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「ミッドサマー」と「ガープの世界」/「ミッドサマー」ディレクターズカット版【映画の感想】


 東京に緊急事態宣言が出る前に、映画館で最後に観たのが「ミッドサマー」通常版でした。なんだこの映画! と良くも悪くも衝撃を受け、同じく衝撃を受けたであろう人々の感想や考察を読みふけりました。そうしていると、ディレクターズカット版(以下、DC版)を観れば、通常版ではややわかりにくかった主人公の心情の変化がより理解しやすいらしい、ということがわかりました。じゃあ、DC版も観にいくべ、と思っているうちにあれよあれよと新型コロナウィルスの感染が拡大し、このタイミングで映画館行くのどうなの、と思っていたら緊急事態宣言が出てしまったのでした。
 宣言が解除され、DC版の上映も再開されたので、さっそく観にいきました。緊急事態宣言中に観た映画の感想を書くと言いつつ、いきなり解除後に観た映画について書いてすみませんが、「語りたいことは気持ちが熱いうちに語れ!」を基本方針に、さっそく感想を書いていきましょう。
 以下、ネタバレもありますので、未視聴の方、ネタバレが嫌いな方は気をつけてください。また、長文なのでお時間があるときにどうぞ。

<公式サイトによるあらすじ>
 家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる「90年に一度の祝祭」を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。


 ホラー映画に興味のないわたしが、グロい映像とホラー的要素が多いにも関わらず、観おわった後もこの映画のことをつい考えてしまうのには二つの理由があります。
 一つは、主人公・ダニーの境遇と恋人クリスチャンの関係について。もう一つは、たくさんの暗示と伏線と疑問について。

◇ホラー映画の背景にある物語


 映画の冒頭でダニーは自分以外の家族全員を亡くします。悲嘆にくれるダニーが頼れるのは恋人のクリスチャンだけなのですが、彼はつきあって4年ほどの間に、ダニーのケアをすることに疲れ、友人からは別れを勧められるものの、彼女を見捨てることができずにいます。一方で、クリスチャンは人類学を専攻しているものの、あまり熱心でも優秀でもないらしく、ホルガ村に着くと、論文執筆に熱心な友人のジョシュに乗っかって、さも以前から考えていたかのように自分も同じテーマで論文を書くつもりだと言い出します。
 なんていうか、クリスチャンはどこにでもいそうな若い学生という感じです。確かに、人の論文のテーマを盗むなよ、とは思うけど、それほど重大な瑕疵があったようには思えません。少なくとも、あんな結末を迎えなければならない因果があったようには思えない。
 それなのに、最終的にあんなことになってしまったのは、やっぱりホルガ村のせい! なのかも。
 白夜が続き体内時計が狂いがちなところへ、外部の人間には理解不能なグロテスクな儀式を見せられ、ちょくちょく薬(と陰毛と経血)を盛られ、あげくの果てには村の娘に精子をむりやり取られちゃってとても気の毒です。

 ダニーはダニーで、クリスチャンとの関係がすでに機能していないことに気づかず(あるいは、気づかないふりをして)、その関係性にしがみついています。でもこれもダニーの境遇を考えたらごく当たり前だし、もしもホルガ村へ行かなければ、二人にはそれなりに穏当な別れ(この映画の結末よりは、ってことですが)が訪れていたと思います。ダニーは嘆き、また引きこもったり精神安定薬が必要になったりした可能性は高いけど、後から我に返ったときに、自分の選択に衝撃を受けるようなことはなかったはず。これもホルガ村のせいだ!
 まあ、「ホルガ村のせい!」と言いつつ、90年に一度の夏至のお祭りを見にスウェーデンの奥地に行かないことにはこの映画は始まらないのですが。そして、ダニーが「後から我に返」るようなことはおそらくないだろうと、わたしは思ったのですが、その理由についてはのちほど書きます。

 もともと破綻していた二人の関係は、ホルガ村にやってくることで、より悲惨で、より大きな傷を残して砕け散りました。この二人の物語が、いっけんただのフォーク・ホラーである今作に厚みを加えていると思います。


◇「ミッドサマー」と「ガープの世界」、そしてダニーは魂の夜をくぐり抜けられたのか

 作中には、アリ・アスター監督が事前に徹底的にリサーチしたという、世界各地の宗教や民話、物語の要素が、ホルガ村の儀式や言い伝えとしてたくさん出てきます。
 ホルガ村の住人の衣装はかわいいし、お花の冠がとても素敵だし、ルーン文字は雰囲気があってかっこいい。村人が意図的な近親交配で生まれた障害児を予言者扱いするのは、日本人なら金田一耕助が訪れるどこかの閉鎖的な村でもありそうな設定だな、とすんなり理解できる。
 また、最初から、場面転換に画面いっぱいに現われる絵、村の建物の壁に描かれた絵、干されたタペストリーに描かれた絵によって、その後の展開が明示されています。通常版を観た時はストーリーを追うのに一生懸命で見逃していたものが、二回目のDC版では細かく確認できました。

