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恋って何だ_本題

 この記事を壮大な前フリとして私が言語化したいことはいろいろあるのだが、一番は「恋とはなんぞや」ということである。


 先の記事にも書いたが、私は恋をしていた。そのきっかけは子育てという人生の目標を達成するという打算的なもので、この考えを根っこにして自分の交友関係を洗い出した結果、現段階でいちばん仲のいい異性である彼に、「付き合いたい人」という白羽の矢が立ったのだ。

 が、この時点で私は彼のことをほぼ知らない。ほぼ知らないまま関係性だけを考えて付き合いたいと思った。

 しかし、付き合いたいと思うと彼への興味は増すもので、いつ頃からか付き合いたい気持ちが恋愛感情に変わっていた。まだ彼と一度も会っていない、という状況は変わっていないにもかかわらず。

 置かれている状況は同じであるのに、なぜここで感情を履き違えてしまったのかが私の中の疑問の一つだ。恋をするにも付き合うにも相手のことを知らないといけないのに、肝心の相手のことをあまり知らないまま恋心(のようなもの)を抱いてしまったのはなぜなのだろう。彼に振られて心の中を整理しているときにまず出てきたのがこの疑問だ。


 次の疑問は、私は彼に対して何を求めているのかというものだ。先の記事にも書いたが、私は彼と友人関係を続けられることにいたく安堵した。でも、友人関係と私の人生の目標である子育ては結びつかない。一般的に、子育てをするには異性と友人以上の関係にならねばならないからだ。

 それなのになぜ、私は彼と「友人」であることに安堵し、恋が実らなかった気持ちをチャラにできるほどの満足感を覚えているのか?

 その理由はたくさんあるだろうが、まずは彼との関係性を続けられることだ。一緒にいる時間が心底楽しかったので、関係が切れず、一緒にいるという道を歩み続けられることに安心している。

 

 が、ここでもう一人の自分は、「ただ一緒にいるだけでいいの?」と問いかけてくる。友達のまま一緒にいても絶対に達成できないものはあるじゃあないか。もっと具体的に言うと、私は彼と肉体的な関係を結ぶことを望んでいるのか?

 これには正直答えが出ていない。先の記事にも書いた通り、私は実子でも養子でもいいので子育てをしたい。そう考えると、誰かと肉体関係を結ぶことは自分の中の絶対条件ではない。したがって、私が彼に求めているものは肉体ではない。

 

 話は逸れるが、彼に振られたとき、「恋人になって関係が崩れるのが嫌」だということを言われた。おいおい私は関係を崩さないぞ、だって肉体関係は絶対条件じゃあないのだから。

 そう考えると、私が恋人としての彼に求めるのは、肉体ではなく時間だ。一緒にいて楽しい時間をたくさん作っていきたいし、彼の中で私の優先順位が上位であってほしい。たくさん誘っても煙たがらないでほしいし、誘ったときに「都合が悪い」と断るのではなくて、「この日なら空いてるから一緒に遊ぼう」と言ってほしい。


 でもこれは、私が同性の友人に対して抱いている感情と全く同じである。大好きな友人たちと楽しい時間をたくさん共有したいし、誘った日が都合のつかない日なら別の日を提案してほしいといつも思っている。

 じゃあそんな同性の友人と彼の違いは?というと、性別だけだ。私は彼のことも同性の友人のことも大好きだが、彼が異性というだけで、「好き」という気持ちを友愛ではなく恋愛と捉え間違えてしまった気がする。これは私が忌避する、性別で人を判断する行為に他ならない。性別で人を判断するほど浅ましい人間だったのか、自分よ。

 そしてそれは、一緒にいて楽しい異性なら誰とでも付き合えるのか?という疑問にも発展する。が、それは別のお話だ。そこまで考える余裕は今の私にはない。


 また、振られたとき彼に、「言葉の力は大きいから」というようなことも言われた。正直言われたときは全く意味がわからなかったのだが、これは友達に対する「好き」と恋人に対する「好き」の威力の違いを表しているのかな、という気がする。

