アメリカにおける「創造論」と「進化論」-最も「進んで」いる国における問題点-
科学で「説明しないもの」と「説明できないもの」の違いはなんであろうか。
この二つはときとして曖昧なものとみなされ、混同されたり、また本来片方でのみ扱うべきものがもう一方の領域で論じたられたりすることなどにより、様々な問題が生じている。
非常にセンシティブで、込み入った題であるが、多少なりとも整理しやすいケースがある。
その代表格である、アメリカにおける「創造論」と「進化論」の考え方や論争をもとにして、この二つの違いを考えていきたい。
アメリカという国は、アンビバレントな側面をもっている。
GAFAに代表される企業があるよう、世界で最もテクノロジーが進歩している国という面がある一方、エバンジェリスト(キリスト教福音派)に代表されるような宗教色が濃い国でもある。
アメリカの二面性は、必ずしも矛盾だけを招いているわけではない。
おおよそ半数の人は、宗教と科学を別物ととらえている。
科学の進歩の定説(ここでは進化論を指す)を受け入れながら、宗教的な信条はまた別に持つという態度も、最近になっては受け入れられるものとなってきた。
しかしここに至るまでの苦悩の歴史や紆余曲折、およびいまだに、進化論を受け入れない人がいるという事実は、特筆に値すべきことだと考える。
アメリカのそのような側面はどのように生じたのであろうか。その原点を探っていく。
アメリカは移民の国である。
黎明期にピューリタンたちが大西洋を渡って、新大陸に「理想の国」をつくろうとしたことからはじまり、アメリカは様々なバックグラウンドを持つ人々を統合するための手段として宗教に特別な役割を与えてきた。
それは政治的なものとも密接な関わりを持っている。
共和党は、キリスト教原理主義者を票田と見込んでいる。
ゆえにここから言えるのは、科学・宗教・政治はおおよそ切り離せない関係にあるのではないかということだ。
生活の中に宗教が入り込んでいるのはアメリカらしいとも言える。
日本では、多少考えにくいことであるが、科学と宗教は、教育にも密接な影響をおよぼしている。
アメリカは週ごとに、教科書を裁定する。
もちろん州により、裁定の基準は異なっている。
南部の州などでは、両論併記、つまり進化論だけを教えるというのではなく、神が世界を創ったという「創造説」も盛り込まれていた教科書が採択されていた。
ここに宗教が日常に密接に根付くアメリカ特有の体質が感じられる。
日本を含む多くの国では、科学と宗教は別個のものと位置づけるのが当然とされるが、アメリカではそうではない。
しかしそこにことさらに懐疑の目を向ける必要はないとも思われる。
彼らはある種慣れている。
彼らにとっては、科学を否定しているわけではなく、信仰と科学が衝突した時に、信仰を優先しているという姿勢を示しているだけだ。
話はここでおわればよいのだが、こと「創造説」と進化論においては複雑な様相を帯びてくる。
あくまで「宗教的なもの」に基づいていた「創造説」が、進化論との論争の中で、その理論における「正当性」を獲得しようとする。
その中で考案されたのが「知的設計説」なる考え方だ。
これは、生物の進化を考えたとき、科学では説明できないような複雑さが存在する。
ゆえに、そのようなものを創造することのできる圧倒的な知性を持つ存在が、生物や世界をつくり出したのだという考え方だ。
これは「全能なる知性=神」のみが、科学的に、世界を設計しうるということを示している。しかし私はこれに対し、疑問を抱かざるを得ない。
私が思うにこれは、いわば「領域の取り間違い」である。
そもそも「創造説」はもとから、科学で説明する必要などない。
科学が、本来であれば介入しない領域に、「科学的な」説明をもって応じようとするのであれば、話がややこしくなるのは当然である。
いわば、本来的に『科学で「説明しないもの」』を科学で説明しようとすること自体が間違いなのである。
『科学で「説明しないもの」』とは、意図的に科学では説明しないということである。
それにより、社会的な平衡が保たれていることもある。その代表的がアメリカにおける「創造説」だったのである。
次に、『科学で「説明できない」』ものについて考察を加えていく。
いつの時代にも、際立って「科学的」なものがある。
しかしそれが「説明可能」であるかというと、話はまた別である。
コペルニクスが、ガリレオが経験したように、「科学的」であるということは、必ずしも大衆の合意が得られることを保証しない。
「科学的」ということは、「説明可能」であるということを必ずしも意味しないのである。
ゆえに本来ならば「科学的」であることが、その時代の背景によって「非科学的」だと見なされるような事態が起こるのである。
このことからわかることはなにか。
それは、「科学で説明できる・できない」は、その「科学的厳密性」によるものではないということである。
厳密性が足りないがゆえに「科学的」な説明ができないのではない。
むしろ「科学的」な説明を妨げるのは、だいたいにおいて「非科学的」な要因なのである。
アメリカにおける「進化論」はその代表例である。
進化論は「科学的非厳密性」ゆえに大衆の合意が得られなかったということでない。
そうではなく、進化論はアメリカの持つ、風土や宗教的カルチャーによって、その浸透が妨げられた。
これは、本来なら別個の視点から論じられるべきものである科学と宗教を、「正当性」の観点から同一の視点で論じたがゆえに、事態の混乱を招いたわかりやすい例である。
「科学的」であることと「宗教的」であることは、いつも必ず矛盾するとは限らない。
ほどよい按配で共存していくことも可能である。
しかし、「正当性」の定義はそうすることを許さない。
一方に加担することは、もう一方には加担しないということを示す。
破綻はそのような場合に生ずるのである。
また政治的な要因も無視できない。
2005年にブッシュ大統領が、進化論だけでなく「知的設計説」も公立の学校で教えるべきだとコメントしたことがある。
これは、「知的設計説」が科学の領域に入り込んだだけでなく、様々な利害を取り入れながら、政治の領域にも深く足を踏み入れた証左である。
「創造論」による進化論批判は、「知的設計説」に見られるような「科学的」な側面からのアプローチだけでなく、政治的な利害とも結びつき、新たな論争を呼んだ。
ここからわかるのは、科学は「純粋科学性」によっては決まらないということである。
『「科学的」である』ということは、時代背景や政治・宗教など、様々なファクターを通して規定されうるのである。