恋は、白紙の進路希望票を提出している。

 歌と演劇と殺し合いの時間「レヴュー」では、T字形に貼られた養生テープによって示される舞台の中心にたどり着き「ポジションゼロ」を宣言した者がその回の勝者となる。同じ時間を生きたクラスメイト達が、一つしかない役を奪い合うオーディションの場で敵になることを示した凶器は、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』においてはフィルムをカットする道具としての新しい意味を与えられている。演劇的な等速の時間である学校生活の終わりが近づいている。可能性の塊だった少女たちが、進路を選択し、どうしてもカットできないもの以外の全てをその手の凶器で切り捨て、映画的な時間へと移行していく。幼年期の終わり。あるいはアドレセンスの黙示録。

 この映画におけるどうしてもカットできない時間とは何か。それは「あなたと永遠に全ての時間を共有することはできない」ことを痛みをもって受け入れ、新たな関係を結び直す為に、百合カップルが台詞を発し対話する変容の時間「レヴュー」だ。最も演劇的な時間が、どうしてもカットできない映画の時間として繋がれる。地下劇場に貼られていたT字形の養生テープは空間を跳躍し、舞台少女達の乗る丸ノ内線から、新たなレヴュー「ワイルドスクリーンバロック」が開演する。

 演劇は台詞によって進行する。前段で何の前置きもなく言ったが、このことはテレビアニメの最終話でも提示されている。12話、悲劇『スタァライト』の舞台に幽閉され、繰り返し同じ台詞を発し続ける「死んだ舞台少女」になったひかりを救う為に、華恋は再び、飛び入り参加で舞台に立ち、新しい台詞を発し、対話による変容の時間を発生させて『スタァライト』を悲劇ではない新たな舞台として再演する。
 百合カップルの対話による変容の時間を描く作品としては、同じく演劇を題材としたアニメ『ゲキドル』が記憶に新しい。

 対話によってひかりを生き返らせ、共にスタァライトの舞台に立つ夢を叶えた華恋。その1年後、劇場版では再びひかりを失い、次の舞台を、次の台詞を見失っている。台詞を発さない役者に演劇の時間を進行させる力はないが、いま流れ始めたのは映画の時間だ。カットが繋がる限り進行は止まらない。

電車は必ず次の駅へ
では舞台は? あなたは?

 かつてひかりと交換した髪飾り、運命の舞台のチケットだけをともにして、華恋は電車に揺られる。ひかりから送られてきたメッセージ「私たちはもう、舞台の上」。運命の舞台のチケットは華恋の手元に未だあり、もぎられていない。既に『スタァライト』は終演し、ひかりは去ったのに。舞台を降りた華恋、生きていないのに死んでいない彼女の旅。12年前にひかりと出会った瞬間から現在を回想する星巡り、フィルムと同じく進み続け次の星へと辿り着くための銀河鉄道に、観客は付き合う。

 以下に寺山修司が提唱した市街劇についての文章を引用する。

はじめ路上、あるいは広場で、一人の俳優と一人の観客とが出会い、チョークで劇場を作る。「一メートル四方一時間国家」が、次第に「二メートル四方二時間国家」「四メートル四方八時間国家」と拡大されてゆき、日没時には町全体が劇国家の中で虚構化をはたすという構造を内包するものであった

 2人の人間がいた時、そこに発生するのはまず、俳優と観客の関係だ。観客がいなければ舞台は成立しない。12年前に出会った時、ひかりはお姫様、役を演じる俳優として挨拶をし、華恋は役ではなく観客としてそこにいた。しかし華恋は挨拶を返した。出会いの瞬間に2人は俳優と観客ではなく共演者となり、同じ舞台の上にいる役者として、その時間をシンクロさせた(カスタネット)。

 共演の運命を交換したひかりが引っ越し、ロンドンへと去った後、小学生、中学生と歳を重ねても華恋は演劇を続けていた。ひかりの近況は知らないが、きっと同じように演劇を続けている。同じ空間にいなくても等速の時間を生きていると、何度も不安を感じながらも信じ続けて。

 電車はやがて、終点にたどり着く。そこで待っていたあかりの口から、12年前、そして今、華恋の元を去った理由が台詞として発声される。「ファンになるのが怖かった」。華恋を「推し」てしまうこと。いつか『スタァライト』の舞台で再会する運命の交換は、ひかりにとっても、その目標がある限り共演者でいられるという願いであったことが明かされていく。

 寺山修司は囲われた空間が拡張していくことで全世界が劇場になるイメージを提示したが、今作において舞台を宣言するのは点、T字形に貼られた養生テープだった。立ち位置を示す目印に過ぎなかったはずのT字テープが、アイドルのセンター概念とも合流し、かつて「オーディション」で奪い合ったスタァの座を、役を、舞台を、少女自身を「ポジションゼロ」という発声とともに定義する。「ポジションゼロ」は一つではない。そのことは最初から、画面に氾濫する意味の中に提示されている。

 共演者として「ポジジョンゼロ」を共有することで過ごしてきた等速の時間との別れ。それぞれが「ポジションゼロ」を宣言し、同じ時間を生きなくても、同じ空間にいなくても、共に生きていることを華恋が確信し、台詞を発した時、『スタァライト』は映画になる。観客にとってもまた。

 舞台演劇を見るのは面白いが、面白さにたどり着くのはしんどい。面白さにたどり着くための跳躍を行う燃料となってくれるのが「推し」だが、それと引き換えに観客は等速の時間を過ごし続ける権利があらかじめ失われていることに気づき、痛みを負う。『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は映画のように演劇をみることの提案を行っている映画として受け取ることができるが、それは等速の時間と空間を生きなくてもあなたと共に生きているという、観客にとっての希望であると同時に、ブシロードコンテンツ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を特段推さなくていいと言う宣言に等しい。金銭の、時間の、思考のリソースを占有しなくてもいいが無責任に楽しんでくれていい、その時だけ楽しみ代を払っていってくれよな。本当にそんな関係が成立するのか。実際のところ、舞台って面白いよな、またそのうち見に行こうという気持ちは湧いているが、今後ブシロードコンテンツを追っかけるぞ! という気持ちはこれっぽっちも湧いてきていないのだ。

 この映画は観客をひとつの罪悪感から解放してくれる。しかしその先、「推し」を人質にとる以外の新たな関係を結べるかについてフィルムが提示してくれているかどうかを、僕はまだ想像できていない。キャラクターに対して、遊園地のキャストさんに対するような感謝はあるが、それ以外の気持ちは特にない。3回見てもコンテンツそのものへの興味は湧いていない。だから今週末も映画館へ足を運ぶつもりでいる。新しい関係の実在について想像する為に。

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