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4週間「SNS断食」したら元の世界に戻れなくなった

今年の年明け、私は約4週間にわたりSNS断食を行った。

理由は、以下の通りである。

・Twitterの利用頻度が、「ツイ廃」の領域に達していた

・自分の名前や、自分が執筆した書籍についてエゴサーチをしてしまう

・SNSで手軽に情報を得られることで、「自分で物事を考える筋肉」が完全に衰退していた

この3つの感覚に、疲れきっていたからである。

さらにその頃、私のような者でも見知らぬ方から誹謗中傷を寄せられることが多々あり、酷く落ち込んでいた。

「通りすがりにブン殴ってくる方々」や、「上から目線でツバを吐きかけてくる方々」が、SNSのタイムライン上にはいらっしゃる。

この年明け、某ゴールデン番組で私自身を特集をしていただく機会があったのだが、その際が最も辛かった。

放送後にSNSを見たところ、「大木亜希子という奴、顔が地雷だな」とか「性格がヤバそう」など、本編と全く関係のないことが書かれていたのだ。

顔が地雷、とはどういうことだろうか。

おそらく、ネット用語で言うところの「見ていてイラッとする」とか「苦手」とか、そういう意味合いだろう。

アナタが私のことを苦手でも、私はそれを受け入れて生きてく。

しかし、この30年な、私はこの顔でしぶとくやってきたんだよ。

他人の尊厳を否定するような投稿するのは一瞬でも、言われたほうは、ぶつけられた石が痛い。

たとえそれが、どんなに小さい石ころでも。

どんなに赤ペンを入れたくなるような、チンカス的な文章でも。

下劣な言葉を叫びだしたくなる気持ちを、グッと堪え続けていた。

さらに、誹謗してきた方のアカウントを見に行くと「迷子の猫の拡散情報」をリツイートしていて、それがまた香ばしさと哀愁さを募らせていく。

WEBを戦場とする私のようなライターにとって、「SNS断食」は正直かなり勇気が必要な出来事ではあったが、

・「バズ」や「ネット民騒然」という単語を見るだけで、吐き気を催すようになる

・ネットニュースのタイトルで芸能人を「ちゃん」とか「くん」などと馴れ馴れしい愛称で表記しているのを目撃すると、ミゾミゾした気持ちになる

という私自身の問題も加わった時、いよいよ休もうと思った。

そうは言っても、Twitterで相互フォローをさせていただいている600名様を外す作業は、断腸の思いであった。

クソ惜しいし、クソ後悔する。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、自分の財産を失ったような気持ちになる。

フォローを外すことで、「感じが悪いと思われたらどうしよう」とか、「あちらから外されたらどうしよう」という不安も湧き上がる。(※自業自得)

