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30歳女、職業・週刊誌記者。身を滅ぼす不倫に溺れて

2022年3月2日(水)に発売された小説『シナプス』(大木亜希子著/講談社)を全篇公開します。

タイトルの通り、30歳の女性が週刊誌の世界で奮闘する物語です。

シナプス帯付き

 ボクサーパンツから、わずかに柔軟剤の香りがした。
 先生の奥さんがセレクトしたであろう、ローズの香り。
 それを今夜は私がいただきます、と妙に厳かな気分になる。
 けれども直後に、キャップ一杯の柔軟剤を洗濯機にトロッと垂らす奥さんの姿が眼前にチラつき、私の呼吸は一時停止した。
 そのあいだも先生の舌は私の首筋を行ったり来たりして、うなじは柔らかく濡れていく。
ふっくらとした大きな手が私の両頬を包み込み、耳の裏、鼻の先、唇の順にキスが落とされる。
 彼の唾液は、昔、祖母の家の軒下で食べた干し柿のような味がする。
 一生懸命で、かわいい。
 わずかに伸びた髭も、チクチクとしていて心地が良い。

 その手が今度は私の下半身に伸びて、ぱちんと器用に腰のフックが外される。
 白いスカートがふわりとベッドサイドに落ち、シャボンの香りが辺りに漂った。
 ローズとシャボン。相反する二つの香りは、決して交わることがない。
 まるで私と先生の社会的距離を表している気がして萎えるけれど、感情を押し殺して彼がシャツを脱ぐのを手伝う。
「この柔軟剤って、どこのメーカーですか?」
 つい質問してしまった。
 彼は、困った顔をしながら「わかんない」と言って、私の頭を撫でる。
 子供扱いされた気がして腹が立ち、私はその手を払いのけた。
「生理前?」
 目の前で額に汗をかいているその男は動じず、心臓に届くような強さで私を突き上げる。
「いえ、違います」
 強気に言い返す私を見ながら、彼はおかしそうに笑った。

「最近、夢に君が出てきてくれたら良いなって毎日思っているんだけど、君ったら、ちっとも出てきてくれないの。たまには出てきなさいよ」
「申し訳ないですけど、自重してます」
「なぜ?」
「いつも新鮮な気持ちで身体に触ってほしいので」
 先生が返事の代わりに私を強く抱きしめてきて、息が詰まる。
 顔が崩れてブスになるから、激しくするのは、やめてほしい。
「塔子ちゃんってさ、時々可愛いこと言うよね」
 そのまま彼は、少年のような表情で私を強く抱きしめた。
 大きな男が小さな女をぬいぐるみのように抱え込む構図は滑稽で、でも私は、この滑稽さが好きなのだと思う。

「先生、明日なんの日だか知っていますか?」
「なに?」
 彼は不思議そうな表情を浮かべている。
「なんでもないです」
「そう」
 先生は、私が「なんでもない」と言う時、「なんでもない」の正体を後から追いかけてくることは絶対にしない。
 それがおそらく、彼なりの不倫のルールなのだろう。
 しかし、今年も私の誕生日を忘れられるのは、もう限界かもしれない。
 私はこの男と、互いの誕生日もクリスマスも一生、一緒に過ごせない。
 これまではその事実が、とくべつ惨めなことだとは思ってこなかった。
 なぜならそれは、私が彼の所有物ではないということの証明でもあったから。
 しかし、今夜だけはなぜか、もう終わりにすべきだという声がどこからか聞こえてくる。
 その言葉をさえぎるように、私は少し身体を離して先生を弄ぶ。
 穏やかな角度で立ち上がるそれを見つめながら、私は近い将来、この人と本当に別れることになるだろうと予感した。

シナプス_データ圧縮済み②

 初めて先生の本を手にしたのは、十五歳の春だった。
 放課後、図書室で「今月のおすすめ」コーナーに彼の本が置かれているのを見つけた。
『ハルと老人』とタイトルが付けられたその本は、不慮の事故で父を亡くした少女のハルが、人生を再構築していく物語だった。
 父の葬儀を終えた夜、ハルはひとりで海を散歩していた。すると、白いスーツを着た初老の男性とすれ違う。
 毎晩のように遭遇する二人は、次第にぽつりぽつりと会話めいたものをするようになる。
 彼は五年前に妻を亡くしてから、海辺で波の音を聞くことを日課にしているのだという。
 老人の穏やかな佇まいはどこかハルを安心させるものがあり、彼女は人生に対する素朴な疑問を彼にぶつける。

「私、父親が死んでも涙が出なかったんです。人としては多分、欠陥品です」
 ハルが呟くと、老人は言った。
「君が、君自身の感受性でいることに、誰の許可も要らないでしょう」と。
 その言葉に救われたハルは、少しずつ自分の感情を解放していく。
 いつしか彼女は、老人の力を頼らなくても生きていけるようになった。
 次第に自分の人生が動き出す感覚のほうが楽しくなり、ハルは海に向かう足が遠のく。
一方の老人は、いつまでもハルを海辺で待ち続けている――そんな物語だった。
 当時、実生活で父を亡くしたばかりの私は思いのほか主人公に感情移入し、擦り切れるまでその本を読んだ。
 退屈な教室のなかで。
 放課後、美術部の部室で。
 眠れないベッドのなかで。
 夏の日のプールサイドで。
 身近な人間を失うという怒りに近い哀しみを、いつもその本は優しく慰めてくれた。

 図書室に行くたびに同じ本を借りるので、貸出カードには私の名前ばかりが並んだ。
 司書教諭の女性にもしっかり顔と名前を覚えられてしまい、時々、私達は会話した。
 作者が新作を出すたびに「同じ人の、新しいやつ入ったよ」と、彼女はまるで機密事項を共有するように、こっそり入荷報告をしてくれる。
 言われるがまま読んでみるが、その他の小説は恋愛モノばかりで、正直よく分からなかった。
 しかし、『ハルと老人』に関しては脳内がハッキングされたように主人公と思考が一致し、何度も読み返した。
 家族や友達とは共有できない私の苦しみを、なぜこの本の作者は表現できるのだろう。
 物語の内容だけではなく、いつしか作り手についても知りたくてたまらなくなった。
 つまり私は、奥付の頁に載るその小さな顔写真の男に、生まれて初めて恋に落ちたのだ。

 十六歳の春休み、初めて著者握手会に行った。
 十代ながら、この本の作家と私は会って話すべきだという、謎の使命感に燃えていた。
 母から金を借りて小さなキャリーケースを買い、一泊分の着替えと小さなメイクポーチを持って夜行バスに飛び乗る。
 新山口駅から新宿駅に向かい、明け方ファーストフード店のトイレで化粧を直すと、真夏でもないのにやたらと汗ばんだ。
 昼まで時間を潰し、「き、の、く、に、や」と呟きながら紀伊國屋書店の看板を探すと、東口を出てすぐに書店は見つかった。
 エレベーターで八階まで上がる。
 入り口には「宮原亮さん新刊記念お渡し会&握手会」という看板が立てかけられ、開始三十分前だというのに、女性客の化粧の匂いが充満していた。

 イベントが始まると、予想以上に私の番は早く回ってきてしまった。
 キャリーケースをゴロゴロ転がし、不格好なまま中央の台に向かう。
 十六歳の敏感な自意識の前で、すでに情報量は限界を迎えていた。
 私の前に、軽やかな薄緑色のジャケットを羽織った男が立っている。あの男。
「君ずいぶん若そうだけれど、僕の本の内容が分かるの?」
「いえ。この本に書かれた内容は、正直よく分かりません」
 男はおかしそうに笑う。
「私、一年前に父が亡くなって。その時に、『ハルと老人』にすごく救われました」
「そうなんだ。今回の本は、あの時とは出版社が違うんだけど。でも、ありがとうね」
 緊張で震える私をよそに、彼は優しいまなざしで握手の手を差し出す。
 ほのかに花の香りがして、東京の大人の男は良い体臭がする生命体なのだと知った。

「今日は、どうしてもその時のお礼を伝えたくて来ました」
「ありがとう。僕も母を早くに亡くしているから嬉しいよ」
「え、そうなんですか」
「そう。だから、女性からの愛にいつも飢えてるの」
「こんなに綺麗なお客さん、いっぱいいるじゃないですか」
「そうだね」
 しかし彼は、その言葉に反して笑っていない。
 もしかして彼は、永遠に埋めることが出来ない愛情の欠落を隠して生きているのではないか? 
 ふと、そんなことを思った。
 この人と関わってしまったら、私はもう、「元の世界」には戻れないかも知れない。
 けれども私は、誰にも気づかれない強さで彼の手を握った。
 それは、自分の中に目覚めた初めての「母性」という感覚だった。

 以来、私は猛勉強の末に東京の国立大学に進学し、卒業後は大手の出版社に入った。
 全ては、あの人と仕事がしてみたいという一心だった。
 高二の春から猛烈に勉強に精を出す娘の姿を見て、母は不思議そうにしていたが、私が第一志望の大学に合格した時には「愛の力って凄いわねぇ」と妙なことを口にしていた。
 自宅のあちこちで彼の本を読んでいたから、私が「編集者になりたい」と言い出した理由が、なんとなく母にも分かったらしい。
 五年後、悲願の文芸部署に配属されて宮原担当になった時、一度だけ母との電話のなかでそのことについて口を滑らせると、「先生を自分のものにしようだなんて、間違っても思わないことね。苦しくなるだけよ」と彼女は珍しく忠告してきた。
 大学に合格した時は、あんなに喜んでくれたのに。

