見出し画像

マスクを外せ!同調圧力をブチ壊せ!!

3月13日からマスクの着用が個人の判断になりましたが、大半の人がマスクしていますね。

様々な生活の事情がありますし、花粉症が猛威を震ってますから、個人の判断なのでつけたい人はもちろん着けたらいいです。

しかし実際にはマスクを外したいけど、周りの人が外さないために仕方なくつけている人も一定数いると思います。街を歩くと、約8~9割の人がマスクをしていますが、すべての人が花粉症だとは考えられません。また、花粉の量が少ないはずの雨の日でも、変わらずマスクを着用している人が多いです。
僕個人はマスクの同調圧力はもう無くなったと思っていますが、まだ感じている人が多いのかもしれません。

マスク着用は個人の自由なので、同調圧力に屈するのも個人の自由なのですが、空気に流されやすい日本社会の空気は、世界情勢が不穏になってちょっと世相がおかしくなったら「全体主義」に陥る温床なってしまう気がします。
この同調圧力の強さ、人々の流されやすさは日本の病理ではないでしょうか。

次にこのようなことがあったときのため、同調圧力から脱するにはどうすればいいのか考えてみました。

同調圧力の原因 
人は社会的なら生き物ですので、どんな行動を選ぶかは自分の個人的な考え方のみならず、周りの人々や社会的な状況に影響を受けます。

特に不確実な状況に陥った際、選択すべき明確なことを自分で判断できない場合、他人の意見や行動を参考にする傾向が強くなります。

コロナ禍の場合、マスコミが、視聴者がみずから判断できる客観的な情報を与えずに、恐怖心を煽るような報道を繰り返しました。
ツイッターでは賛否両論の過激な意見が飛び交っています。
(ネットにわざわざ書き込む人はその事柄に関心が高めので、一般的な意見より過激な意見になりがち)

このように繰り返し見聞きすることで、誰もはっきり言っていないけれど、平均的な意見が頭の中にぼんやりと形成されます。

逸脱した行動を避け、他人からの揶揄や指摘を受けたくないため、誰もがこの基準を満たすと思われる対策を始めます。

空気を読めない者への罰
では、同調圧力に逆らったらどうなるのか。
誰かに注意される可能性があり、激昂される可能性もゼロとは言えません。

鋼鉄のハートの持つ強者もいるでしょうが、普通のひとにとっては嫌な気持ちになります。

そのため、人々はクレーマー的な人に文句を言われない基準で対策をとります。

健康な人にとってマスクを続けて着けることはそこまで不快ではなく、春先には息苦しさを感じる程度です。
少しの不快感に耐え、周りに合わせます。

しかし、これがまた厄介で、みながそれをやるとそれを我慢するべきという空気がいつまでも打ち破られない。
社会を構成するのはわれわれ1人1人なのですから、社会がどうあるべきかは個々人が微力ながらも意見を表明し、それが集まって形成されるべきですが、実際は何気なく生まれた意見に同調してしまう。

・同調圧力をぶち壊す!
まずはどんな同調圧力に曝されているか自覚する必要があります。

前提として、私たちは社会の一員として認めてもらいたいという欲求があります。
学生時代は落ちこぼれにならないように勉強しろという圧力に曝されて、会社では使えないやつとになりたくなくて一生懸命がんばってきたわけです。
私たちは共同体から追放されることを恐れています。

学校からドロップアウトしたり、会社に属さない生き方を選ぶ人もいます。
しかし、それにしても学校から抜けて不良グループに属したりするように、違う共同体に移動するだけであり、いずれ誰もがなにかしら共同体に生きています。

そして私たちは「日本」という大きな共同体に生きています。
今回はこの共同体から同調圧力を受けました。

なぜ私たちは共同体から追放されるのは恐れるのか。それは共同体に属する利益や、逆に属さないことによる損失があるからです。

身近なところで想像すると、たとえば会社で周りの人に嫌われたりしたら、仕事が協力してもらえなくなったり、悪い評判が流されてしまったりする可能性があります。それにシンプルに精神的に苦しいです。会社で嫌われることの損失があることは明らかです。

