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立憲民主党区議会議員の「名乗りやすくなった」ツイートへの批判について

庄嶋たかひろ太田区議会議員の2021年12月2日 午後9:56 のツイッターでの発言について、立憲民主党支持者(枝野元代表の支持者の割合が比較的多いと思いますが)から218件も引用ツイートがされて、しかも多くが批判と思われるほど批判が多くなっています。99件の返信を見たところ、八割近くが批判、数件の擁護となっています。

100件近い返信(200件以上の引用ツイートは除く)のうち、ごく一部を例としてあげると、かなりこのような感じの批判が含まれています。間違いはあるかもしれませんが、言葉自体はツイートからコピーしたものです。

「前代表をdisって」「なぜ立憲民主党にいらしたの」「次回の選挙が楽しみですね」「なぜわざわざ入党したの」「とっとと離党して」「失礼な」「不誠実であなたは信用できない人」「ずいぶんとおかしな議員」「ネトウヨに媚を売って」「なんで立憲民主党なんかに入った」「恥を知れ!!」「カネと看板を利用してきた」「創業者を追い出して嬉しがっている小物」「立憲を汚している」「枝野人気にあやかったハイエナ」「お前もう立憲やめたら?」「維新や自民党に行けば」

さて、私自身は、この発言自体によくない点があるかどうか、いまひとつ分からないのですが、一方、庄嶋たかひろ議員のツイートに対する批判のツイート、つまり同議員へのこのツイートに関する批判には、ひじょうに大きな問題を含んでいると思う程に問題がある、と思えるものが、間違いなく多い、と感じるので、皆さんに私の考えをお話しして、立憲民主党の在り方を考えていただく意味で、私の考えを明らかにします。

なお、私は民主党結党以来の民主党系の一貫した支持者で、中でも枝野元代表についてはこれまで民主党議員の中で一番支持してきましたし、一貫した枝野支持者、といってよいと思います。

また、参考にですが、私は大昔、当時、私が受けていた高校の授業は、全く自分で考える力を養成しないし、効率も悪い、あるべき教育の姿と大きく違う、と思って、高校を退学してしまった人です。こんな人は、数百人に1人くらいだと思いますので、自分は、かなり独立、独歩でものを考えるタイプと思います。

 
最初にこの問題について話すにあたって、元のツイートを具体的に見ることがとても大事と思いますので、ツイートのリンクを入れておきます。

https://twitter.com/TakahiroShojima/status/1466390729513594880

 また、「立憲パートナーズ太田の会」というアカウントが、庄嶋たかひろ議員について、以下のように書いています。

 「庄嶋たかひろ大田区議会議員は、初当選以来常に大田区での立憲民主党の活動の先頭に立ってきた議員です。 地域の声を聴き、政策に練り上げ、区政に反映してきた議員です。 先の総選挙では、野党統一候補となった共産党の谷川さん当選と、4区での立憲民主党の比例票獲得に最後まで尽力した議員です」
https://twitter.com/partners_oota/status/1467005072282644483

 さらに、中野杉並勝手連@CHIKOCHAN4、というアカウントは、庄嶋たかひろ議員について、以下のように書いています。

 「この人、ただただ政策立案めちゃする人なんだよ。
枝野代表の元でも党勢拡大に尽力してたし、都議選の時のパートナーズ企画斉藤りえさんと映画の上映会もご協力いただいた。それに自称中道左派…」https://twitter.com/CHIKOCHAN4/status/1466772266809982980

 さらに、ツイートやツイートを書いた議員を批判するならば、その議員が、どんな議員かを知ることは極めて大切と思いますし、他党に行ってください、などと言うのであれば、本人の区議会での質疑のビデオもあるのに、それも見ないでそのようなことを言うのはたいへん大きな問題と思います。ですので、YouTubeで見られる、同区議会議員の質疑のビデオへのリンクを一つ書いておきます。


 さて、論点が幾つかあると思います。ツイッターは時間とともに議論が急速に忘れられてしまう特性があり、あまりしっかり考え詰めてから書いていると実効性がなくなってしまいますので、正確性より速さを重んじて、やや雑駁にですが、現時点で、ざっとまとめられる以下の四つの論点と、それぞれの論点についての解説をお話しします。

  1. 「新代表になり、立憲民主党を名乗りやすくなった」というのは、恐らく「事実」であることをどう評価するか

  - 事実であることを「言った」ことについて、八割が強く批判する事の意味

  2. 議員への批判は、「後ろから弾を撃つ」、という自民党内の石破茂批判とどう違うのか

 3. ツイートに、党の基本政策に対する否定は全くなく、方法論としての現執行部の路線への賛同の表明でしかない点をどう考えるか

 4. 組織人としての道徳強調が、広く国民への責任意識に優先していないか?