 二人の関係が終わりを告げたのは、一瞬だった。
「木村氏、ちょっと集合」
 雨の降る六月の夜、私は編集長に呼び出された。
 部下の名前を呼ぶ時、〝氏〟と付けるのは彼なりのユーモアのようだが、その薄ら寒いコミュニケーションの取り方について笑顔でツッコミを入れる者は、この部署にいない。
 部内には私と編集長、そして新卒の男の子だけが残っていて静寂だった。
 編集長の席へ向かうと、彼は親しみをこめた笑顔を私に向ける。
「最近、綺麗になったよね」
 その声が、妙に芝居がかっていた。
「ありがとうございます。令和の日本で、ルッキズムとセクハラのダブルで攻め込んでくるなんて」
「あえて言ってるの。どう、最近は。仕事、楽しい?」
「おかげさまで」
「それは良かった」
「ご用件はなんでしょう」
「ちょっと待って」

 彼は、書類で雪崩を起こした机の上でティッシュ箱を探り当て、盛大に鼻をかむ。ジュルジュルと下品な音がダイレクトに鳴り響いて、かなり不快だった。
「今からひとつだけ、決定事項を共有するね」
「はい」
「宮原先生の担当、外れてもらうことにしたから」
「え?」
「結論から言うと、君達の関係って俺にバレてるのね。というか、先生の奥さんに」
「はぁ」
 思わず腑抜けた返事をしてしまう。
 いつか周囲に知られてしまうと思っていたが、それが「今ではない」とずっと思っていた。
 しかし、その「今」が、今きてしまったのだ。

「まさに、禁断の愛ってやつだね」
 私の前でゆっくりと眼鏡を外す編集長は、これまでに四度の結婚を繰り返している。
 一度目は大学の同級生と学生結婚、二度目は社会人になってから間もなく同僚の女性と。
 三度目と四度目は四十歳を過ぎてから、いずれも婚活サイトで出会った女性と。
 私がこの会社に入ってきた時には、既に四度目が事実上破綻した後だった。
「木村氏が、毎回彼から連載を獲ってきてくれるのは、こっちとしてもありがたいことなのよ。それにお互い大人だし、仕事に支障がなければアリだと俺は思う。たださぁ……」

 彼が近づいてきた瞬間、コム・デ・ギャルソンの黒いシャツから部屋干しして生じた生乾きの臭いが漂い、私は軽く吐き気を覚えた。
 きっと編集長の奥さんは、夫の洗濯物を天日干しすることを放棄している。
だから、このような異臭を放つのだろう。
 しかし、それなら結婚二十年目だというのに、ローズの香りを夫の服から漂わせている先生の奥さんは、まだ彼を愛しているのだろうか。
「奥さんから『夫の担当者を変えてくれ』って俺に連絡がきた。つまり、君のことね」
「はい」
「このままだと相手の女性を訴えますよ、ってさ。さあ、どうしようか」
 パソコンで別の作業を続けながら、あくまでも編集長は淡々としている。

 いつか、部署の飲み会で彼が「俺はなぁ、女性と結婚式を挙げるのが人生の趣味なんだよ」と言っていたことを思い出す。
 あの時、編集長は「編集者たるもの良いセックスを沢山しないと、良い恋愛小説は生まれないぞ」と、酔って盛大に私見を述べていた。
 私は、力を振り絞って言う。
「彼の担当を続ける選択肢は、無いですよね」
「申し訳ないけど、無いよね。こうなった以上は」
「私が担当から外れたら、先生、うちで連載を書いてくれなくなるかもしれませんよ」
「まぁ、そこはなんとかするけどさ。バレないように、次はもっと上手くやりなさいよ」
 不倫した事実に関しては否定しない。それが彼らしい、と思った。
 私は、こうした事態に陥った時のために決めていたことを告げる。

「会社、辞めさせて下さい」
 編集長の手が止まる。
「そこまでする必要はない」
「清算しなきゃいけないと思ってたんです」
「今回は担当を外れるだけで良いんだって。会社には残りなさいよ」
「もう、他の作家につく自信もないんです」
「だからって、会社辞めてこれからどうするの」
「ちょっと、今は考えられません。すいません」
「……そう。優秀な編集者なのに残念だな」
「ありがとうございます」
 意外な言葉に、少し心の痛点が突かれる。
 しかし、その後、彼が言い放った一言で現実に戻った。
「次の会社でも違う作家と不倫して、また良い仕事しなよ。今度こそバレないようにさ」
 彼はニヒルな顔で笑う。

「編集長。今、馬鹿にしてます? 私のこと」
「うん。ちょっとだけ。でも、半分本気。木村氏、ひとつだけ言っていい?」
「なんでしょう」
「純粋な奴ほど、恋愛で痛い目みるから。これは俺調べ。気をつけなさい」
  私は一礼をしてから、自分の席に戻る。
 途中、驚いた表情を浮かべる新卒くんと目があった。
 彼にはきっと、私の気持ちが到底理解できないだろう。
 入社してわずか三ヵ月足らずの後輩の前で、作家と不倫する編集者の姿を見せてしまった自分が、我ながら情けない。
 編集長はさっさと帰宅してしまい、残された空間のなかで新卒くんがぽつりと呟く。
「俺、今日のこと誰にも言いません」
 いたいけなその様子を見ながら、私は無理に笑顔を作ってみせる。
「別に、誰かに言ってもいいよ。全然」
 窓の外では雨脚が強まりはじめ、私はその音を聴きながらスマホで「辞表の書き方」と調べた。

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 アイスを買うために外に出た。
 平日の昼間からジャージで外出をする自分に、徐々に慣れつつある。
 部屋の扉を明けた瞬間、生命力を振り絞るように蝉がジャージャーと鳴いていて、コンクリートの照り返しで脳は焼けるように熱くなった。
 その頃の私は、午前中はひたすら寝て、日中は何もせずにボーッとして、夜はあてもなく飲みに出歩く日々を送っていた。
 先生には一度だけ、退職の挨拶と引き継ぎに関するメールをしたが返事はない。
 実利主義の彼らしい、見事な去り際だと思った。
 しかし、辛い。
 また飲みに歩く。
 翌日、昼に起きる。
 また夜から出歩く。
 浮腫んで、どんどん太る。
 そのスパイラルで、三十歳女としては、結構人生が終わっていた。

 辞めてすぐ、母から頻繁に電話がきても、私は努めて冷静に対処した。
「ちょっと疲れて、会社辞めたわ」
 手短に説明する私に、全てを察した口調で母が言う。
――塔子。誰かと結婚して、その人に養ってもらうのも、人生の一つの手段よ。
「夫に先立たれて、早々と未亡人になったアナタに言われたくないね」
――そうね。とりあえず、死なないでね。信頼してる。
 自虐と哀しみと、少しのユーモアを交えた会話が、僅かに人生の癒やしになる。
 母なりに私を心配していることが、よく分かった。
 収入源を失った私は、それでも半年ほど食べていくには困らない貯金を蓄えていて、ただ何も考えずそれを使った。
 渋谷の雑居ビルの書店に立ち寄ると、不倫ネタの週刊誌に並び、先生の新刊を時々見かけ、気が狂いそうになったが、なんとか思考を停止させる技術も身についてきた。

 コンビニに到着すると、私は欲しくもないアイスを手にとってレジに向かう。
 その時、一通フェイスブックのメッセージが届いた。
 「これは先生からの連絡だ」と直感的に思い、身体がすぐに反応する。
 しかし、差出人はかつての職場の編集長だった。

「不倫に破れた木村氏にピッタリな、退廃的なお仕事を見つけました。宜しければいかが?」

 という、回りくどい内容だった。
 落胆を通り越して怒りすら感じる。
 しばらくやり取りを続ける中で、赤坂の小さな出版社に欠員が出たこと、そこで私に働いてみないかと彼が勧めてきていることが分かった。
 彼の大学時代の同級生が、そこで週刊誌の編集長を務めているのだという。
 私は会計を一旦中断し、足早に雑誌コーナーのラックに置かれていた『週刊富士』を追加で購入する。

 部屋に戻りさっそく巻頭ページを捲ると、そこには緊縛された熟女の袋とじグラビアが載っていた。
 動揺する自分に嫌気が差しながら、黙って続きを読み耽る。
 緊縛熟女のグラビア、野外セックス特集、公費で愛人とゴルフ旅行をした大臣のスキャンダル、社会風刺エッセイ、果ては人気アイドルの二股愛を追いにグアムまで飛んでいる。
 タレントも大臣も、普段メディアで見る顔とは全く異なる素の表情が出てしまっている。
「なんで、こんなに無防備なんだろ。馬鹿だなぁ」
 しかし、スキャンダルをすっぱ抜かれている人々の行動は、どこか生命力に溢れてもいた。
 背徳感にかられながらも、自由に生きる彼らの表情になぜか腹立たしさを感じて、嫉妬心が芽生えたことに驚く。
 私はアイスを食べながら、ぼんやりと決断した。
「その仕事、引き受けてみます」
 編集長にそう返信して、三日後には正式な採用通知が届いた。
 再就職に際して、面接もなければ、試験もない。
 よほど人手不足なのだろうか。

 朝九時に赤坂駅に到着し、七番出口に出る。
 薬研坂を上ると坂の途中に小さな喫茶店があり、同じビルの六階に「週刊富士編集部」という表札を見つけた。
 エレベーターで六階まで上り、ドアを開けると小さなオフィスが現れる。
 室内には小豆色のタイルが敷かれていて、やや埃っぽい。その中央に、散らかったデスクが八つほど並んでいる。
 ここで働き、人の不幸を売る人もまた、生身の人なのか。
 その当たり前の事実に、やや奇妙な感覚に陥る。

