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悲しいのは嫌い*悲しくなるのは好き


たとえば誰かに裏切られていて、関係も修復できず、
そのせいで仕事にも身が入らず失敗続き。

家族の病気の発覚に耐えかねる毎日。

慣れ親しんだところから、引っ越しを余儀なくされる。

人違いでやり玉にあげられて、弁解の余地が与えられず、
そうこうしているうちに、可愛がっていたペット旅立つとか。

間断なくやってくる日常の、自分ではどうしようもない出来事の数々に
埋もれてしまうのは悲しいことだと思う。

悲しいことを聞いたとしても「大変ですね」としか言えない。

ひとはみな「平穏な日常」を欲しているけれど、
平穏が続くことにも、時に飽きてしまうのだ。

音楽なら、転調があってこそ心が動く。

肉体の渇きは水や食べ物で蓋を出来るけれど、
心の渇きは、何かの物語に出会うことでしか癒せない。

だけど、その物語は悲しい物語では駄目なのだ。

ほんの少し悲しい気持ちになれて、ほんの少し悲しみに触れたり、
のぞき込む程度の軽さでなければ駄目なのだ。

きっと耐えられないから。

ほんの少し悲しくなって、すぐに平穏に戻れる保証や安心さがなければ、
人は悲しみと向き合うことをよしとしないのだ。

理由はいくつも考えられるけれど、
たとえば、平和な世の中に育って、心が鍛えられてないから。

たとえば、裕福な家庭に育って、体も心もハングリー精神とほど遠いから。

たとえば、スポーツが苦手で、努力することの意味を嫌っているから。

たとえば、平坦な言葉が好きで、複雑な環境を理解するのが面倒だから。

たとえば、絵本も読まない子供時代で、どんな想像力も持てないから。

たとえば、ただ単に未熟で、向き合えるキャパシティが狭いから。


不来方こずかたの お城の草に寝転びて
空に吸はれし 十五の心

石川啄木


寝転ぶくらいならきっと広々とした場所。

誰にも見られず、気にされずに、その草も、
太陽に暖められた気持ちのいい場所なんだろうと想像する。

空は青く、風は気持ちよく、
さわさわと通り過ぎていくような天気だからこそ、
その若い身体を横たえているのだろう。

日頃の鬱屈した気持ちまでが晴れ晴れとするように、
草原に広がる空は、さらに包み込むように広がっている。

ここは昔、不来方城こずかたじょうのあった場所だと言われれば、時の流れを思い、
自分の生きている自由な時代の空気に親しみを覚えるだろう。

空と対峙した自分の体は頼りなく小さいものだ。

吸われていくような自分自身を思うのは、
精神と肉体の一致を見ない、不安定な思春期特有の頼りなさだ。

まだ何者でもない、だけど手に余る、
この世でたったひとりの自分という存在。

赤ん坊が、自分のにぎったこぶしをじっと見るようになって、
自分と自分のこぶしの関係を知るように、
15歳が、空と自分の関係性を思い描いてるような心象風景の清々しさ。

それは誰しもが通って来た道の、よくある一瞬であり、
その懐かしさはほろ苦い悲しさとともにある。

15歳が、この15歳の詩を読めば、
何も分からず、ただ希望に胸を浸すかも知れない。

15歳以上が、この15歳の詩を読んだ時、
いっきに時間が押し戻されて、その流れの中に浮かぶ数々の思い出が、
ひとを悲しい思いの場所へ、心を連れて行くのだと思う。

過去にあるのは、反省や失敗や後悔が数限りなくある。

自分にはもう遠い昔で、やり直すことは出来ないのだ。

明るい情景が、読む人自身を肯定し、
よりいっそう、その明るさを言葉にまとわりつかせて、
心のひだを縫うように、慰めてくれる詩だと思う。

その慰めというものを、少し悲しく感じるのは、
取り戻せない、過ぎてしまった時間への漠然とした思慕かも知れない。


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