この実際的に身に降りかかる損失や苦痛への恐れがある一方で実際はそんなに損失があるわけでもないのに勝手に過剰に必要以上に恐怖心を抱くときもあります。

まさしく今回マスクを外せないーって人はこのケースに当てはまると思います。

実際、3月13日以前ならノーマスクで過ごしていたら、変な人に絡まれることもあったでしょうが、いまはその可能性はだいぶ低いです。
もし絡まれても個人の自由との、政府の見解があるのでマスクしていなくて文句を言われる筋合いはありません。

しかし、待ってください。
仮に日本社会から失格の烙印を押されたとしてそれが何だと言うのでしょうか。

もし電車で知らないおじさんに「お前は社会のゴミだ」と言われたところで、別にそれはそのおじさんの個人的な意見であって、社会の総意でもなければ、社会から追放されるもされません。急にそんなこと言われてムカつくけど、冷静に考えたら私には何の損失もありません。
じゃあ、何を恐れているのか。

変なやつに絡まれて怖いってのが一番大きい怖さですが、潜在的に私たちに刻まれている共同体から追放される恐怖心があります。

潜在意識に刻まれた追放される恐怖。
昔の共同体は、現代社会と比較して相互依存関係が強かったため、共同体から追放されることは、生存に対する重大な脅威を意味していました。

狩猟採集社会や農耕社会など、人々が密接に協力しながら生活していた時代では、共同体から追放されることは、食料や保護、そして社会的な支援を失うことを意味していました。
近代社会よりも、永い永いその時代は私たちのDNAに未だ消えない恐怖心を刻みました。

しかし、いまの社会において共同体から追われることは生存の危機を意味しているわけではありません。

ましてや、誰かに文句を言われたとしても社会から追放されるわけではなく、多様な人々の中の個人の意見でしかありません。
それに従う義務も理由もありません。

ましてや、誰かに文句をつけられたところで社会から追放されるわけでもなく、多様な人々の中の一個人の意見でしかなく、それに従う義務も理由もありません。

・自分の意見をもつ
同調圧力に逆らうためには、どんな同調圧力を受けているのか自覚する必要があります。
どんな強制力が働いていて、それは共同体にとってどんな意味があるのか。考えます。
共同体にとって同調圧力は意味は、多くの場合、一貫性を保つため、円滑な運用のためです。

同質性の高い共同体ほど、異質な意見や、空気を乱す行動する人を排除しようとします。

それに対する自分の意見をもちます。
同調圧力が共同体にとってある程度の意味があるとして、それは個人の自由を奪ってまで守るべき秩序なのか。

そして最後は勇気をもつことだと思います。
自信を強化するために同じ意見をもつ著名人の発言をフォローする事も有効です。

社会の秩序は大切だとしても、常にそれに迎合することが正しいことではありません。
社会全体がおかしな方向に向かっている時は、反社会的な態度がとることがむしろ正義だと思います。

・異質さを包摂する社会へ
同じ言語や価値観を共有する日本のような同質性の高い共同体では、コミュニケーションが円滑に行われることが多いです。前提となる価値観が一致しているため、明示的に言わなくても理解し合えることが多く、目的や方向性が共有されている場合は力を発揮します。しかし、状況が変化した際に全体の方向性を変えることが難しく、共同体全体が危機に瀕することがあります。
コロナ禍は日本社会の脆弱性を露呈した気がしています。

一方で、異質なバックグラウンドを持つ人々が集まる多様な共同体は、状況の変化に対応する柔軟性があり、生き残る可能性が高まります。

多様な意見を受け入れ、寛容に耳を傾ける社会の雰囲気が必要です。自分と違う意見を不快でも脊髄反射で排除しないで、建設的な議論ができる環境を整えることが重要です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?