「おはようございます」
 少し張った声で叫んでみるが、返事は期待できそうにない。
 入り口から一番近い机に目をやる。そこには、「プロの技が炸裂! セックス特集」と書かれたゲラが置いてあった。
 セクシー女優とおぼしき女性は見出しの下で白衣を纒い、物欲しげな表情だ。
 鼻は整形、瞳はカラコン。唇にはボトックスを入れ、試行錯誤の末に各パーツを魅力的に見せている。
 彼女の顔は、決して美人の部類ではない。どちらかと言えば、ブスだ。私よりも。
 しかし商売として成立している以上、彼女のほうが存在価値は高いのだろう。
「セックス」の一語を見て、魂は過去に飛ぶ。
 先生が泊まるホテルに足を運ぶ時、私は必ず新しいパンツに穿き替えて部屋に向かった。
 頼まれていたわけではなく、自分で勝手に行っていた〝儀式〟である。
 そうすることで私は、何者でもない人間から、特別な女性になれた気がした。

 十分後、奥の非常階段口から中年の男性が小走りに現れた。
「木村さんね。お待たせしてすみません。嵐山豪太郎と申します。一応ここの編集長。宜しく」
 ウェーブがかかった長い髪をかきあげて笑顔をみせる彼は、奥の席に灰皿とタバコを置く。
 目尻が下がった細目の柔和な顔立ちは、少しだけ私を安堵させるものがあった。
 この雰囲気からは、決して緊縛熟女を巻頭ページに飾る荒々しさが感じられない。
 オフィス周りに関する説明を受けていると、今度はネルシャツ姿の男がやってきた。
 大きな図体が、熊を彷彿とさせる。
 ネルシャツは、私など存在しないかのように、隣の席にカメラバッグを置く。
 嵐山がすかさず「今朝は収穫あり?」と聞くと、彼は「ダメでした」と曇った声で返す。

 その後、続々と社員らしき人々が出社した。
 男性の比率が高く、八人中、女性は一人しか見当たらない。
 十時を回る頃、狭い編集部内の全てのデスクには全員が着席し、人口密度が一気に上がった。
「こちら木村塔子さん。今日から僕らの仲間。宜しくどうぞ。前職は小説の編集者だよね」
「はい。よろしくお願いします」
 彼が手短に私を紹介すると、乾いた拍手が響く。
 皆、中途入社の社員に対して、さほど興味がなさそうだ。
 今の私には、それくらいが丁度良い。

 そのまま「プラン会議」と呼ばれる会議に入ると、女性が立ち上がって話し始めた。
「夏未ゆり子の夫が『パラレル☆くりぃむ』のメンバーと不倫している情報が入りました。張り込みチームを後で組めればと思います」
すかさず、嵐山が彼女に確認する。
「ネタ元は?」
「『パラくり』のメンバー達と、よく六本木で遊んでいる読モの女の子です」
「信頼できそう?」
「はい。『パラくり』のメンバーが、先日こっそり彼女に打ち明けてきたそうです」
 夏未ゆり子という女優の夫は、たしかヒット作ばかり手掛けている映画プロデューサーだ。名は、たしか藤田昴。
『パラレル☆くりぃむ』は若い子に人気のロリータ系アイドルグループで、そのメンバーの誰かと、彼は不倫をしているのか。

 他の社員は一瞬、「女同士の友情って怖ぇな」とか「マジか〜」と盛り上がったが、すぐに静まり返った。
 彼らにとっては、こうしてネタを精査する時間も限りなく日常なのだろう。
 会議が終わると、社員達は各自の現場に出かけて行く。
 呆然とする私に向かって、嵐山が髪をかきあげながら一言、「来週から五個くらい新しいネタ持ってきてね!」とさりげなく言ってきた。
 その「さりげなく」というところに、ブラックさを感じる。

 その夜さっそく私は、ネルシャツの男と共に〝張り込み〟というものに行くように命じられた。
 ネルシャツは原田と名乗り、カメラマン兼、記者兼、デスクという謎の立ち位置だった。
 小さな会社のため、記者もカメラマンも副編集長的な立ち位置も、全て彼が兼任しているらしい。
 彼の車に乗り込む際、白いレンジローバーの後部座席にチャイルドシートが見えた。
 頭に鳥の巣のような寝癖をつけた、このいかにもモテなそうな男も一応は人の親なのか。

 現場に向かう途中、沈黙に耐えかねた私は彼に話しかける。
「私達、今から誰を張り込むのでしょうか」
「えっと、今朝の会議って聞いてました?」
 原田は、不快感を示して運転を続ける。
「すみません。初めての会議で、あまり内容が頭に入ってこなくて」
「なつみゆりこのー、おっとのー、ふりんあいてのー、すむいえです」
 まるで、簡単な日本語をゆっくりと外国人に教えるような口調だった。
「こういう時って、本当にすぐ動くんですね」
「他誌が先に動いたら、会議の意味がないので」
 数十分後、車は閑静な住宅街の一角にあるアパート付近に路上駐車した。
 煉瓦色のアパートが、周囲の建物に埋もれるようにひっそり佇んでいる。
「不憫だなぁ。アイドルっていったって、あんなボロ屋の一階に住んで」
 原田が独り言を吐きながら、自分の座席を少し後ろに倒す。
 たしかに、オートロックすら付いてなさそうな小さな建物だ。

「あの……。もう一つだけ良いですか」
 私は、我慢していたことを打ち明ける。
「はい」
「さっきからお手洗いに行きたくて」
「仕事中なんで。我慢してください」
「ちょっと無理そうです」
「ペットボトル」
「え?」
「今度から必ず、空きペットボトルを一本、鞄に入れておいて下さい」
「何に使うんですか」
「緊急用です。最悪の場合は、そこで用を足せますから」
「どういうことですか」
「女性は、最初難しいでしょうけど慣れますよ。ペットボトルション」
 彼はサイドポケットから、飲みかけのボルヴィックを取り出す。
 容器に残る一センチほどの水を車窓から乱暴に捨てると、私に渡してきた。
「良かったら、これ」
「ごめんなさい。何を仰っているのか、ちょっとよく分からないです」
 苛立ちのあまり言葉を失いかけて、助手席のシートベルトを外す。
「トイレに行くなと言うのは、人権蹂躙です」
 私はギリギリ理性を保った状態で捨て台詞を吐き、車外に降り立つ。
 原田はペットボトルを手にしたまま、冷たい視線で私を見つめていた。

 あのネルシャツ、全く掴めない。
 無愛想かつ、どこまでがジョークか分からない。
 トイレのひとつもさせてもらえないことに、不気味さすら感じる。
 とんでもないパワハラ企業に就職してしまった。
 怒りで手が震えながら、私は持っていたスマホでGoogle Mapsを開く。
 すると、現在地が杉並区の浜田山駅周辺だということが分かった。
 一軒目のデイリーヤマザキではトイレの貸し出しがなく、数軒先のローソンも貸し出していない。
 仕方なくそこから三分ほど歩いたセブンイレブンに向かう。
 ようやく空きトイレを見つけて用を足したのは、降車してから十五分が経過した頃だった。
 私のスマホには数件の着信があり、店前で折り返すとガチャ切りされた。感じが悪い。
「あの」
 男の声がして振り向くと、そこには不機嫌そうな原田が立っている。
「木村さんがウンコしているあいだに、俺が全部撮り終えたんで。帰りますよ」
 そう言って、彼は手にしていたスマホをポケットに入れて歩き出す。無言の原田に続き、ひとまず私も車内に戻った。

 後部座席からカメラを取り出した彼は、一枚の写真を私に見せてきた。
 路上の二人の表情は夜の闇に溶けることなく、目元までくっきりと浮かび上がっている。
 女性は目深にピンク色のキャップを被っているが、アイドル衣装に合わせるためか派手な水玉のネイルをしているのがよく目立った。
 一方の男性は、カップラーメンが透けているコンビニの袋を提げている。
 この二人はこれから、あの狭いアパートでセックスをした後にラーメンでも食べようとしていたのかと思うと、少しせつない。
 原田はこれを、一瞬で狙い撮ったのか。
「直撃も終えました。これ本来、木村さんの仕事なんですけどね」
 実に嫌味ったらしい。
 しかし、たしかにこの十五分間で彼は全ての仕事を終えていた。
 トイレに行ってはいけないというのは、こうした事情があるからなのか。

 そのまま彼は、レコーダーを立ち上げて車内スピーカーに接続する。
 冒頭から、男の声と原田の声が交互に聞こえてきた。
「ちょっと。やめてください。誰ですか」
「週刊富士です。突然申し訳ございません。お二人はどのようなご関係ですか? 以前も目撃したという方がいるのですが」
「どういう関係って急に……。あの、本当にやめてください。警察を呼びますよ」
 原田は動じず、男の隣に隠れている女性にも声をかける。
「こちらの男性、藤田昴さんが結婚していることはご存知ですよね?」
「え……。ちょっと、やめてください」
 女性が怪訝そうな表情をしているのが、音声からありありと浮かんでくる。
 二人が原田を撒くようにアパートの扉を閉めるまで、録音は続いた。
 彼は小さく鼻歌を歌い、音源と写真のデータをノートパソコンに取り込む。
 その後、編集部のチャットに撮了の旨を報告すると、軽快に車を発進させる。
 嵐山からは一言、「グレート!」と喜びの返信が来ていた。

