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こわい

怖い。


学生時代、私はずっとしにたかった

それを隠しては無いし、別に今も生きたいかと言われたら疑問を抱く程度ではある。

でも年々死にたさが消えている。


かつて何度もやってた、「行動に起こすこと」すら無くなった。
それはどうせしねないからそんなことに時間と心と脳のリソースを割く事がめんどくさくなったから。前向きな諦めである。


私は今まで、しにたいのに必死に生きている自分にアイデンティティを見出して生きてきた。そう生きることに対して美を感じていた。

今も感じている。



でも年々、私の中でのしにたい感情が薄れてきてしまっているのだ。

全ての物事に対して死にたいを原動力にしてきた私にとってそれを感じなくなると言うことは、希薄になっていくということとイコールで結び付けられる様な感じである。


しにたい、でもテスト赤点のやつがしんだらかっこ悪いやろ、いい点とってからにしよ、を続けてきた。


それが最近しにたくないのである。
ただ思いついたことを全部やっているだけ。理由なんてなくただやっているだけ。
それなら批判されがちなしにたい、を理由に色んなことをやっていた時の方がパッションがあった。


しにたいと思わない人を批判している訳では無い。
その人は私のしにたいのように、なにか別のことをアイデンティティとしてモットーとしてお守りとして生きているんだと思う。





私にとって、しにたいが生きている価値だった。






図々しいほどのないものねだりなのはわかってるけど
しにたいと思わなくなった私を認めてしまったら、今までの私を見捨てるみたいでどうにもできない。

少女は私しか守れない。




しにたかった時の無味を感じなくなるのが怖い
しにたかった時の視界のボヤけを見れないのが怖い

しにたかった時の感性が消えるのが怖い



しにたかった時の私は死んでしまった。


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