見出し画像

側にいてくれる仲間がいることのありがたさ

みなさんおはようございます、ユシアです。

昨日は昨日投稿した記事に書いた通り
応用情報の試験を受けて、知り合いのお通夜に参列してきました。

応用情報のことも話したいのですが
忘れないうちに、昨日のお通夜に参列して
改めて感じたことを書き残しておきたいと思います。

昨日のお通夜は、趣味の繋がりで出会った方のもので
参列者の中にも、僕の「仲間」がたくさんいました。

今までにも何度も「人の死」は経験していますが
身近な人の死に対する恐怖
その人がいなくなってしまったことを認めなければいけないこと
そして、それに対する恐怖は
何度経験しても、小さくなるものではないです。
そして今回は色々あって、特にそれが強かったです。

だからこそお通夜に行って
いつもとは違うその人のお顔を見るのがすごく怖かったです。
それを見てしまうと認めざるを得ないですからね。

正直「最後に会いに行かない」という選択肢もありだと僕は思います。
亡くなったことを必ずしも実感しなければならないというわけではないと思うんです。
実際に、ショックが大きくて
お葬式に行かれない方もいるらしいですし。

僕も迷いました。
行かないという選択肢もありました。

でも結局は「最後に会いに行く」という選択をしました。
その理由は2つあります。

1つはやはり「あの時会いに行けばよかった」
と思っても、その後にはもう二度と会えないから。

葬儀が終わってから「お顔を見たい、直接会いたい」と思っても
それが叶うことはありません。
ただ後悔するだけです。
そういう日が来ることを考えました。

2つ目は、自分1人で悲しみを抱えきれなかったから。
葬儀に行けば、僕と同じように
彼女の死を悼む人に会うことができます。
そして幸いにも僕には、一緒に悲しんでくれる仲間がそこにいました。
これはすごく大きかったです。

結婚するときなんかによく聞きますが
「喜びは2倍に、悲しみは半分に」
という言葉がありますよね。
これは本当だと思いました。

いや、正確には悲しみも増幅されるんです。
でもそれは、元々持っていたものが表に出てきただけで
自分の中にあった感情が強くなった訳ではないと思います。
その場で「悲しい」という気持ちを感じることができて
それを表すことで誰かと共有する。
これで悲しみは分け合える、と感じました。

そして、黙って側にいてくれる人
黙っていても側にいられる人
そんな人の存在がとても大きかったです。

僕に取っては「仲間」というのはそういう存在だということを改めて感じました。
こういう人って、本来はなかなか出会えないのではないでしょうか。
少なくとも僕は、この趣味を持っていなかったら
そんな関係になれる人と出会えていたかどうか分かりません。
というか、出会えていなかったと思います。

こんなときに、と思う人もいるかもしれませんが
こんなときだからこそ「自分は幸せだ」と思いました。
こうして側にいてくれて
こうして気持ちを共有できる人がいて
こうして自分の悲しみを理解してくれる人がいて。
幸せだと思いました。

生前、僕と素晴らしい時間を過ごしてくれて
この大切さに改めて気付かせてくれた彼女に感謝をして
彼女を送ります。

ありがとう。
またいつかお会いしましょう。

20代後半ゲーム好き。Youtubeにてゲーム実況を始めたばかり。好きな人と好きなことをして生きていくことが目標。