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立憲民主党の課題 ~ 2021 衆議院選挙の結果を受けて No.2

1. 政策の重点がずれている。 正しさには投票しない
2. 陥った批判の罠 - 批判で被統治側の印象が定着した
3. 有権者とのコミュニケーション不全
4. 支持者組織化の戦略の欠如
5. こたつぬこ、田中信一郎教授の客観視を
6. 分配と支え合いは政治課題の一部でしかない
7. 構造的政策の必要性
8. 経済政策、産業政策、科学技術政策、他
9. 明るさと、多少の和風イメージの必要性
10. 日本リベラル固有の問題
11. 日本人の問題

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 選挙結果が出た機会に、立憲民主党支持者としての立場から、今の立憲民主党の課題について、まとめました。基本的に上記のような項目から成り、こちらは、第二項目め「2. 陥った批判の罠 - 批判で被統治側の印象が定着した」です。他の項目は、追って公表します。第一項目目「1. 政策の重点がずれている。 正しさには投票しない」はクリックで飛びます。

 選挙についての総括は、第一項目目の冒頭を参照ください。

 以下、本文になります。

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2. 批判が恒常化して、一種の自動的な癖になり、被統治者イメージを強化してしまった事

 立憲民主党についてよく聞かれる批判というか、ほとんど耳がタコになりそうなほどステレオタイプ化している批判に、「批判ばかりだ」、というものがあります。安倍政権、菅政権の時代は、仮に安倍政権以前の時代であれば、本当に、どれか一つが起こっても、内閣総辞職になっておかしくないような様々な問題が、絶え間なく次々と起きました。しかもそれが責任を取られることもなく放置されました。ですから、立憲民主党が批判ばかりして、国民生活を閑却しているかのごとくに言う批判は正しくありません。立憲民主党の批判は、必要な批判です。野党としての国民に対する責任を果たしたものでした。安倍政権以前の時代をあまり知らない若い人では、立憲民主党は揚げ足取りばかりをしている、というようなイメージを持っている人もいるかもしれません。しかし、それらの批判は、国や制度の根幹に関わる大きな問題が起こっている時に、それが放置されてはならないから、多大な労をいとわず批判していたもので、大多数は疑いなく必要な批判でした。

 とは言うものの、安倍-菅政権を通じて、あまりにも長期間そのような野党からの批判が必要な状態が続き、次から次へと野党の責務として批判を続けている内に、批判が一種の癖となり、いつしか党が批判に引きずられるようになった、という面があるように思います。政党は本来、自身が政権を担当し、その政策や考えの実現することを目指すものです。そうであるのに、野党の責任としての激しい批判が必要である時期がこれほど長く続くうちに、いつの間にか自身の政策を話す際にも、常に自民党の政策批判の話から入り、それに対するアンチテーゼとして 立憲民主党の政策を話す、という思考パターンの癖がいつしか出来てしまったような感じがあります。

 「あなたのための政治を実現します」 と表紙に書かれた、2021年10月の衆議院議員選挙の立憲民主党のチラシには、裏面に「支え合う日本へ」 として、以下のように書かれています。

以下引用 (丸数字は、index化のため私が追加)

 支え合う日本へ

 ① 新型コロナウイルス感染症が、私たちの日常生活を一変させました。

 ② 競争ばかりをあおり「自己責任」を強調しすぎたこれまでの政治がもたらしたのは、適切な治療を受けられないまま命を失った皆さんや、十分な補償がなく廃業に追い込まれた事業者の皆さん、住むところにも明日の食べ物にも困りはてた皆さん。今も多くの皆さんから『当たり前の日常』を奪い続けています。

 ③ 今こそ『当たり前の日常』を取り戻す。誰も取り残されない社会をつくる。そのためには、「今だけ、金だけ、自分だけ」という時代おくれになった政治を変えなくてはならない。
 
 ④ 表紙を変えただけでは変わらない。嘘とごまかしのない「まっとうな政治」へ。命と暮らしを最優先にする政治へ。イザというときに頼りになる政治へ。そして支え合い、分かち合う社会へ

 ⑤ 当たり前を当たり前に。あなたのための政治を実現します。立憲民主党がその先頭に立ちます。

 立憲民主党代表 枝野幸男

 引用終わり。


 読んですぐ分かるように、②競争をあおり自己責任ばかり強調しすぎた政治、医療崩壊、無補償、貧窮 ③「今だけ、金だけ、自分だけ」の時代おくれの政治
、と四ページの内、最終ページの最初の三分の二近いスペースが基本的には自民党政治の批判に使われています。