 出発後も、私の奇妙な罪悪感はおさまらない。
「この記事が出たら、あの夫婦、離婚するかもしれませんね」
「まぁ、はい」
「それに、あのアイドルの子、もう芸能界ではやっていけないでしょうね」
「何が言いたいんですか?」
「恋をした相手が、結婚していた。それだけでこうなるんですね。記者の手にかかると」
 私は、過去の自分を正当化したいだけなのだろうか。
「えっと、俺ら別に、国民の税金で仕事しているわけじゃないんで。何をしようと自由です」
「そうですけど」
「不倫とか不祥事が商売に直結しないなら、俺もこんな仕事はしないですけど。でも、俺らの給料が出るくらいには、世間はこういうことに関心があって、スキャンダルが売れる。それって単純に、資本主義経済の構造ですから」
 彼は、無機質に言う。
「はぁ……。それにしたって、ずいぶんと業が深い商売ですよ」
 つい本音がポロリと出てしまった私に、赤信号を見つめる彼の顔つきが変わった。
「俺らが出来ることは、読者に対して正確な情報を出す。それだけです。こうして手と足を使って、正確に取材して記事にする。その情報を受け取った相手が何を感じても、悪意ある続報を書いても、俺らがそこまで責任を持つ必要は全くないです」
 そう言い切った途端、信号が青に変わった。
 流れ行く景色のなかで、原田は念を押すように言う。
「これは、社会のルールです」

 まどろむ視界のなかで、先生の気配を感じる。
 私は先生の残り香を求め、無意識に鼻を利かせていた。
 もう会えないことを私の脳内は理解していても、肉体はまだ知らない。知ろうとしない。
 だからこそ、こうして普通に夢に出てきた彼に性欲が湧いたり、心が疼いたりする。
 最悪だ。
 好きだという気持ちが未だに育まれ続け、引っこ抜いても、引っこ抜いても芽吹き続け、豊かな土壌のなかでスクスクと咲き乱れてしまっている。
 幻の彼の胸に顔を埋めると、私はぼんやりと二年前の〝あの日〟のことを思いだす。

 関係が始まった当初、先生は一度だけ、この部屋に来てくれたことがあった。
 普段はホテルの一室でしか会えない彼は、その日に限って、なぜか酷く酔っていた。
「塔子ちゃんの住む部屋が見たい」
 夜八時に電話をかけてきた先生は珍しく積極的で、たまたま早く帰宅をしていた私は嬉しさのあまり大急ぎで部屋を掃除した。
 インターホンが鳴った頃にはなんとか部屋は片付いて、招き入れようとしたけれど、彼はそれを拒んだ。
 玄関で私の胸を弄び始めた先生は少しだけ泣いており、「君以外、誰も僕のことを分かってくれないんだよ」と言う。
「その気持ちを、全て創作活動に注ぎ込んで下さい」
 私は理性が飛ぶ直前に編集者としての顔をチラリとのぞかせ、一度だけセックスをすると、彼はすぐ帰ってしまった。
 その後、私も孤独感に苛まれて泣いた。
 パジャマのズボンを下ろしたまま泣いた。
 いま考えれば、あの日に私の自尊心なんてものは、消え去ってしまったのかもしれない。

「どうして、どうして、もっと早く会いにきてくれなかったんですか」
 この瞬間を逃してはいけないと思った私は、彼の胸の中で大きく叫ぶ。
「私、ずっと伝えられなかったんですけど、先生のことが本当に好きでした」
「ありがとう。僕も好きだよ」
 泣き出す私に向かって、先生は穏やかな顔で言う。
「でも、僕には帰る場所があるから。ごめんね」
 彼が立ち去ろうとすると、玄関に会ったことのない奥さんが立っていた。
 よく見るとその顔は夏未ゆり子で、彼女は微笑みを絶やさず私に言った。
「うちの夫があなたに失礼なことをしたんじゃありませんか? ごめんなさいね」
 彼らは見つめ合うと、どこかへ行ってしまう。
「待って下さい」
 大きな声で叫んでみるが、パタンと扉は閉まり二人の姿が消える。
「待って下さい!」
 これは脳が私に見せている、地獄のような夢なのだ。
 早く起きろ。
 自分の神経回路に号令を出す。
「ねぇ! 待ってよ」
 自分の大きな声で飛び起きた私は、目の端に溜まっていた涙を拭う。
 それから洗面台に走り一気に蛇口を撚ると、目が覚めるように強く念じて顔を洗った。

 その日、出社すると嵐山から、〝名簿ローラー〟と呼ばれる作業を任された。
 傷害致死罪で逮捕された男の高校の同級生に、聞き込み取材をしてほしいということだった。
 一学年分、三百人ほどの電話番号がまとめられたエクセルシートを、PC上で共有される。
 一件につき三分ほど聴取したとして、全ての連絡先に電話すれば単純計算で九百分はかかる。
 嵐山の温厚そうな顔の裏に、鬼の姿が見えた。
 作業に入る覚悟を決めて受話器を取った途端、再び彼から呼び止められた。

「ごめん。ちょっと来客があるから、やっぱりそっち一緒に対応してくれる?」
 誰が来るのかと聞けば、昨夜、原田と私で張り込みをしたアイドルだという。
「『パラくり』の子、なんでうちにひとりで来るんですか?」
 隣に座る原田が、疑った表情で嵐山に確認する。
「『お伝えしたいことがあります』って今、女の子の声で電話があってさぁ」
「それ、事務所は知ってるんですか? まだ俺、質問状も送っていませんけど」
「そこまでは分からなかった。でも彼女、切羽詰まってたからさ。話を聞こうよ」
 嵐山が飄々と言葉を返すと、原田は異論を唱えた。
「嵐山さん、人が良すぎますよ。ナイフでも持って現れたらどうするんですか?」
「その時は原田くん、出番だよ。ガタイが良いし」
 彼は軽やかに立ち上がり、原田の筋肉を後ろから揉みしだく。
「まぁ、追加でコメントが取れるなら良いですけど……」
 原田は、しばらく考えた後で渋々と了承していた。

 三十分後。
 編集部のインターホンが鳴った。
 警戒しながら扉を開けると、そこには黒いワンピースの女性が立っていた。
 明るい中で見る彼女は、艶のある黒髪を二つに結った凛とした女性だった。
 顔色が悪いが、それが彼女を薄幸にみせ、かえって匂い立つような美しさを放っている。
「早瀬マリカって言います。突然すみません」
 編集部に応接スペースはないが、かろうじて四人ほどが座れる座席が入り口近くにある。
 手狭だが、私はそこに彼女を案内してお茶を出してあげた。

 嵐山と原田、そして私。
 三人の大人に囲まれた早瀬マリカは少しやつれた表情で、それでも凛としている。
 嵐山が開口一番、「昨夜は突然ごめんね。でも、おじさん達もこれが仕事だから。念のため聞くけど今、録音とかしてないよね? してても良いけど。僕らは君の話を聞くから、フェアにいこうな」と彼女に話しかける。
 口調は優しい。目元にも、笑みをたたえている。
しかし、眼の奥がほとんど笑っていない。
 彼の迫力に驚くが、それ以上に彼女も覚悟を決めているようだった。

「昨日、写真を撮られてから色々考えて。事務所には言わず、ひとりで来ました」
 桜色の唇が、振り絞るように言葉をつむぐ。
「私、藤田さんとは付き合っていません。そこに愛情はありません」
 水玉のネイルで彩られた指先が膝元に置かれ、まっすぐな瞳で我々を射抜いた。
「どういうことですか?」
 原田が彼女に質問する。
 すると、彼女はピンク色のスマホを鞄から取り出して、一連のLINEを私達に見せてきた。

●五月二十三日(木)
「初めまして。今日の食事会、会えて嬉しかったです。ここで繋がっておきましょう。藤田」

●五月二十四日(金)
「早く君とまた会いたい。藤田」

 彼女はこの連絡に、「また皆で楽しく会いたいですね!」とそつなく返している。

「皆じゃ嫌なんだけどな…。二人が良いんだけどな。藤田」

●五月二十五日(土)
「君のことが頭から離れない。今から会えない?タクシー代、もちろん出します。藤田」

●五月二十七日(月)
「新しい映画の打ち合わせがありました。マリカちゃんのこと、キャスティングにプッシュしておきました。藤田」
「ありがとうございます!藤田さんの作品に出演することが、マリカの夢なんです」

 最初は沈黙を貫いていた彼女も、次第に彼に対して丁寧な返事をするようになっていく。

●六月一日(土)
「今から六本木のグランドホテルに来られますか?藤田」
「行けます。今から行きますね!」

●六月十二日(水)
「君って、危うい匂いがする。藤田」
「君の病んでるところが好き。藤田」
「そんなこと言われたら、好きになっちゃいます…」

●六月十五日(土)
「マリカちゃん、ごめん。制作部に確認したら、今回は他の女優さんに決まっちゃったって。またお願いします。藤田」

●六月二十七日(木)
「仕事が早く終わった!今日は君の家に行ってみたいな。新しい作品の相談もあります。藤田」

 読み終えたところで、六月一日の時点で、彼女の身に何が起きたのか理解ができた。
 つまり彼女は、野心に燃えるあまり、彼に肉体と魂を売った。
 嵐山が一拍置き、髪をかき上げながら彼女に尋ねる。
「つまり、この関係は藤田さんから始まったということね。で、仕事に繋がると思って、君も断れなかったと」
 早瀬マリカは、「それで罪が軽くなるとは思いませんけど」と言いながら目に涙を溜めて頷く。
「私、グループの中ひとりだけ年齢が高くて、焦っていました。業界の人が集まる食事会は必ず顔を出して、女優路線に変更するなら今だって時に彼が現れたんです」
 洟をすすり始めた彼女の背中を、私は優しく擦る。
 贅肉ひとつない、骨ばった背中に触れた時、「あなたよりも数百倍ずるい、私という人間がここにいますよ」と言いたくなった。

 もっと賢い立ち回りを彼女に教えられる人間は、周囲にいなかったのだろうか。
 そんな気持ちがよぎる。しかし、目の前の女性は、もう十代の少女ではない。
 二十七歳という年齢は、ロリータ系アイドルとしては歳をとりすぎている。
 彼女は、自分に好意を寄せる男を少しだけ利用しようとした。
 そのたった一瞬を、週刊誌に撮られてしまったことは、果たして罪なのか。