しかし、意志の弱い私にとっては、もはや「ミュート」では不完全だった。

「完全に相互フォローを外す」ことしか選択肢がない。

Twitterだけではなく、Instagramも相互フォローもフォローを外していく。

すると、インスタの運営局から「あなたのアカウントが乗っとられた可能性がありますが大丈夫ですか?」みたいな警告メッセージが表示されて笑う。

これまでインターネットのなかで彩られてきた世界が、私の前から少しずつ消えていく。

真っ白なタイムラインを見た瞬間、少しだけ心が解放された感覚になった。

結論から言って、このSNS断食は大きな実りがあった。

「独りぼっちの世界」で、私は自分自身の内面と静かに向き合う。

原稿の執筆は進み、欲しい情報は自分から積極的に有料課金して取りにいく習慣が身についた。

むろん、良質なコラムやエッセイ、生きる上で必要な情報が無料で配られている恩恵に感謝したいシーンも山ほどあった。

しかし、断食して限られた情報しか手に入らなくない私にとって「有料でも見たいか、そうではないか」という新たな基準が芽生えたことは大きい。

「私に、お金を出させて下さい」

音楽や文章、芸術に携わる全てのクリエイターに自然とリスペクトが生まれた。

今までダラダラと観たり聴いたりしていた情報の価値や真偽が、自分のなかで問われた。

ノイズが、聞こえなくなった。

次第に生活に余裕も生まれた。

そこで、これまではSNSを見ていたような隙間の時間を使って、フリーランス業の苦行の1つである「経理作業」をしっかりと行ってみる。

すると、なんと12万円の回収漏れが発覚した。

急いでクライアントに請求し、思わぬ大金を手にするという嬉しい作用もあった。

一方で、いつまでこの「放蕩息子」のような生活を続けるべきか葛藤もあった。

一旦「休憩」することは大事だが、SNSからずっと逃げ回っているような感覚もどこかにあった。

私ひとりが誰もSNSをフォローしないからといって、世界が回らないわけでは全くない。

むしろ、皆一様に「へー。お好きにどうぞ(棒)」という感じだろう。

しかし、これまでSNSが生活の一部であった者にとって相互フォローを外したり、SNSを見る時間を減らしたりしても、全てが分断された訳ではない。

むしろ、「苦しんでいた私」を客観的にみえるようになったからこそ、得た感覚があった。

それは、こういうことである。

「SNSは、その人にとって、『家』と同じである」

ということだ。

他人の家に入る時、人々は皆インターホンを鳴らし、相手の同意を得て部屋に入る。

靴を脱ぐ。手を洗う。

場合によっては訪問着を着ていたり、手土産なんかを持ってきたりする。

入室時はスリッパに履き替えて、場合によってはお茶を出してもらう。

おしゃべりを楽しむ。

夕方になったら、「あ、もうこんな時間だわ」だなんて言って帰る。

SNSも、この「家への訪問」と同様に「相手のスペースに自分が侵入している」という感覚を私は忘れないで欲しかったのだ。

誰に? 

心無い言葉を投げかける相手に対して?

そうだ。そして私自身への戒めも込めて、である。

結局、4週間のSNS断食を経て、私は戦場のSNSの世界に戻ろうと試みた。

ひとりずつ昔の友人を中心に探り当ててフォローすると、それぞれ結婚していたり転職したりしていて、ライフステージの変化に驚く。

「フフフ…。○○ちゃん、元気そうで良かったわァ〜」

など、同窓会のような気持ちになりつつワクワクとフォローボタンを押す。

しかし、そのような穏やかさが訪れたのは一瞬だった。

なんと、予期せぬ副作用がおとずれたのだ。

一気に相互フォローを再開したことで、Twitterのタイムラインが文字で埋まり「目が回って、酔う」という珍事が発生したのだ。

これは、SNS断食の副作用だと思った。

どんなに心地の良い言葉を投稿されている方々の文章であっても、沢山の情報が目にはいってくると、それは文字の羅列でしかない。

ドドドドドドドドドドドドドドドドドドド…

雪崩が起きる前兆のような音を立て、私のSNSが情報で溢れかえる。

頭がパニックになり混乱した。

申し訳ないが、再度、フォローするのを止めて静寂の世界に撤退した。

戻るタイミングを完全に失った私は、多いに焦った。

「どうせすぐ再開できる」と思っていた自分にとって、この感覚は大きな誤算だった。

だが、何度トライしても「情報が氾濫する感覚」が恐ろしくて前に進めない。

目が、回るのだ。情報が多くて。

幾度かこの感覚を迎合してみたが、どうしても私の中で「元の世界に戻る」ことを受け付けなかった。

しかし、混沌とした感情のなかで私はひとつの結論を導き出すことになる。

それは、「せめて私の家に遊びに来るお客さんには、今後も美味しいお茶を煎れてあげたいナァ」という安らかな感覚であった。

仕事柄、このままWEB業界やインターネット社会を断ち切って生きていくことは不可能である。

もちろん大スターの場合は、1年に1度、『おはよう』などと投稿するだけで何万リツイートされるだろうし、自由きままにやっていれば良い。

しかし、私は大スターではない。

この世界のどこかに私の情報発信を待ってくれていたり、相互フォロワーさんの中で「交流したい」と思ってくれたりする方がいる以上、戦場に一度は戻ってみようと思う。

しかし、これからの私の心持ちとしては「温かいお茶を出す」ということをモットーに、自分のメディアリテラシーに掲げていきたいと心から思った。

本日の段階で300人以上の相互フォローの方々との関係が復活している。

まだ相互フォローできていない方々もいるが、私は勝手に緊張している。

またSNSが嫌になっちゃったら、ごめんなさい。

(誰も困らないと思うが、少なくとも、私のような者を応援してくれているファンの皆さんもいる)

備忘録でこの感情を書き留めていく。

Twitterで繋がる方々のなかには、私のフォローを外されてしまっている方々もいた。

「ガチョーーーーーン」

というショックは、正直ある。

しかし、それはそれで良いのだ。

現実世界で誰からも好かれることが不可能であるのと同じで、インターネットの世界においても「万人から好かれる」というのは無理なのである。

しかし、人に対して優しくすることはできる。

「実際にお会いすると大好きだが、SNS上での発言は価値感の違いから受け入れられない」というお知り合いも、私自身、幾人か存在する。

その人とは考え方が違うだけで、決して嫌いなわけではない。

「いつかまた会えたら」と、祈るような気持ちで互いの人生の検討を祈る。

今こそ、「人が人に優しいソーシャルネットーワークの世界」を作れたら良いなと思う。

あと、SNSを休憩する際に「一旦SNS休憩してます」みたいな表明シールみたいなのがあっても良いかもしれませんね。

ステイホームのタグみたいに。

なんや、そのシール。

ごきげんよう。







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