 友達に対して抱く好き(=友愛)はそれ以上には発展しないが、恋人に対して抱く好き(=恋愛)はそれ以上に発展する可能性を秘めている。彼は恋愛が持っているこの可能性の部分に言及していたのではないだろうか。つまり、私の恋愛感情を受けてしまうと、友人である私と肉体関係を結ぶ可能性が生じてしまう。そのことにノーというために、こうした言い回しをしたのかなと考えている。

 正直私は告白した時にそこまで考えていなかったし、告白した時の「好き」の中に「ヤリたいので一緒にいてほしい」というほどの感情を乗せたつもりもない。元々私は友人に対してとても頻繁に好きというタイプなので、彼に対して言った「好き」は、友人にいつも言う「好きだ〜〜」の延長線上にあり、友愛の意味が多分に込められていたのではないだろうか、と思う。

 また彼に言った「付き合ってほしい」は肉体関係を結びたい、という意味では全くなく、「君の持つ時間をできるだけ多く私に割いてほしい」と同義だ。字義通り、色々な場所に行ったりご飯を食べに行ったりするのに「付き合ってほしい」という意味で、私は彼にこう言った気がする。

 これらは全て振られてからじっくり考えた結果出てきた答えであり、告白する前や返事を待っている間にここまでのことを考える余裕はなかったのだが、「肉体関係云々を考えて告白を断るのではなく、「こいつは俺の時間を割くのにふさわしい」と判断して告白を承諾してほしい」と彼に言うべきだった。もし私が彼にとっても一緒にいて楽しい、つまり自分の時間を割くに値する人間であれば、告白は承諾されただろう。

 時間を割いてほしいという願いを承諾して欲しいのは、彼と私の関係に対する言質が欲しいからに他ならない。今のままラインのやりとりを続け、何とか口実を作って彼を誘い、空いているかどうか分からない日を提案するという交友関係ではなく、口実がなくてもただ「会いたいから」という理由で誘うことを許してほしい。そういう確固とした関係を結ぶにはもちろん時間をかけて関係性を育むことが最も確実だが、その手間を惜しんで最短距離で効率的に彼の時間を欲しいと思っているのが今の私である。


 これらの思考から見えてきたのは、私は彼に対して恋愛感情を抱いていないのかもしれない、ということだ。彼に対して抱いているのはあくまで友愛の感情であるが、彼が異性であるという理由でその感情を恋愛と履き違えてしまったのだと思う。

 それじゃあ、彼と付き合いたいと思い始めてから味わったあのトキメキやキラキラ感にはどう名前がつくんだ?大好きな同性の友人からのラインにときめくことも、大好きな同性の友人と街を歩いて全能感を覚えることもない。それじゃあ彼に対して恋をしているのか?もしそうなら、その恋は多分にプラトニックなものなのではないだろうか。


 が、肉体関係がコミュニケーションの極致である以上、彼ともっと仲良くなっていったら肉体関係を結びたいと思う日は来るかもしれない。恋愛、つまり肉体関係を含む「好き」は、異性がそこまで親密になって初めて芽生える感情なのかもしれない。ならばあまり知らない、まだ友人としても入り口に立ったばかりの彼に対して軽率に告白してしまったのは、かなり浅はかだったのだろう。でも告白して振られて彼の想いを聞けたからこそこうした考えができるようになったわけで、告白したことに対して後悔はあまりしていない。

 

 でもそれじゃあ、とても仲が良くて心から好きな同性と肉体関係を結びたいと思わないのは不思議だ。なぜ多くの人にとって、同性同士のコミュニケーションの極致は会話なのだろうか。これも今の私が考えるには重すぎる内容ではある。


 結局「好き」って何だ、恋って何なんだ!

 多分こんな理屈っぽく考えるものではないのだろう。恋に落ちた瞬間にはそれが恋だと分かるものだ。が、そんな感覚的なものではなく、触れるくらいの具体性を持ったものとして恋を理解したい。今後の私に課された、人生の宿題だ。


 そして、「男女の友情は成立するのか」という人類最大の疑問にも直面してしまった。何の根拠もないが、関係性を続けて仲が深まったら友人以上の関係になるのではないかと思っている。この疑問の答えも人生をかけて探っていこう。



  

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