 翌日、彼女の事務所からは何度も連絡が入り、記事の取り下げ依頼があった。
 しかし、嵐山が取り合うことはない。
 その週発売の『週刊富士』で、藤田と彼女の一件は世に知られることになった。

「人気アイドルグループメンバー激白! あの日、私は彼の誘いを断れませんでした」

 そう題した記事にはLINEのスクリーンショットが載り、彼女の生身の言葉も掲載された。

 原田の追加取材により、藤田が早瀬マリカ以外にも複数の浮気相手を抱え、その大半がブレイク前のアイドルであることも判明した。
 関係者によると、彼はスマホのメモアプリに「抱ける芸能人の女の子リスト」という名簿を作っており、時折酔うと、飲みの席でチラつかせていたという。
 原田は全面的に彼女を擁護する書き方をしたが、それでも早瀬マリカはバッシングに晒される。
 ツイッター上では、「藤田は鬼畜。でも、騙される女も悪い」とか「高齢アイドル乙」といった一般人のツイートが数千リツイートされ、夏未ゆり子と藤田昴の離婚も早々に発表された。

 本誌の発売から一週間後、彼女は所属していたアイドルグループを解雇される。
『ご報告』と題したアイドル人生最後のブログには、ファンへの感謝が綴られていた。

「皆さん、マリカにアイドルとゆう夢を見させてくれて、本当にありがとうございました。くりヲタの皆のこと、裏切ってゴメンね」

 稚拙な言葉で締め括られた文章を見た時、私は感情が処理できずに言葉を失った。

 居ても立っても居られず、その晩、早瀬マリカの自宅前までひとりで足を運んだ。
 以前はノーマークだった彼女の自宅周辺には報道陣が集まり、密やかな陣取り合戦が行われている。
 続報を追うために待機している記者の群れは、まるで餓えたハイエナ集団のようだ。
 数台の小型車が不自然にアパートの前に待機するなか、彼女が自宅にいるのかどうかは分からない。
 なぜ私の不倫は裁かれず、彼女の「一度の過ち」は裁かれたのだろうか。
 不倫に時効がないのならば、私もいつか彼女のように世間から袋叩きに遭うのだろうか。

シナプス_データ圧縮済み①

「おはようございます」
 出社した原田に向かって私は話しかける。
「この前、原田さんが言っていた言葉の意味が分かりました」
「なんすか、朝っぱらから」
「うちは、正確な情報を出しました。でも世間は、ロクに記事を読まずに早瀬マリカを批判する」
 彼は、普段と変わらない様子で私に返す。
「木村さん、あの子に感情移入しすぎです」
「酷くないですか? 彼女は、自分の夢を人質にとられて誘惑されただけで」
「それは違います。一瞬でも『私は撮られない』と思った時点で、彼女の負けは負けです」
「どういうことですか」
「俺ら、張り込みで追っかけても追っかけても、全然ボロを出さない人もいます。でも、あの子の写真は、木村さんがトイレに行っている十五分間で撮り終えました。つまり」
 彼が口を開きかけた瞬間、嵐山が割って入ってきた。
「つまり、人前に出る商売をしている以上、何事も『バレたら負け』ってことですよ」
嵐山は、今まさに長い髪をまとめるためヘアゴムを口にくわえながらモゴモゴと呟く。
「人に言えないことをしたら、いつかは、バレる。僕らみたいな商売の人間がいる限り」
 そこで会話は終わった。

 彼らは、淡々と朝の作業に戻っていく。
 この人達は、この仕事に誇りを持っている。
 その事実が、「正義とは何か」を訴えかけてくる。
 これまでは、週刊誌という存在自体が〝悪〟なのだと信じて疑わなかった。
 だからこそ、自分の仕事に情が芽生えず済んだのだ。
 しかし、それは果たして真理なのか。
 彼らはただ、純粋に職務を全うしているだけではないか。
 では、〝彼ら〟の行いは正しいのか。
 正しさの定義が、私の中で曖昧になる。
 混沌とした世界で、週刊誌は不倫をはじめとする「ルール違反」を犯した者に対して容赦なく審判を下す。

 心を静めて名簿ローラー作業に戻る。
 一件目にかけた電話で、「二度とかけてくるな。クソ週刊誌」と暴言を吐かれた。
 しかし、全く動じない自分がいる。
 倫理観が、自分の中で音を立てて崩れていく。

 恋人でもない男と、青と白にライトアップされたけやき坂を通り抜けるほど惨めなことはない。
 原田と共に行動することが増え、憎まれ口を叩かれることにも慣れつつある。
「木村さんって、結婚とかしないんですか」
 墓地の後ろにある六本木スカイガーデンホテル入り口に停車して新人女優の張り込みをしていると、彼が尋ねてきた。
「念のため言っておきますけど、三十歳の女子に聞く質問として、セクハラですからね」
「聞いてみただけです。暇だから」
「私、好きな人いるんで」
 ポロッと返す自分に、自分自身で動揺した。
 真っ先に思い浮かんだのは、あの男の顔だった。
 心の内に、ザラザラと大量の土砂が落ちてくる。

「へー。上手くいくと良いですね」
 運転席の原田は、コンビニのパンを熊のようにムシャムシャと食べている。
 自分から尋ねた質問に、すでに心から興味を失っているようだった。
「周りは結婚ラッシュですけど。こんな仕事に就いてしまったし、婚期が遅れるかもしれませんね」
 私は、しっかりと嫌味を返して溜息をついた。
 最悪なことに原田が屁をこいたので、換気のために窓を数センチ開ける。
 冷たい風がするりと入ってきて、助手席に座る私の頬をなでつけた。
 人生、思い描いたものとは随分違うものになってしまった。
 でも、人はなんとかこうして生きていける。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、車内は沈黙が続く。

 数分後、原田が欠伸をした瞬間、彼の瞳が突然に見開かれた。
 太い腕が、素早く後部座席に動く。
 そのまま彼は、望遠レンズを一瞬でボディに取り付け高速シャッターを切る。
 その間、たった数秒の出来事だった。
「原田さん。規格外の図体で急に動かれると驚くので勘弁して下さい」
 嫌味を言う私に、しかし、彼は聞く耳を持たない。
「瓢箪から駒です」
「はぁ?」
「作家の宮原亮って人。あの人が今、女性とホテルに入って行きました」
 私の呼吸は、完全に停止した。
「今日の成果、この写真一枚で充分ですよね」
 彼は満足げな顔で、今しがた撮った写真を私に見せてくる。
 そこには、ずいぶんと見慣れた男が写っていた。
 男の隣に、トレンチコートを着た女性が立っている。

 コンマ五秒。
 その女性が自分より可愛いか、可愛くないか判断してしまう。
 そんな自分が情けない。
 その判断は、自分よりブス。
 ブスなトレンチコートの女。
 ブスなトレンチコートの女と、一緒にいるのは先生。
 私は、地球上の全重力が降ってきた感覚に襲われて、しばらく動けなかった。

 強い頭痛で目が覚める。
 自分がどこで何をしているのか、一瞬分からない。
 目を瞑り、出来るだけ冷静に今の状況を整理する。
 ここは自宅。これはベッド。
 昨夜、張り込みを終えた私は、どのように家に帰ってきたのか。記憶を辿る。
 あの後、自宅まで原田に送ってもらった。
 しかし、そのまま家の扉は開けず、意識が朦朧とした状態で駅前の飲み屋に急行した。
 たしかその店は、前の職場を辞めた時に頻繁に通っていた飲み屋で、マスターが気の良いゲイ。
 私は、彼の顔を見た瞬間に少し安堵し、スイッチが入り、それで――「はい。そこまでよ」。
 目の前にチェイサーグラスを置かれた瞬間、私の記憶はブラックアウトしている。

 そして、朝を迎えた。
 小刻みに指先を震わせながら、まずはスマホを確認する。出社時間を、三十分ほど過ぎていた。
 遅刻を咎めるような連絡は、会社からまだ来ていない。
 もとより、出社時間も退社時間も、あってないような仕事である。
 誰にも気づかれていないのかもしれない。
 少しだけホッとする。
 しかし、その安堵は一瞬のことだった。
 私は、絶対に連絡をしてはいけない相手に昨夜メールを送っていた。
 深夜三時二十分の送信履歴。

 件名「木村です」
 本文「せんせい。無防備に、おんなのひとと、ホテルに行ってはだめ。です。」

 私は震える指で、メールを消去した。
 全ては無かったことにするべきだと判断したのだ。
 しかし、時は既に遅かった。ちょうどその時、あの男から返信が届いたのだ。

 私はいつもと変わらないテンションで、努めて冷静に出社した。
 原田は外出中。
 他の社員はブツヨミをしたり、デスクの上で昼食をとったり、原稿を書いたりしながら各々が無言で過ごしている。
 誰かが食べているカップラーメンの匂いが室内には充満していたが、気にするような感性の人間は誰もいない。
 個人プレイな社風に、今日ほど感謝したことはない。
 同時に私は、自分が犯罪者になったような、二度と真人間には戻れないような気持ちになる。
 本来ならば、この時間は原田と取材に出ていることが多い。
 しかし、今日だけは何も手につかず、水さえ喉を通らない。

