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20230113日記(カラオケとtiktok)

現代演劇においては、伝えるべきことなど何もないのだと言うと、よく、ではお前は何のために芸術表現をやっているのかとお叱りを受ける。私は、その際には、次のように答えることにしている。
「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」 
繰り返すが、伝えるべきものがないというのは、伝えるべき主義主張や思想や価値観は、もはや何もないということだ。だが、伝えたいことなど何もなくても、私の内側には、とめどなく溢れ出る表現の欲求が、たしかにある。
平田オリザ『演劇入門』

昨日友人から、駅前でNewDaysの窓ガラスを鏡代わりにしてダンスの練習している子たちがいたよとLINEが送られてきて、そういえば中野に住んでた10年前は毎日そういう子達を横目に見ながら帰宅してたなと思い出していた。

明かりの消えた建物の、窓ガラスを鏡代わりにして練習する姿は別に最近現れたものというわけではなくて、ダンスは他人から視覚的に受容されるものだからその練習には自分が何を表現しているのかをモニタリングする為の大きな鏡が必要なのは当たり前だ。この30年のダンスの隆盛で、手軽に使用できるレンタルスタジオは増えたとはいえ、公共施設などの大きなガラスを使うストリートの文化は別に消えたりせずこれからも目にすることはあるのだろう。

夜の街、鏡となるものがある公共空間ではダンスが発生する。そんな前提が例えばあったとして、しかしそれとは逆に、東京を歩いていて昼間に鏡のない場所で踊る子を見る機会がここ数年で大きく増えたという実感がある。窓ガラスに写る自分を見ながら踊ると必然的に歩道に背を向けることになるが、昼間に踊る子たちは逆に壁に背を向けている。目の前を通る通行人に向かって踊っているわけではない。目線の先には動画を撮影するスマートフォンがある。

tiktokに代表される、ダンスのショート動画を撮影してアップする営みのことを、僕はダンスのカラオケ化なのだろうなと感覚的には受け止めていて、しかし具体的は考えたことがなかった。昨日ふと、自己表現の自己受容という点で共通点を整理できるのかなと思ったのでこれを書いている。

ポップスの歌唱に求められる最低限の条件は、マイクに向かって声を発すること、このひとつだけと言って良いだろう。電子音響技術は英語ではPA(Public Address)と呼ばれ、その語義通り声を広く遠くに届けるためのものだし、かつては小さな音でもよく響くコンサートホールと、恵まれた身体と技術を用いた大きく響く声によって達成されていた観客に届けるという目的を、声が出るなら誰でも行えるようになり発展したのがポップミュージックである、と言い切ることに、さほど飛躍はないと思う。

ではカラオケは何なのかというと、電子音響技術以降に生まれたポップミュージックの技術体系に基く誰かに届けるための歌唱を、自分自身で受容するホビーだと言える。自分に聴こえる自分の声と他人に聴こえている声は別のものだが、カラオケボックスの狭い部屋の中ではおおむね一致する。

描いた絵は自分で見られるし、自分の歌を反響させて自分で聴くことはさほど難しいことではないが、ダンスは第一の観客としての自分自身を想定しづらいという点に特徴があり、それが覆されたのがほとんど全ての人が自分自身を撮影する為の端末を持っている現在なのだろう。tiktokでダンスを撮る営みは、それをアップロードすることよりも、手本にした動画と同じように踊る自分を受容することにまずは比重があるんじゃないかなと外から見ていて感じている。

自己表現を自己受容する痛みを乗り越えて、誰かに向けて表現することにたどり着くためのツールが増えていることは、他人の表現を目に、耳にすることを趣味としている僕らにとっては歓迎すべきことだと思う。まあtiktok自体はそこまで頻繁には見ないんだけど、そこから生まれるものをありがたく享受していきたい。

ということで、今年も主にパフォーミングアーツと映像作品の話を書くかと思います。今年もよろしくお願いします。

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