 そして、「表紙を変えただけでは変わらない」とあったあと、我が党はどのような社会を提供するか、という、有権者が最も注目するところが、「嘘とごまかしのないまっとうな政治へ、命と暮らしを最優先する政治へ、命と暮らしを最優先にする政治へ。そして支え合い、分かち合う社会へ」と、抽象度がひじょうに高い、ふわふわした、とも言える言葉になっています。政策は、内側の二ページに書いてあるので、ここは心情的に訴えたい、というのも分かりますが、もう少し抽象度の低い事を書かないと、ポエム、と言われてしまいそうです。だいたい大変な目にあっている人は、社会への信頼度が低下して、容易に信じない精神状態になっているかもしれません。で、あれば「嘘とごまかしのないまっとうな政治へ」のところは、法律が確実に守られる政治に、とか具体性を上げて、しかも「政治へ」とか、詩やエッセイみたいな書き方ではなく、全部「へ」を取って、「政治を実現します」とまとめるとか、責任政党らしい表現にしたほうがよいと思われます。最後に⑤で、「当たり前を当たり前に。あなたのために政治を実現します。立憲民主党がその先頭に立ちます」と締められますが、なぜ「先頭に立つ」として、大勢の中のひとりで先導はしますよ、のような書き方にするのか、「立憲民主党があなたのための政治を実現します」のような、はっきりした言い方のほうがよいと思います。余談のようになりますが、「あなた」という日本語では、女性が夫を呼ぶ以外では、いわゆる目下の人に使われる場合が多い言葉の選択のセンスも少し問題あったように思います。枝野代表が「あなた」と使った文章を書くのは、作家ではないので、特に問題ないと思いますが、文章の専門家が見て指摘し、代表もそれを受け入れて修正される態勢になっていないことが問題のように思います。
 この文もそうですが、一般的に現在の平均的な有権者が、何は可能と思っているか、を把握していて、それに合わせてメッセージを出す、というセンスも現在の立憲民主党はあまりよくないように思います。「ゼロコロナ」もそうでした。考え自体はまったく正しいのですが、多くの国民の思考の枠組みに合わせた表現ができていないのです。いや、枠組み自体がよく理解できていない感じがあます。「できそうにもない」と思われていることを、相手の頭のフレームワークに、少なくとも多少の揺らぎをもたらすだけの説明もなく打ち出すと、夢物語を言っている所謂ドリーマーのような印象になって逆効果だと思います。

 批判癖がついてしまっている、ということを説明している項目なので、話を元に戻します。要するに、このチラシも立憲民主党の発信のかなりの部分にみられるように、「批判から誘導」して、それから初めて自党の目指す政治を提示するものです。これを読んで、かなり多くの方がすぐ感じられると思いますが、「適切な治療を受けられないまま命を失った」、「廃業に追い込まれた」とか、「住むところにも明日の食べ物にも困りはてた」というような、前段を読んで、読者の有権者がひじょうに湿っぽいネガティブな気持ちや、怒りの気持ちになったところで、後段で急にポジティブに希望の気持ちの切り替える、というのは難しいものだと思います。私が言うのは、眉間に皺がよって「なんだこれは」と思った直後に、希望に満ちた明るい気持ちにはなりにくい、ということです。全体にメッセージのトーンが湿っぽい暗い感じになってしまうのです。そうではなく、最初に立憲民主党の目指す、今より確実に明るい社会像を、出来得る限り信頼性のあるものとして提示した後で、必要に応じて、自民党のよくない政治、を「もうこんなことは許さない」といった順番でアピールにすれば、有権者の受け止め方は全く違ってくるのではないかと思います。

 チラシについての論評は以上です。

 安倍政権下で結党された立憲民主党は、自民党政治に対して批判が必要なことから、怒っている顔でテレビカメラに映ったり、怒っている、あるいはきつい言葉の批判が記事で引用されることが多くありました。全般に「きつい」感じ、いつも悪口ばかり言っている、と受け止められ、イメージが悪くなってしまった、といところが私の考えでは間違いなくあります。これは致し方ないことですが、それに対する対策は必要だと思います。