 通常版になくてDC版にある場面として、祭りの1日目の儀式の後、先に部屋に戻ったマークがラジオを聴いている場面があるのですが、その内容が、「車の中である男が女にフェラチオをさせていたが、そこに後続車が突っ込み、衝撃で男のペニスが根元から食いちぎられた」というものでした。
 すぐに、これ、そのまんまジョン・アーヴィングの小説「ガープの世界」に出てくるエピソードじゃん、と気づきました。
 でも後の展開のどこにかかっていたのか映画を観てすぐにはわからず、この文章を書くために「ガープ」のwikiをちょっと確認してみたら、そうでした!
「ガープの世界」では、主人公のガープの母親は、子どもは欲しいが夫はいらないと決心し、看護していた負傷兵(脳に銃弾が当たり、なぜか常に勃起状態を維持したまま意識不明の植物人間状態)と性行為をし、というか、勝手に精子を盗み、ガープを身ごもるのです。
 生殖目的だけの性行為、精子提供者としてだけの男性。
 つまり、このラジオのニュースは、後にクリスチャンの身にふりかかる出来事を暗示していたんですね。
(ちなみに、「ガープの世界」で、フェラチオをしていた女はガープの妻で、ペニスを食いちぎられたのはその浮気相手だったと思います。浮気をしたうえ、そんな事故(?)まで起こした妻と、ガープは離婚せずその後も人生をともに歩んでいきます)

 

 それと、通常版ではばっさりカットされていた、祭りの2日目か3日目の夜、ホルガ村の住人による寸劇を見学したのち、ダニーとクリスチャンが喧嘩をする場面。

 白夜の時期のスウェーデンのはずなのに、真っ暗なのです。

 ダニーたちがスウェーデンを訪れてから夜の描写はほとんどありません。最初にホルガ村近くの原っぱでドラッグをやったときにダニーが幻覚から気を失い、目が覚めたら朝だった、という場面では、ダニーが失神する前に真昼間のような明るい中で「いま、夜の9時」というようなセリフがあったので、少なくとも夜9時ごろは昼間と同じくらいに明るいはずなのです。
 でも、この場面では、夜は真っ暗で、そこにあるのは映画冒頭の真冬の季節と同じくらい深く暗い闇なのです。

 はじめは、まさかとは思うけど、白夜の設定を忘れてうっかり夜に撮影しちゃったのかな? と思ったのですが、緻密に暗示や伏線を張り巡らせるアリ・アスター監督がそんなわかりやすい間違いをおかすはずがありません。それに、もし本当にミステイクなら、わざわざDC版にその場面を入れはしないはず。
 おそらくここは、これを契機にダニーがクリスチャンの真の姿に気づき、クリスチャンとの関係に根源的な疑問を抱く、あるいはそこに見える自分の姿に向き合うという、「魂の夜」的な意味合いのシークエンスなのだと思います。
(「魂の夜」とは、人間が自分ひとりで向き合わなければならない孤独の時間を意味します。どんなにつらくても、傷ついていても、人はその漆黒の時間をしっかりと自分の足で通り抜けないといけないのです。何かの小説か映画か、はたまた作家のエッセイでこの言葉が出てきた気がするのですが、いま検索してみても見つかりませんでした。そのうち出典が思い出せたら追記します)
「魂の夜」を実際の夜の闇として描くという、ある意味ではそのまんまだけど、白夜の北欧が舞台であるからこそ活きる暗喩なのです。


 果たして、ダニーは「魂の夜」をうまく通り抜けることができたのかどうか。

 これは解釈が分かれるところだと思います。
 この翌日、ダニーはメイクイーンを決めるダンスバトルで勝ち抜き、外部の人間であるにも関わらず今年のメイクイーンに輝きます。
(話はそれますが、このダンスバトルの時の、ダニーや村の若い娘たちの花冠や白いドレスが本当にかわいくて、わたしは最初の通常版はこの場面だけを楽しみに観にいったと言っても過言ではありません。ホラー部分は目をつむってやり過ごそうと思っていたのに、思わずはまってしまったのが「ミッドサマー」の怖いところです)
 祝福する村人たちにいざなわれて、メイクイーンとして食卓へ向かう途中、ダニーは村人の中に母親の姿を見たような気がします。また、神輿に乗せられて進むシーンでは、背後の山に亡くなった妹の顔が浮かび上がっています。これは、母や妹とは違って、ダニーが女性としての誇りや強さを獲得することができた、という意味にとれると思います。つまり、ダニーは「魂の夜」を勇気をもって切り抜けることができたのだ、ということです。
 しかしその後、クライマックスに続く怒涛のあれやこれやで、結局、ダニーはクリスチャンに対してこれまでの意趣返しととれるような選択をします。ダニーは苦しんで発狂したように泣き叫ぶけれど、最後の最後には、なんだかせいせいしたような表情もしています。最終的にそんな選択をしてしまったダニーは、やはり「魂の夜」をくぐり抜けられなかったのだ、とも言えそうです。


 この映画を観おわった後で、観客は、「9日間続く祭りの4日目だか5日目のところで映画が終わってしまっている」ことに気がつきます。この時点で、ダニーを残して、外部から来た人たちは一人残らず姿を消して(消されて)しまいました。
 この文章の前半で、ダニーが「後から我に返」るようなことはおそらくないだろうと書きました。なぜわたしがそう思ったのか。また、ダニーが「魂の夜」を通り抜けることができたにせよ、できなかったにせよ、彼女は最終的にどうなってしまうのか。
 その答えは、公式インスタグラムに乗っていたこの絵(ポスターかな)にあるかもしれません。

 それにしても、新型コロナウィルスの騒動がなければ、今ごろスウェーデンに夏至祭を観にいく観光客はたくさんいたんでしょうね。わたしもコロナが収まったら、夏至祭を観にいってみたいです。もちろん、ホルガ村じゃないところに。


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