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友達について考える

わたしは友達が少ない。確実に少ない。
幼なじみや中学からのベストフレンド!みたい関係は築けず、大人になってからやっと「これが友達か!」と思える人たちに出会ったように思う。

いまだに「友達」という関係性について、多種多様なのはわかりつつも、よくわからんなというのが正直な気持ちだ。

漫画や映画などで見るような、なんでも話せていつもそばにいる友達関係に憧れたこともある。いまだにそういうティーンエージャー向けの映画は大好き。

今日は、バーチャルな友達について書きたいと思う。

リアルとバーチャル

我が家にインターネットがやってきたのは、わたしが中学生の時。
学校でよく作文などで賞状をもらっていたわたしに、祖父がノートパソコンを買い与えたのが最初だ。
VAIOの耳みたいな形のスピーカーがついているかわいいノートパソコンを買ってもらった。めちゃくちゃ気に入ってた。(本当にかわいかった。)

学校に馴染めなかったわたしは、自分の好きな音楽の話ができる相手を求めてインターネットの波に飛び込んだ。
運良くすこし年上のめちゃ美人なお姉さんと出会い、福岡⇔千葉の距離があったので約5年間ほど文通やメールのやりとり、電話で話したりするようになった。

異世界と繋がったような感覚になった。手紙に同封されるプリクラや文章、なにもかもにわかりやすく憧れた。

わたしが東京の大学を目指していたため、一度だけ本当に会うことができたが、緊張しすぎて何を話したのかもまったく覚えていない。喫茶店に入ったけど、お姉さんが光って見えて眩しかった。本当にそんなくらい憧れていたのだ。

でも、お互いに成長するなかで連絡の頻度は減り、いまとなってはどこで何をしているのかもわからない。ハンドルネームみたいなもので呼んでいたので本名もわからない。

いま思い返すとお姉さんの存在はバーチャルに近かった。
わたしの日常とかなり近いところにいてくれるバーチャルだった。
その存在に確実に救われていた。

実体がない

誰にだってあるような茫漠とした寂しさがこびりついて離れないような夜に、話をしてくれる人は貴重だ。

そして、わたしの場合、物理的な距離があればあるほど何故だか安心した。
安心して自身のことや自分がいま考えていること、好きなもの、苦しいこと、素直に話すことができた。

物理的な距離はうんと離れていても、思考や意識の距離はかなり近づく。
知らないことは現実のこと、知っているのはその人の内面のこと。
その関係性に安堵する。

会ったことはなくても友達

今年34歳になるが、わたしにはいま会ったことはないけど実際に存在している友達がいる。

その人はわたしより年下なのにしっかりしていて、苦しいことも悔しいことも含んだ真っ直ぐな人だ。ひねくれているけど真っ直ぐ。
たぶん嘘がつけない人。

自分と波長が合う人と言葉をやりとりすると、その言葉の意味以上に何かを受け取れる感覚がするときがある。
わたしの数少ない友達たちは、そういう波長の部分がありがたいことにわたしととても合う人達ばかりだなと思う。

バーチャルで出会って、いまだ会ったことがない友達。
この人ならどんな言葉を返してくるのだろうと、心臓をキュッとしながら文章を送る。
その返事が2分後でも1週間後でも良いのだ。

確実にその人との関係性を構築しているという感覚がするのだ。
これは何なんだろう。現代病と言われたらそうなのかもしれない。

普段口に出せない自分の好き/嫌いをそのまま話せる、現在起きているマイナスな状況など、自分の内面に近づき、相手の内面に近づいたような感覚になるコミュニケーションは、わたしはまだなかなかリアルでは体感したことがない。(むしろ、リアルなコミュニケーションのほうが嘘っぽく実体がないような感覚になることが多々ある。)

わたしがまだ子供なのかもしれない。
でも、わたしはこの関係性があることに安心して毎日眠りにつける。

その人がわたしに話していないこともたくさんある。
わたしがその人に話していないこともたくさんある。
知らないことだってたくさんある。
どんな1日を過ごしているかなんて知らない。
好きな食べ物も知らない。

でも、確実にわたしはその人を知っている。
そしてお互いの持っているものを信頼しているし、純粋に好きなのだ。

年齢も性別も住んでいるところ、文化や日常の違いを一旦置いておいて、見て聴いて感じたことを伝えて、お互いの思考を交換できることは、とてもたのしいことだとおもう。

会ったことはなくても、我々は友達だ。

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