 隣の机に目をやる。
 すると、資料が散乱するスペースの一角に違和感を感じる場所があった。
 イチゴ柄の写真立ての中に、原田と三歳くらいの女の子の写真がはめ込まれている。
 おそらく彼の娘だろう。目がクリッとしていて、熊の遺伝子を感じさせる。
 写真の彼は、「ちーたん誕生日おめでとう」と書かれたケーキを持って嬉しそうな表情だ。
 なぜか原田の顔が、今日は善人に見える。
 彼はただ、家族を養うために働いている。
 家族がいて、守るべきものがあって、呼吸するように仕事をしている。
 嫌だとか無理だとか、辛いとかは考えず、ただ大切な人のために働いている。
 そういう当たり前のことが、当たり前のようにできる人間に、私もなるはずだった。
 それなのに今の私は、自らその道をはみ出そうとしている。
 いつからか人の不幸を売るだけでなく、人に不幸をも与える人間になってしまった。
 その差は大きい。

 恐る恐るスマホを開き、朝から放置し続けたメールフォルダを開く。

 件名「Re:木村です」
 本文「宮原です。ご連絡ありがとう。突然のメールに驚きました。久しぶりに会いたいですね」

 昨夜の私のメール内容には、一切触れない。
 彼からの破壊力抜群の一撃に、私は震えた。
 頼むから、私のことは忘れて下さい。
 無かったことにして下さい。
 もう良いんです。
 ダメなんです。
 私達は、会ってはいけない者同士なんです。
 昨日のトレンチコートのブスは、誰なんですか?
 また、奥さんを悲しませたのですか?
 彼に対して、百通りの否定の言葉が思い浮かぶ。

 迷った挙げ句、私はツイッターで「しいたけ占い」を開く。
 いま、誰かに背中を押してほしくてたまらなかった。
 蟹座の欄に、「自分の気持ちに素直になって良いんですよ」という優しい一文を見つける。
 私は、すがるように都合の良い部分をつまみ食いして、背中を押してもらうことにした。
 深呼吸。
 周囲を警戒しながら、メールの作成画面を開く。

 件名「Re: Re:木村です」
 本文「昨夜のことについて話したいので、今夜会えませんか?」

 冬の夜は、空気が痛い。
 六本木通り沿いをひとり歩いていると、EX THEATER ROPPONGIの前を通りかかる。
 男性アイドルグループの公演ポスターが貼られており、ファンが何人も出待ちしていた。
 おそらく彼女達は、クリスマス当日だというのに抽選に外れてしまった、不運な少女達だ。
 舞台本番を観ることができず、しかしそれでも推しメンの顔を拝みたいのか。
 可哀想に。表で待っていてもダメだよ。
 この劇場は、裏にタレント用の車両出入り口があるんだから。
 そんなことを考えて歩く自分が、ゴシップの世界に染まっていることに気がついてぞっとする。

画像5

 道中、久しぶりに母から電話が入った。
 なぜ親というのは、いつも絶妙なタイミングで電話をかけてくる生き物なのだろうか。
「もしもし」
「かまぼこ食べる?」
「何、急に」
「いつも送ってるじゃない」
「あぁ。アレね」
 山口県の水産加工所で働く母は、この時期、毎年ちくわとかまぼこを送ってくる。
「今年も、いるでしょ?」
 小さな頃クラスの男子に「お前の母ちゃんって、魚臭いよな」とからかわれてから、私は母が加工所で働いていることが、ずっと恥ずかしかった。
 しかし、上京から数年後、私はあのプリプリとした食感がたまらなく懐かしくなった。
 なにげなくその旨を母に伝えたところ、彼女はその年から大量に練り物を送ってくるようになった。

「送って。会社の人と食べるから」
 私は平然と礼を言ってから電話を切る。
 母は、この場にはいない。
 しかし、なぜか西麻布交差点で、スケソウダラとキントキダイを混ぜた懐かしい香りが私を包む。
 そんなこと、あるわけがないのに。
 ノスタルジーな気持ちが湧き上がった後、強烈な自己嫌悪にかられる。
「先生を自分のものにしようだなんて、間違っても思わないことね。苦しくなるだけよ」
 宮原担当に着任した当初、電話で忠告してきた母の台詞が、今になって身に染みてくる。
「お母ちゃん、ごめん」
 私は小さな声でそう呟くと、六本木スカイガーデンホテルの六〇四号室に入った。
 きっと大丈夫。
 今日はパンツ、穿き替えてないし。

 部屋に入ると、〝以前〟と同じように、東京の夜景が窓辺に広がっていた。
 深紅のカバーが掛けられたベッド脇の大きな椅子に、あの男が座っている。
 変装のためか、彼は見慣れない伊達メガネをしていて、私は思わず笑う。
「あの、今さら変装は意味ないです」
「あ、そう」
 大人しく先生はメガネを外す。
 逃げも隠れもしない感じが、どこか私を安心感に導く。
 しかし下腹に力を入れて、自分に指令を出す。「この空気には流されるな」と。
 私はあえてコートを着たまま、彼から最も離れたスツールに座る。
「突然、会社を辞めてすみませんでした」
「いえ。僕のほうこそすみませんでした」
 彼は、なぜ「すみません」なのか、奥さんのことは決して口にしない。
 あくまで、独身男性のような面持ちで謝罪をしてくる。

 黒いジャケットを羽織る彼は、相変わらず五十代とは思えないほど肌ツヤが良く、端正な顔立ちをしている。
 その髭面も、切り揃えられた髪型も、以前と大きな変化は見られない。
 その姿を、毎日思い出していた。夢のなかで。
「何か頼む?」
 先生がルームサービスを頼もうとする。
 大きな手がベッドサイドの受話器を握った。
 その指先が綺麗に磨かれていることでさえ、私は泣けてくる。

「相変わらず、爪、磨いてるんですね」
「うん。執筆の息抜きに、せっせとね」
 私達の距離がもっと近かった頃、彼は枕元で爪をよく光らせていた。
 私が「先生の爪って、女子力高いですよね」と言うと、彼は「そうかしら」と可憐な少女のフリをする――それが、二人の鉄板の掛け合いだった。
 いつだって私達は仕事以外、この部屋のベッドでしか世界を作ることが出来なかった。
 しかし、それで良かった。
 だって私は、宮原亮の作品を一緒に作ることが出来ているのだから。
 こんなに幸せなことはない。
 そう思っていた。
 あの頃の私は。
「先生。今日は飲み物、要りません」
 そう返すのが、精一杯だった。
「そうだよね」
 この数ヵ月間、私がどのような気持ちでいたか。
 実にたっぷりと、彼に分かっていただきたい。
 しかし、そんな承認欲求は今、関係ない。

「塔子ちゃん。今はどんな仕事してるの?」
 彼は、世間話から進めようとしてくる。
「週刊誌で記者をしています」
「なるほど」
 その一言で彼は、昨夜の行動がなぜ割れたのか分かったはずだ。
「なるほど」じゃねぇよ。
 天然ぶるのも良い加減にしろ。
 私はお前のせいで、人生を狂わされたんだよ。
 脳内の神経伝達物質が、激しく煮えたぎる。

「ハッキリ言います。昨夜、このホテルの入り口で先生を見かけました」
「うん」
「一緒にいた女性については聞きません。でも、奥様ではないですね」
 彼はそこで、初めて既婚男性の顔になる。
 まるで、自分が正義の人間であるかのように。
 変幻自在なものである。
 逃げたり、隠れたり、また逃げたり。本当に勝手だなと思う。
「私と一緒にいたカメラマンが、現場の写真を押さえました」
「そう」
「近々『週刊富士』に載ると思うんですけど、一応お伝えしたほうが良いと思って」
 私は最後の力を振り絞り、言葉の槍を彼に投げつける。
「失礼します」
 立ち上がり扉を開こうとした瞬間、急に背後が熱くなってローズの香りがした。
 その時、脳内で神経回路がプチンと弾けた。


 初めて編集者として先生に出会った日は、たしか朝から晴れていた。
 私は新刊プロモーションのため、日中から都内の書店を彼と何軒も歩いた。
 その日に限って営業部の人間は熱で寝込み、私は彼と二人きりだった。
 途中、表参道周辺で昼食のとれる店を探していると彼が言う。
「お昼ご飯は、あなたの好きなものにして良いですよ」
 着任したばかりの私は、焦って言い返す。
「いえ。そういうわけには。宮原先生がお好きなものを食べましょう」
 すると彼は、どういうわけか唐突に笑い始めた。
 訳が分からずに余計焦る私に、彼は子供を見るような眼差しを向ける。「『先生』なんて言っちゃって。随分と『あの子』が立派になったなぁと思って」
「え?」
「君、何年か前に、まだ十代の頃かな? 僕の握手会に来てくれたことがあるでしょう」
 私は、心底驚いた。
 かつて読者として彼の握手会に行ったことなど、今まで一度も口にしたことは無い。
 周囲にもそのことは黙っていたし、彼の耳には事実が入りようもなかった。
 それなのに彼は今、何年も前の、たった一日の出来事を鮮明に覚えている。
「どうして、それを知っているんですか?」
 赤面しながら過去の出来事を認める私に、彼は言った。
「僕と同じ匂いがする子を、僕が忘れるはずがないよ」
 あ、今、死んでもいい。そう思った。
 この言葉が嘘でも本当でも、そんなことはどうでもいい。
『ハルと老人』でこの人の存在を知ってしまった時から私は、ずっと〝こうなること〟を望んでいたのかもしれない。
 以来、私は何があっても、彼のそばを離れないと誓った。
 