 さらによくないのは、いつも権力のある者の決定に対して、怒ったり、批判している姿ばかりが報道されてきたことによって、自然に国民の間で、立憲民主党に対して、「被統治者のイメージ」、つまり権力に反対している、権力のないunderdog(負け犬、敗北者) のイメージが定着してしまったような面が感じられることです。 最近、1985年生まれ以降くらいの人たちの間で、比較的に立憲民主党支持が少なく、自民党支持が多い、というのは、私は結構このunderdog効果による部分が大きいのではないか、と感じます。特に、安倍政権下では、それなりに支持の高かった安倍首相が、悪夢の民主党政権とか、批判ばかり、に類することを民主党、民進党、立憲民主党について、さんざん言うのが、忖度の程度がひじょうに高くなった大手テレビ局などによって、繰り返し繰り返し、放映されました。それにより、民主党からの流れに連なる議員、立憲民主党を含む政党には、明らかに弱者の反抗、のイメージがついてしまいました。よくないことですが、人間は誰でも強いものにつきたい、拠らば大樹の影、という気持ちがあります。弱い方についたら生活が苦しいからです。いじめが、国際社会の中で、やや特徴的になっている文化風土もある我が国において、それが立憲民主党や野党支持者に適用されている面があるように思います。私は思うのですが、共産党の支持率がこれまでずっと低かったのは、共産主義についてどう思うか、という事のほかに、共産党はいまの社会ではunderdogだ。だから、弱い者、圧迫されているほうにつきたくない、という気持ちが国民の間に強いから、という事が一つの大きな理由ではないかと思います。拠らば大樹の影です。全体に、世の中で男性が性格のいい女性と結婚したがったり、女性が経済力のある男性、性格のいい男性と結婚したがるのは、そのほうが経済的に豊かな生活、あるいは精神的に安定した生活が送れる、と予想するからだと思います。これは、理想を求める肯定的な感情として一般には理解されていますが、生物学的、自然科学的な、感情を交えない見方をすれば、これは「拠らば大樹の影」と同じように、明るいほうに人が引き寄せられる、という人間普遍の自然科学的姿に繋がっているように思います。重い障害を追った人、あるいは困窮している人と結婚する人も多いと思いますが、それには何事にも変えられない精神的な豊かさがその人と結婚することによって得られる、と考えるからでしょう。

 ですから、このような現状で劣勢な状況の下にあって、立憲民主党も批判は、現野党として必ずしなければならない仕事ですが、一方で、情報発信の半分くらいは必ず自党の政権がどのようなものになるか、自党ならどうするのか、というものにし、国民に希望を与え、温かい気持ちにさせるものでなければならないと思います。国民への露出において、批判ばかりになっていると、国民の無意識の認知は「大樹」ではなく、劣勢な方、という方にどんどん固定されていくように思います。与党になるんだ、あるいは、後の政権党である、ということを常に、繰り返し繰り返し有権者に強く印象づけていないと、国民の意識は、「大樹」である自民党、にこれも無意識に引き寄せられていきます。少なくとも、論理的にこれだけ政策がしっかりしていて、意欲があるならば、近い将来政権党になるだろう、なるかもしれない、と思わせられなければ、求心力はなかなか出てきません。ですから、政権を取るためには、立憲民主党は、野党の責務はしっかり果たしながら、一方で、常に政権党然として振舞っていなければなりません。そのためには、政権党としての政策の論理構造を常に有権者にしつこく繰り返して訴え続け、「政権党」としてのイメージを作りださなければなりません。このためには、政策がしっかりしていること、組織がある程度しっかりしていること、野党、としてだけではなく、将来の政権党として見せるコミュニケーション戦略が正しい事、この三つが必須です。

 私見では、所属議員のツイッター発信などは、機械的に少なくとも半分は批判ではなく、自党のや自身の考え、政策のアピールでなければならない、というるルールを設けてもいいくらいなのでないか、と思います。

 また、この「批判」に引きずられている、ということは、問題設定自体が与党に規定されている、ということでもあります。着眼点自体が与党の政策や、時事的トピックになってしまう、ということです。立憲民主党の政策の構造が、与党の政策や、その時々に偶然にでた時事的トピックに規定されてしまうわけです。いわば「受け身」なのです。これは、2021年の立憲民主党の政策集(https://cdp-japan.jp/files/download/w4j9/DS4S/F6W6/0Vvt/w4j9DS4SF6W60VvtcBiM0jfF.pdf)を見ても、すぐ感じられることのように思います。ある程度は私の気のせいかもしれませんが、項目の立て方に、時事問題や自民党政権の政策や不正に対する、対策や対案、の羅列のような印象を受けるところが所々あります。国の構造や状況に対する、独自の問題意識から独自の思考に基づいて構築された政策、という感じが、私には弱く感じられます。

 政権党の政策は、社会の姿を自分独自の頭のフレームワークで捉えて、どこが問題か、どうあるべきか、と構造的に捉えて主導的に構築するものです。政権構想として訴えるものは、与党の発想や、偶然の時事トピックとは、全く別の場所で、独自の源を持っていて当たり前です。そうでなければ、それが政策の効果に影響してきます。根本をついたものでなく、弥縫策(びほうさく)つまり、当座の間に合わせの策となってしまい、そこに明確な限界があるからです。そして、そのような政策の策定のされかたでは、有権者が政策集を見た時の全体的印象が「批判」、あるいは寄せ集めの政策、という様になりがちでしょう。

