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突然の

インスタには友達といえないかつての友達との繋がりが残っている。

そのなかに小学校の同級生という繋がりがある。
その後どういう20数年を過ごしたか全く知らないまま、記憶の中の少年少女たちの食べたランチメニューや家族との休日が流れていくタイムラインを眺めている。

なんとなく生活水準が見え隠れしてしまうので、中にはうわー!?なんの仕事に就いたの!?という暮らしぶりもあって、そのたびに◯◯ッチ昔は乱暴だったのになーなんて思い出したりして、少年少女の姿から今の状態までの成長を勝手に想像して楽しんでいる。

ある日、自分の写真をスライドで流す動画をアップしてる同級生がいた。

その子は私のことが好きだとずーっと片想いしてくれていた少年だ。

その子の初恋は私。

小学生の頃なので特に複雑なことはなく、本当に素直に単純に、私のことが好きだとニコニコしたり照れたりしてくれていた記憶しかない。
私は私で違う男の子をほんのり好きだと思ったりその男の子の好意に縛られることもなく過ごしていた。

今になって思うとあんなに単純な好意を向けられたことはない。
誰かに好きになってもらえた、という思い出は、自己肯定感を高めてくれるというかとても心を温かく支えてくれるものだと思う。

そんなきれいな好意をくれていた男の子が、立派な男性となり夫として父として笑顔で写る画像が数枚さらさらと移り変わる動画。

いつもなら♡をクリックするだけで通り過ぎてしまうことも多いけど、珍しいな?と気になりコメントも開いた。

すると、そこには
亡くなったこととシンプルに付き合いへの感謝の言葉があった。
奥様がインスタにログインしお伝えされているのだろう。

突然、ひとりの同級生の死。

SNSは育児や仕事に追われる中でも手軽に様子を知れて、つかず離れず、視界の端になんとなく他の人の暮らしが入るもので、まるで大きな教室で過ごすかのようなものだ。
その程度の繋がりと言ってしまえばそれまでだけど、私は縁があってのものだと思ってる。

それを実感した。
死を知らせることができるんだな、と。

いいねもコメントするのも何か違う気がして、ただ眺めるだけになってしまったけど
かつての少年にありがとう、と言いたくて
ノートに残すことにした。

なおくん、どうもありがとう

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