  さて、全体の文章がかなり長くなってしまいましたので、上でまとめた1-4の論点について、先にさらに簡単に説明します。

  1. - 事実であることを「言った」ことについて八割が強く批判する事の意味

 2. - 次項目3の事実があることを考慮すると、議員への批判は、自民党内の「後ろから弾を撃つ」という石破茂批判と同じ構造を感じる、ということです。

 3. – 立憲民主党の綱領も政策も、いささかも否定していないのに、前執行部の政策実現のための方法論への不満足が少し透けて見えただけで、「党を否定しようとした」という程の、議員への人格批判が起きる事の意味

 4. –政党の組織人である事、現支持者への配慮が、一議員としての、全国民への責任を置き去りにして、全てのように言われ、強調されすぎていないか

 

 以上は、簡単な説明です。如何に、1-4の各項目について、私の考えを詳しく記します。

 1. 「新代表になり、立憲民主党を名乗りやすくなった」というのは、恐らく「事実」であることをどう評価するか

  まず、「新代表になり、立憲民主党を名乗りやすくなった」というのは私には、恐らく事実ではないかと思われ、「事実を語って激しい非難が集まる事がどうなのか」という事が、第一の論点です。立憲民主党の支持者の中には、その人自身の人間関係の間で立憲民主党支持の多い人の場合、人によっては、「立憲民主党に対する漠然とした不満」みたいなものを持つ人が周りにあまりいない、という人も少なくないかもしれません。しかし、私自身が受けている感じでは、2021年10月末の総選挙時点で、立憲民主党について漠然とした不満を持っていた人の割合が国民の間でかなり高かったのは、おそらく事実だろうと思っています。私の場合、世間一般と比べると、身の回りには反安倍の人が多く、私は、付き合いのある範囲として、明らかにリベラル寄りの環境にいるように思います。それでも私は、身近で、立憲民主党は問題外、のように話したり、批判ばかりのような気がする、と言っている人に複数会っています。その中には、これまでずっと民主党系支持だった人も含まれています。新代表になってからの、立憲民主党支持率の世論調査などもまだ出ていないため、「立憲民主党を名乗りやすくなった」、つまり立憲民主党に対する拒否感の割合が少なくなった、という感想は、ツイ元議員の方の「気のせい」である可能性もあります。しかし、すくなくとも「蓋然性」としては、「批判ばかり」という、よくある立憲民主党のイメージと違うことを言う新しい代表が就任し、代表選でもこれまでの方法論についての反省が討論された後なので、街頭演説などの際に、色々と党に対する不満を言われたり、問題外と無視されたりという「反応の悪さ」が改善している可能性は「蓋然性」としてはかなりあると思います。

  もしそうであれば、あくまで仮定での話ですけれども、もしそうであれば、それは「事実」であるから、事実である事を言って、猛烈に非難される、ということが「よい」ことなのか、という思考上の課題は当然生じてくると思います。また、もし事実であれば、私は、そのことの持つ意味は極めて大きいと思います。すなわち、一部の立憲民主党の組織人にとって、党にとって都合がわるい、党に不利になる、あるいは一部の党員や支持者の気持ちを「傷つける」から「事実である事を言ってはいけない」のか。この問題は、私はきわめて大きいと思うのです。

 なぜなら、政治はすべて事実に基づくもので、正しい事実を把握することは極めて重要だと考えるからです。

  さらにまた、「名乗りにくい」とか「名乗りにくくない」というのは内心のことなので、物理的な問題と違います。仮に周囲の区民にそういう事実がなくても、本人が心理的に「名乗りにくかった」なら、それはその時点ですでに「事実」です。区民がどうこうということと関係さえありません。しかも私が想像するに、「名乗りにくさ」を感じていた議員は、いい悪いは別にして間違いなくかなりの数で存在していたと思います。ですから、私の推測力がとても悪い場合を除いて、それは「事実」なのです。

  あまり時間をかけたくないので、質のあまり高くない比喩で我慢して時間を節約すると、私は、そこに、太平洋戦争の時に、日本軍の問題点を指摘した人が非国民と大勢から非難されたことと同じような問題を感じるのです。もちろん言い方の問題は大事ですが、そもそも立場の違いを越えて、「事実」と、事実であることの認識をしっかり共有することは、他の全ての事に優先して、政治、国民の幸福を担保する上で、重要度が極めて高いことだと思うのです。
 