 先程、取り上げた、2021年10月末の「あなたのための政治を実現します」というチラシに見開き二ページで書かれた政策に至っては、そうした与党の政策への批判と、与党政治の結果への対策、の寄せ集め、という色彩をもっと強く感じるものでした。少なくとも、それらは、私が見るに、立憲民主党が政権を取った場合、作られる国の姿の全体像、とは見えないものでした。中核となるはずの経済政策がほぼ全く書かれていないなど、これでは日本の中核で社会を動かしている人たちから積極的な支持をうけるのは難しいだろう、という感じを受けました。減税とか賃上げ、とか書いてあり、それが経済政策だ、という人もあるかもしれませんが、私は経済については素人としても、単なる分配や減税などだけでは経済政策とはとても呼べないのではないか、と感じます。立憲民主党の経済政策には、ちまたでひじょうに厳しい声もあり、リベラル的心情の人でも、まったく箸にも棒にもかからない、というようなレベルで批判する人もいます。これはれいわ新選組のような左の人から批判ではなく、抑制された穏健な人たちの間でもです。

 ただ、では自民党にはまともな経済政策があるのか、と言えば、民主党政権の3年強を除けば、自民党が与党であった最近の二十年余の間、一貫して低成長を続けていて、いつの間にか平均賃金でアメリカやヨーロッパの国々と大きな差をつけられ、韓国の平均賃金さえ下回るようになっているということですし、納得いくものがあるように思えません。アベノミクス以外は、概ね官僚の書いた筋書で惰性で経済運営しているのではないか、という感を、経済の素人ながら私は強く持っています。恐らく立憲民主党が仮に政権を取っても、減税以外は官僚の保守的自動運転にしたがって経済運営するでしょうから、自民党政権時と大きくは変わらないのではないか、という気がします。しかし、有権者はそうは見ないのでしょう。単に分配を言っているだけで、経済政策、と見なせるものをほとんど何も言わないので、経済が大きく腰折れするのではないか、と不安に感じる、という人は多いと思います。

 しかし、野党であって、官僚組織からの情報も全く入ってこない中で、確度のある政策を纏めることができるのか?現実問題として無理ではないか。政権を取ってから、情報が入ってきてから、間違っていた、別の方向がいい、となったらどうするのか、という考えもあると思います。これはしかし、私、思うのですが、それは正直に国民にそう話していればようと思います。現在得られている情報では、これがよいと思う。もし間違っていると思えば改める、しかし、現時点ではこれがベストと思う。これでよいと思います。事実だからです。真摯さと責任感がしっかり感じられれば、国民は支持するのでないかと思います。言っていることに、熟慮の形跡がしっかりあり、筋が通っていて、納得できる限りにおいては、もし政権をとって一部が違う方向になったとしても、全体としてそう悪くはならないだろうと理解されるだろうと思います。何より政党を人格として見た場合、強い意欲と責任感があり、人柄として信頼できる、と考えられることが大切です。

 いずれにしても、投票行動というのは、結婚相手を決める時のような、人の根源的行動なので、心の底から湧いてくる明るい希望を与えるところがなければ、容易に投票してもらえないものだと思います。そのためには、まず立憲民主党自体の人柄、政権像が好かれること、希望を感じさせることが必要で、批判は野党としての責務から、作業として、仕事としてやっている、と感じさせることが必要です。この面では、厳しく批判しながら、自党の考え方はしっかり示し、明るい共産党の志位委員長の話し方などもある程度参考になるのではないかと思います。政権交代は、あるパートナーとつきあっている人に、そのパートナーと分かれて、自分と一緒になってもらうような作業だと思います。その時、相手のパートナーの悪い点ばかり言っている人と、自分の長所をはっきり分かるように伝え続け、その上で現在のパートナーの問題点も話している人の両方であれば、どちらのアプローチが効果があるかは、少し考えれば自明のことだと思います。政権交代も同じことでしょう。交代した時の明るいイメージをひたすら訴えつづけ、しかもそれは、単なる空想的なイメージではなく、現実感のある堅固なもの、と感じられるものでなければいけません。

 そのためには、「アレはだめだ」、ではなく、もし自分だけでやらなければいけないとすると、どうするのか、という、すべて自分で判断しなければならない、自己完結したものでなければなりません。そこに批判の入る余地はないでしょう。野党の責務としての批判は、批判として別に行い、政権担当の準備と広報は、それとは完全に切り離して自立的に行う必要があります。

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