 私は泣きながら、先生に抱かれた。
 初めて取り替えていないパンツで。
 顔がぐちゃぐちゃになるのも気にせず。
 言いたいことは、たくさんあったはずだ。
 しかし、その全てが、今だけはどうでも良かった。
 叫び声に近いかたちで、私は轟々と声をあげながら、泣いた。
 気がつくと、先生も泣いていた。
 私達が動くたびに、ベッドのシーツにシワが寄り、こすれて鬱陶しい。
 口を塞ぐように何度も先生が唇を押し付けてきて、これはキスと呼べるのか疑問だった。
一枚一枚、シャツやスカートを脱がされる毎に、私は先生を嫌いになっていく。
 それなのに、どうして身体は言うことを聞いてくれないのだろう。
 先生の生ぬるい手で胸を弄られながら、もう気持ち良いとか気持ち良くないとかそういうことではなく、なぜか『パラレル☆くりぃむ』の彼女のことが頭をよぎった。
 好きではない男の人に、仕事のために抱かれた彼女は、どれだけ不快だったろう。
 それに比べて、ここにはマテリアルの異なる存在がある。
 ここには、愛がある。
『パラくり』のあの子と、藤田。
 先生と、私。
 星の数ほど無数の男女が交差する世界のなかで、愛とは一体なんだろう。
 今、私の体液を吸うこの男は、なぜこんなにも私を苦しめるのだろう。

 私は、ずっと言いたくて、ずっと言えなかったことを彼に伝えた。
「私、先生のことが好きです。先生は、私のことが好きですか?」
 彼は、私の頬に滴る涙を拭いながら優しく言った。
「あれから、塔子ちゃんが毎日夢に出てくる。他の子は出てこない。君だけが頼りだよ」
 正義とは。愛とは。道徳観とは。
 そんな疑問が、枕元で走馬灯のように過ぎ去っていく。
「わかりました。約束します」
 今日だけは、このローズの香りを部屋中から消し去ってしまいたいと思った。

シナプス_データ圧縮済み③

 出社すると、昨日の遅刻について嵐山から尋ねられた。
「木村さんが遅刻するなんて、珍しいね。体調悪かった?」
 優しい顔つきで心配されるほど、罪悪感が芽生える。
「いえ。大丈夫です」
 私は平然と仕事に戻り、二十時から原田といつものように張り込みに出た。
 場所は、会社から徒歩八分の場所に位置する、赤坂の高級焼肉屋「KINTAN」。
 今夜は車を使用せずに、徒歩だけで張り込みを行う。
 野球選手とアイドルによる合コンが行われているとの情報が入り、現場に急行したのだ。
 彼らが店を出るまで、我々はカップルのふりをして店前のセブンイレブンに待機する。
 心からこの時間がどうでも良い。
 それに、選手達も馬鹿ではない。

 二十三時を回る頃、先に選手達が店から出てきて、各々がタクシーに乗り込む。
 店内に残されたアイドル達は、数分後、一万円札を握りしめながらぞろぞろと出てきた。
 さしずめ、「気をつけて帰ってね」と選手から心配りで渡された車代の万札だろう。
 健全な男女が健全な時間に食事を共にして、健全に金を渡し渡され、健全な時間に帰る。
 その何がいけないのだろうか。
 原田は彼らの様子を撮り続け、「女子が万札を持ってくれると、絵になってありがたいですね」と言って私のツッコミを待っている。
 近頃は、ここで私が「最低ですね」とか「ゲスですよ」と言って、小芝居が始まる。
 そのプレイも含めて、私は原田と張り込みの空気感を確立し始めていた。

 今夜は無言の私に対して、彼は珍しく「顔色が良くないですよ?」と質問してくる。
「いえ。別に」
 私は気を取り直して原田に一つ、質問を投げかけた。
「これまで撮った写真を、ボツにしたことってあります?」
 彼は、キョトンとしたまま答える。
「あー。突撃取材を止めたことは一回ありますね」
「それって、どんな時ですか?」
「えっと、ある女性が、前に大きな会社の役員と不倫してたんすよ。その女性に真相を聞きに行こうと思って、昼間に直撃した時……」
そのまま手のひらを広げ、地面から一メートルの位置で止める。
「その女性がね、こんくらいの小さな息子さん連れて歩いてたんです。三歳くらいかな。その子が、恥ずかしながら自分の娘に見えちゃって。踏みとどまっちゃったんですよね」
 彼は珍しく照れ笑いを浮かべている。

 私は、机の上に置かれていた「ちーたん誕生日おめでとう」の写真立てを思い出していた。
「その後、俺、編集部に戻って編集長に謝ったんですよ。取材ができなかったこと。『すみません。小さな子の前で、母親の不倫を問いただすことはできませんでした』って」
「そしたら嵐山さん、なんて?」
「『分かるよ。僕も熟女のグラビアを撮影しながら、いつもお袋を思い出すから』って」
「やっぱり嵐山さんって、なんかズレてますよね。それ、返事のベクトルが全然違うし」
 私は少し笑う。
 原田も、まんざらでもなさそうに笑った
 彼はきっと、家に帰れば良いパパだろう。
 温かい食事が出てきて、熱い風呂に入り、ふかふかの布団で妻と娘と寝ているのだろう。
 私は家に帰っても、冷凍の白米しか待っていないけれど。

 眠れぬ夜を過ごし、朝九時に出社するとまだ誰もオフィスにはいない。
 それもそのはずで、この編集部に社員が出社するのは、だいたい十時とか十一時くらいである。
 そこから帰宅までの勤務時間が異常に長い。
 原田の机には、望遠レンズが付いたカメラが置かれていた。
 彼の命であるこの機材で、今まで何人を社会的に抹殺してきたのか。
 いや、原田の言葉を借りるなら「真実を追求した先」にスキャンダルがあっただけ。
 それを俺らは、正確に報道しているだけです。
 そんな言葉が、今にも聞こえてきそうだった。

 通勤バッグを脇に置いた私は、さりげなく原田の机に置かれていた〝命〟を手にとる。
 ゆっくりと電源を入れて、再生ボタンを押す。
 昨夜撮った、野球選手と合コンしていたアイドル達のカット。
 その数日前、原田と私で張り込んだ女子アナの朝帰りのカット。
 彼が単独取材した、政治資金不正流用疑惑のある議員のカット。
 数枚を経て、宮原亮が女性と歩いているカットに到達した。
 脊髄反射で、指先が震える。
 私がここでこの写真を消したとしても、几帳面な彼はバックアップを取っているに違いない。
 それに、セキュリティのゆるい編集部に、彼がカメラを長時間放置するとは考えにくい。
 原田は今、私の近くにいるのかもしれない。
 しかし、それでも。今、私が消してあげなければ、先生は。宮原亮の作家生命は。
 私が硬直していると、横から素早くカメラが奪われた。

「えっと確認ですけど、今なんかデータ消しました?」
 原田が、怪訝な表情を浮かべて立っていた。
「いえ。ちょっと色々と写真が見たくて」
「昨日からマジで様子がおかしいですよ」
「はい。すみません」
 私は血の気が引くのを感じながら、覚悟を決めて打ち明ける。
「あの、お願いがあります」
「なんすか」
「宮原の写真、無かったことにできませんか?」
「は?」
「お願いします」
 私は、這うように土下座をして原田に乞う。惨めでは無い。
 今の自分には、これしか彼の力になってあげることが出来ない。
「……木村さん。本当に勘弁して下さい」
「ごめんなさい」
 室内が、しんと静まり返る。
「撮った写真を無かったことにするのは、無理ですよ」
「お願いです。きっと出来心だったと思うんです」

 顔をあげて懇願すると、原田は心底私を軽蔑した様子で見つめていた。
「もしかして宮原亮と、過去に何かあったんですか?」
「宮原と私は、ずっと不倫関係でした」
 その瞬間、原田は自分が着ている真っ赤なパーカーに負けないくらい、頬を赤く染めた。
 部下から突然の告白を受けて、頭に血が上っているに違いなかった。
「木村さん。頭おかしいです。アンタ、週刊誌の記者でしょ」
「記者である前に、ひとりの女でいさせて下さい」
「そこまでして、そのクソみたいな関係を優先したいなら、この仕事は辞めるべきです」
 そう呟くと、非常階段口から足早に外に出ていく。
 入れ替わるようにして、社員が続々と出社してきた。

 そこから二日ほど、原田とは口が利けない状態が続いた。
 山崎という女性社員と私でコンビを組み、真っ当なページを作成するための取材に出る。
 私を除き、編集部で唯一の女性である山崎さんは、いつも男のような格好をしている。
 黒いマウンテンパーカーに、コンバースのスニーカー。
 ベリーショートの髪には白髪が散見しているが、本人は見た目を気にする素振りがない。

 その日は「謝罪に必須な手土産特集」と題し、サラリーマンのためのスイーツを取材していた。
 新橋・新正堂の「切腹最中」を中心に数軒の取材を終え、虎ノ門駅から約三分に位置する和菓子屋・紅葉屋に入る。
 この店で売られている「揉み手饅頭」は、揉み手する手を象った生地の中に餡が詰められ、謝罪が必要なビジネスシーンでよく購入されているらしい。
 店主への簡単な取材を終えると、物撮り担当の山崎さんが撮影に入る。
「女性の手で饅頭を持った写真が欲しいから、木村さん、手だけ写り込みお願いできる?」
「はい」
 私は言われた通り、饅頭を持ち上げてカメラに向ける。

「木村さん、うちでの仕事、だいぶ慣れたね」
「まぁ、お陰様でなんとか」
「最初、あなたがうちに来た時は、すぐ辞めると思った」
 山崎さんは、悪びれる様子もなく言う。
「まぁ、ハードな仕事ですもんね」
「前に入ってきた女性社員も、原田さんと合わずにすぐ辞めたし」
「たしかに、あの掴めない感じには戸惑いました。私がトイレに行きたいって言えば、『ペットボトルで用を足せ』とか平気で言いますし」
「いくら週刊誌の世界でも、そんなことやってる人、今ほとんどいないよ」
 私達は、珍しく声をあげて笑った。
「ですよね。扱いが酷すぎて震えましたよ。ほんと」
「でも、原田さんほど優秀な記者、私は見たことないね。常に新しいネタ見つけてくるし、きちんと裏を取るし」