  2. 議員への批判は、「後ろから弾を撃つ」という自民党内の石破茂批判とどう違うか

 自民党衆議院議員の石破茂が、安倍批判をしていた事はよく知られています。また、これに対して自民党内では、石破茂に対して、「後ろから弾を撃つ」人物として、嫌悪感をもつ人が多い、というのも、メディアでそのような伝えられ方をしていますけれども、これも恐らく事実と思います。時間節約のため、検索してすぐ目についた一例だけを上げます。ANN のニュース番組が、2019年2月10日に、当時の安倍総理大臣が、自民党の党大会で「あの悪夢のような民主党政権が誕生いたしました」「あの時代に、みなさん戻すわけにはいかないんです」と述べ、これに対し、石破茂が「ほら、あの民主党に比べればよいでしょうねっていうね、終わった、過去に終わった政権のことを引き合いに出して、自分たちが正しいんだっていうやり方は、私は危ないと思います」と話した、と伝えています。https://www.youtube.com/watch?v=UcefiLxQzkA また、石破茂自身も『「党がきちんと国民に信頼されるようにという意見を言うと、「お前は後ろから弾を撃つのか」とか「足を引っ張るのか」とか、すぐそういう話になる』と話しています。(2018年5月11日朝日新聞https://www.asahi.com/articles/ASL5C5RTFL5CUTFK016.html) ここで注意すべきは、石破茂は、自民党の基本政策や綱領を批判しているわけでなく、批判しているのは、リーダーの政策実現のための方法論であることです。

  だとすると、今回問題になった立憲民主党の区議会議員の発言は、同様に、単に政策や綱領にある基本姿勢を実現するための方法論についての「感慨」を述べただけのもので、立憲民主党の政策や基本姿勢(少なくとも綱領にあるような事)を批判しているのでは全くないのですから、石破茂への自民党内の「後ろから弾を撃つ」批判とどこが違うのか、という疑問が生じます。私には、事の性質として、今回の区議会議員への批判は、自民党内での石破茂への批判と、本質的に同じだと思えます。当時の安倍首相は悪い人で、枝野代表はいい人だから、意味が違うのでしょうか?私も安倍首相はたいへん大きな問題がある人だとずっと考えています。私は反安倍の先頭に立ちたい、という思いでいっぱいですが、一方、いい、悪いは主観的なもので、単に方法論だけを批判する人が、反党行為のように批判されてよいのかどうかとは、論理的に独立していると思います。理想を目指す上での方法論は、当たり前ですが人によって考え方に幅広い違いがあるものです。ですから、単に政策実現の方法論に対する考え方が違うことを表明したからといって(念のためですが、実際にはこの議員は、その表明さえしていません)、立憲民主党を貶めている、とか党の看板で当選すべきでない、というような批判は、少なくとも正当性のない批判だと思います。一時期の党のリーダーが進めた、党の方法論の路線に対する批判(というより、そもそも今回の問題のツイートはその批判でさえなく、単なる感慨の表現)まで許さない、となると、その議論抑圧は、安倍、菅時代以降の自民党的な体質に近づいてくるように思います。立憲民主党の支持者や、リベラル心情の人は、安倍首相の長い在任期間中、自民党内に、安倍首相の進めた政策や、政治の方法論に関してほとんど批判がでなかったことで、反自民党の気持ちを深めた人も多いと思います。であれば、批判、というところまでさえ行かない、単なる前執行部の方法論に対する感慨の表明で、ここまで、党内ではないにしても支援者から、一部の支援者であるとはいえ、議員であることの否定、とまで受け取られるほどの非難が洪水のようにされることは、少なくとも健全ではないことであると私には思われます。

   3. 党の基本政策に対する否定が全くなく、単に現執行部の進める方法論についての路線を肯定する表明でしかない点をどう考えるか

  次に、2.で、石破茂の安倍批判に対する自民党内の批判との比較をした前項目でも書きましたが、問題となった区議会議員のツイートは、立憲民主党の基本政策に対する否定や、批判は一切なく、立憲の政策を追求する上での方法論についての感慨の表現でしかないものだ(状況判断的に見て、議員は前代表時代の方法論については批判的だったのではないか、と推測はされるものの)、という点をどう考えるか、というたいへん重大な課題が我々に突き付けられているように思います。

  党の綱領は、党が幅をもって行動できるように、かなり幅をもって決められていると思います。もし立憲民主党の綱領の内容と多くの点で相違する所見を所属議員が公に述べているようなら、党から立候補、当選して、党の綱領に反する事を言っていることになりますので大きな問題でしょう。私は、それ自身も時に必要になりうる場合もある、と思っていますが、それは例外的な事であり、そうした逸脱を幅広く認めていたら党内不統一で政党の役割を果たすことが難しくなります。以上は、単に蓋然性の上での仮定として、所属議員が「綱領に反する事を言っている場合」についての話です。

