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カオスの静寂

自らの心の内が、この目の前に映し出される現象=現実だとしたら、
映し出されたこのカオスに登場する人物たちも、自分の投影だというのか。



定期的に激怒する人間。
その内側からにじみ出ているのは、悲しい幼少期を背負ったまま大人になった苦悩。

放つ声だけで私に緊張を与える人間。
声に乗っかっているエネルギーは怒り。

目の前で陽気な笑顔と苦しみの嘆きを数時間おきに表現する人間。

外側へ意識を向け続け、問題のコアには触れないように、何かと理由をつけて“忙しい”を演出する人間。

なにかに熱心に愛情を注ぐ様子を見せる人間。
一見、優しさに満ち溢れたその姿が、本人の抱える問題から目をそらし続けるために依存の対象を作っている様子に映る。
本当に相手のためを想っているなら、その行為は時折“Too much”でそれはエゴ。
依存の対象を変えても変えても、根本的には何も変わらない様子を見せている。

自らの愛し方を知らずして生きてきたから、今更繰り広げてきたルーティンから抜け出せない姿を見せる人間。

内側の声を聞こうとせず、思考で突っ走る人間。

私は、それらの人物が解き放つエネルギーを取り込み、どうしても同調してしまい、自らの内側に“カオス”を生み出す。


『信頼して見守ろう。』

と思う自分と、

『自分と向き合わなければ解決はしないのに、解決策はそれしかないのに、、、
私はこんなにも向き合い続けて変わろうとしているのに、なぜ、彼らは変わろうとしない?
いつまで、私に苦悩を与え続け続けるんだ!』

憤りと、他者をコントロールしようとする自分のエゴに嫌気がさし、逃げ場のない想いに息が詰まる自分。



目の前に繰り広げられる世界

自分自身の内側の情景


結局は、自ら気づこうとしない内側の声を、目の前の登場人物がリマインドしているだけであって、そもそもカオスは彼らによって生み出されたというより、私が所有しているから目の前に現れる。

このカオスは、いつ私の元へやってきたのだろう?

たまに黙っているから存在を忘れるけれど
私はこのカオスを随分前から知っている。

いつまで経っても手放さないでいるから
いつまで経っても目の前に映し出される。

このカオスのメインの感情が、例えば今は“苦しい”であっても、その裏には“愛おしい”があったり、様々な感情が同居しているから“カオス=混沌”。

そして、相まった感情を目まぐるしく表現するカオスの中に入り込んでいくと、そこにはなぜか美しさが存在する。


渦の中心からみる景色は、きっと
パンドラの匣を開けた先に行き着く景色。


その美しい景色をこの眼でしっかりみるまでわたしはこのカオスを内側に飼い続けるのだろう。

エゴも
執着も
必然的に起こる現象に
ただ流れに身を任せるだけ

すべて受け止めて

手放せるときがきたら
自然に去っているものだから





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