 彼女は、私の手の角度を微調整させながら画角を決めていく。
「大きなスクープを獲ったら、会社からインセンティブが出ますしね。ご家庭がありますし」
 皮肉を込めた口調でそう返すと、彼女は意外なことを口にした。
「あの人、シングルファザーだよ」
「え?」
「木村さん、知らなかった?」
「はい。あの傍若無人っぷりを支える、マザーテレサのような奥さんがいるのかと」
「詳しくは知らないけど」と、山崎さんは前置きをしたうえで続ける。
「パート先の若い男の子と不倫して、家から出ていったらしいよ。原田さんも仕事の鬼だから。あんまり家にいなくて、奥さん寂しかったのかも」
 淡々と撮影は続く。
 ふと、「一度だけ取材を止めた」と言っていた時の原田の表情を思い浮かべる。
 その日、私は「揉み手饅頭十二個入りセット」千五百円を一箱、自腹で購入した。

 金曜の夜という特別な響きを持った喧騒が、外から聞こえる。先生からは

「その後、どうなってますか?」

というメールが一通入っていた。
 その言葉の意味を知りながら、私は返事を持て余す。
 謝罪スイーツ特集の原稿を執筆していると、二十四時を過ぎた頃、原田がひとり編集部に入ってきた。
「こんな遅い時間まで、張ってたんですか」
 私はなるべく普段通りに声をかけるが、彼は無視を決め込んでいるようだった。
「夜遅くまで働いて、『ちーたん』は大丈夫なんですか」
 不意に娘のことを聞かれた彼は、思わず反応した。
「え、娘のこと? 俺の母が面倒見てくれているので」
「そうですか」
 すかさず私は、自分のデスクの引き出しから「揉み手饅頭」を取り出して彼に手渡す。
「なんすか、コレ」
「今日、取材先の和菓子屋で買いました。お詫びの印です」
「はぁ。ありがとうございます」
 彼は抽出したばかりのコーヒーを飲みながら、片手でそれを受け取ってくれた。
 詫びたところで自分の罪が消えないことは分かっているが、部下としての愚かさを謝罪したい気持ちもある。

「自分が頭おかしいことくらい、とっくに自覚しています。でも、抜け出せなくて」
「だからって、絶望的にアホですよ。木村さんは」
「私、宮原以外、男性と付き合ったことないんですよ」
「知りませんよ。そんなこと。どうでもいい情報です」
「ですよね」
 私はこの男に、なぜ恥部をさらけ出しているのか。
 情けない気持ちで胸がいっぱいになる。
 もっと、真っ当に生きる予定だった。
 もっと、結婚とかして普通に。

 しばらく無言が続いた後、彼が溜息まじりに呟いた。
「宮原と会う時は、いつも食事代とかホテル代、むこうの奢りですか?」
「え? はい。まあ、収入が違いますから」
「じゃあ、木村さんは、ワリカンで食う牛丼の旨さとか、知らないんすね」
「別に、こっちから無理に要求してるわけじゃなくて……」
「喧嘩して、仲直りしたことはあるんですか?」
「喧嘩は一度もありません」
 原田は笑った。
「まるで、ママゴトじゃないですか。木村さんは、あの男に利用されているだけでしょ」
「それでも彼の力になりたいんです」
「自分を簡単に正当化しないで下さい。本物の恋愛でもないくせに」
「不倫は、本物の恋愛にカウントしたらいけませんか?」
「どう考えたって、本物じゃないでしょう。人のモンを、万引きしておいて」
「万引き?」
「アンタのやってることは、万引きと一緒ですよ。きちんと手順を踏んで買い物すべきものを、人の旦那盗んでるんですから。良い歳した大人が、恥ずかしいと思ったほうが良い」
「たしかにそうかもしれません。でも、そこまで叩かれるべきことでしょうか」

 その時、原田が大きな声を張り上げた。
「その身勝手な感情が、人を死ぬ直前まで追いやることだってあるんです」
 このまま原田に殺されるかも知れない。そう思うほどの迫力だった。
 原田のデスクに置かれたイチゴ柄の写真立てが、パタンと小さな音を立てて倒れた。
 その時、私のスマホが鳴る。
 着信相手の名前は、宮原亮。
 鳴り続ける電話に出ることができず、私と原田は呆然と着信音を聴き続ける。
 コーヒーの香りが立ち込める空間のなかで思考は混乱し、もはや苦行だった。
 原田は着信音が停止したことを確認してから、意を決した表情で私に言った。

「木村さん。今から俺の言うこと、信用してくれます?」
 唇を噛みしめる彼の表情は、やはりどこか熊に似ている。
 その五分後。
 私は「事実」が持つ力を改めて突きつけられた。そして自分が、思っていたよりもずっと深く、地の果てまで、自分が愚かであることを知った。

 今、私の目の前にいる先生は、少し寂しそうな表情を浮かべている。
 深紅のベッドカバーが、彼の体重によって深くシワを刻んでいた。
「私、今も昔も、ずっと先生のことが大好きですけど」
「知ってるよ」
「一つだけ教えて下さい」
「うん」
「なぜ若い作家志望の子にまで手を出したり、女性に酷いことをいっぱいしたのですか?」
「あ、それもバレてるの?」
「週刊誌、舐めないで下さいね」
 彼は動揺した素振りを一切見せず、私の頭を撫で続ける。
「作品を書く時に」
「はい」
「ここに一つの孤独があったとして。それは優れた小説を生んでも、まったく満たされない『何か』があるのね」
「そうでしょう」
「そういう時、僕は女性に助けを求めたくなる」
 先生は、「君なら分かってくれるよね?」ということを前提に私を見つめる。

 そのまま二人はベッドの上で体勢を変え、彼が私に腕枕をした状態になる。
 私は、この横顔をずっと愛していた。
「塔子ちゃん。写真、消してくれてありがとう」
 彼がウットリとした表情で私に言う。
 穏やかな時間だった。
「いえ。消しませんでした」
 そこで初めて驚いた顔をする。
「どういうこと? 約束は?」
 私は立ち上がると、自分のシャツを拾い上げる。
「私は、幻想のなかで恋をして、ずっと幸せでした」
「だから、僕の写真は?」
「いつか先生と結ばれる日を夢見て、婚活も控えて。周囲の友達は結婚ラッシュだったけど」
 シャツのボタンを一つずつ留めていく。
「自分が特別な存在じゃなくても、別に良かったんです」
「ねえ、きちんと話し合おうよ」
「運命の人の、二番目として生きていければそれでいいって」
 目の前の男は、私に静かに圧力をかけてくる。
「ひとつだけ言いたいんだけど。これって、君も同罪だよね?」
 光る爪先は、怒りのせいか少しだけ震えているようだった。
「頼むから君は、僕の言うことだけを聞いて。金でも、なんでも差し出すから」
 初めて、宮原亮の正体をそこで見る。
 もう特別、驚くことではなかった。

 私がロングスカートを拾い上げると、そこからシャボンの香りが漂った。
 これまでは先生のローズの香りと相反する匂いで、それは憎い香りだった。
 でも、今は違う。
 私はもう、ひとりでも歩いていける。
「あんまり女を舐めていると、痛い目みますよ」
 すっかり服を着終えると、LINE通話をオンにした状態のスマホを見せて、一瞥する。
 グループ通話画面には「原田」と「嵐山」、二人の名前が表示されていた。
「良いコメント、貰っておきますね。それと十五年間、私に夢をみさせてくれてありがとうございました」
 目の前のチンコのついたおじさんは、ただポカンとしながら、その言葉を聞いていた。

 翌週に発売された『週刊富士』のトップで、このような見出しが飾られた。

「本誌記者もハマった! 作家・宮原亮の魅惑の手口」

 そこには、数々の女性問題を繰り返した彼の常套手段が載っていた。
 私の名は「K」となっており、本名は伏せられている。
 しかし、予想通りインターネット上では人物特定が始まっている。
 この状況では、私の名前や顔が割れてしまうのも、時間の問題だろう。
 発売当日、私は自宅から最寄りのコンビニで、自社の『週刊富士』を購入した。
 電車で会社に向かう途中、出稿した中吊り広告で彼の名を見つけた。
 満員電車の中では、隣のサラリーマンが私の書いた記事をつぶさに読んでいた。
 世界を動かすのは、いつでも人の手だという当たり前の事実に気がつく。
 ヤフーニュースで外部配信された私の記事には、数千件のコメントが付いた。

 会社に到着する。
 そこでは、いつもと同じように、嵐山がパソコンで原稿を書きまくっていた。
 山崎さんが、珍しく早めに出社する。
 彼女は、私の背中をポンと叩くと「初スクープおめでとう」と声をかけてきた。
 私は軽く微笑んだ後、自分のパソコンを開いて仕事に集中する。
 少し遅れて、原田が出社した。
 発売されたばかりの『週刊富士』を、彼も手に持っている。
 わざわざ自腹で買ったらしい。
 私は、彼に声をかける。
「弊社の売上に貢献してくれて、ありがとうございます」
「今回は、木村さん初スクープですから。一応記念にと」
 彼は、背筋をしゃんと伸ばして私に敬礼する。そのまま原田は言った。
「一応確認ですけど、大丈夫ですか? メンタルのほうは」
「後悔ありません」
「そうですか。バッシングもクソくらえと」
 私は頷く。
 原田は「業が深いですね」と言い放つと、そのままカメラを持って外出する。
 私は急いで彼の後を追いかける。
 出掛けに嵐山から一言、「木村さんって、週刊誌の記者に向いてるよ」と声をかけられた。
 私は驚いた表情で振り向くと、少しだけ深呼吸をしてから笑った。
「こんなに業が深い商売、絶対に嫌です」
(了)

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