  では、政策についてはどうでしょうか?政策についての議論、なかでも特に問題となるのは党が追及する政策への党内からの「批判」ですが、こちらのほうは、綱領に反する事よりも、より幅広く認められるべきでしょう。党の基本政策については、あまりに異論が多いとやはり政党の役割を果たしにくくなります。当然の事です。ただし、党の掲げる政策の三分の一以上に反対、とかいう事でない限りは、それらに対するある程度の異論、幅の狭い修正意見等があることは、政策が熟議されるためには、むしろ必要ではないかとも思えます。基本政策、という程ではない、個別の細かい政策については、もっとそういうことが言えるでしょう。ただし、繰り返しになりますが、注意しなければいけないことは、党の掲げる政策について、党内で異論が多すぎると、政党としての機能が果たしにくくなることです。旧民進党は、党内で保守とリベラルが激突してにらみ合い、身動きが取れなくなって機能不全気味になっていました。その教訓は胸に刻んでいなければならないと思います。

 さて、では、政策ではなく、単に党の政治目的を推し進めるための方法論についてはどうでしょうか?私は、方法論についての議論は、政策についての議論と違い、強硬な、党を機能不全に陥らせるようなものでなく、理性的で穏やかなものである限り、政策についての議論より幅広く認められるべきだと思います。そもそも、政策実現のための方法論についての議論(ここで問題となるのは批判のほう)に、党がめざす政策の実現にマイナスとなるところは、あまりないように思います。政権を取るための方法論、選挙で勝つための方法論、こういうところは綱領や基本政策と違い、単純に党内のみに関わる問題で、綱領や基本政策に反する主張をした議員がいた場合とは違い、有権者に対する約束違反になる、有権者の付託に不確実性を与える、というような問題はあまりないからです。

 今回の区議会議員の問題のツイートは、党の綱領や基本政策への反対を表明したものではなく、ツイートの内容から、これまでの党の方法論に対する不満、批判があったことが推測できる、というだけです。ツイートの内容に、党の綱領や政策に対する批判や否定は一切ありません。ツイートの内容にないだけでなく、私の個人的な見方ですが、議員本人の心の中にも、ないのではないと、という気がします。

 ですから、仮にも区議会議員になにか問題がある場合は、「方法論について」、に限られるといえます。では、方法論について考えます。前執行部の方法論と、現執行部の方法論があります。議員は、現執行部の方法論に賛同を表明しています。これは問題ないはずです、そもそも現代表によって任命された現執行部は、党内の代表選挙の選挙結果によって生じてきているからです。多数決とはいえ、選挙結果は党の意思と言えます。党の意思に対して賛同を表すことは、感情的に一部の人がどう思うかは別として、理性的には問題になりえないでしょう。

 次に旧執行部の方法論についてです。これは議員は党名を「名乗りづらかった」といっていますから、少なくとも前執行部の方法論は、同議員にとって、やりずらかった、くらいのことは間接的に、読者に伝わることになっています。これは問題があるでしょうか?ここも怪しいです。そもそも、枝野前代表は自ら代表を辞任しています。これは前代表自身が、選挙結果を見て、前執行部の方法論は効果的でなかった、と思ったか、代表を続けることに大きな支障があるほどに党内で主流の意見は、方法論に難があった、になっていると感じたからであると思います。そして、さらに代表選は選挙結果も、四人の候補の中で、一番旧執行部の方法論からの方針転換を主張する点の多い(但し、方法論でさえ、一部修正程度の主張と言えるかもしれません)現代表が選出されました。しかも決戦投票の結果は、国会議員などで、170(泉): 116(逢坂), 都道府県連の代議員35(泉): 12(逢坂)、と大差です。ですから、そもそも前執行部の方法論に難があった、というのは、言葉の常識的な意味で、「党の総意」であると言えると思います。

 ツイートをした区議会議員がそれに対して不満を感じていた、と推定できる方法論は、方法論の変更(政策ではなく、あくまで方法論の変更)を唱えた、と理解できる、泉健太が、結構な大差で新しい代表に選出された選挙結果を考えれば、党内的にもだいたい別の方法論をとったほうがよいという考えが、多くの人に共有されている、と考えるのが常識的な見方と思います

 では、党内的に概ね承認されていると常識的に考えられる新しい方法論と比較する形で、以前の方法論に対する不満や批判がわずかに透けて見える程度の意見の表明をして、引用ツイートが200以上もついて、しかもそのほとんどが、かなりの割合の人格批判も含む、批判、批難というのは、私にはかなり異常なことのように思われます。「異常なことのように思われる」これが私の正直な感想です。私は、アメリカのニュースをCNNで頻繁に見る習慣があるんですが、この小文をずっと書いていて、なんとなく、共和党内のトランプ支持者が、トランプを批判した共和党議員を非難している様子を漠然と思い出したくらいでした。

 再度思い出して頂くために書きますが、私は民主党結党以来、一貫してそれに連なる政党を支持してきており、また民主党結党以来の、一貫した枝野支持者です。その立場で、上記のように感じている、ということです。

 具体的に、この区議会議員の問題となったツイートへの返信を見てみましょう。返信の中には、単に党内の方法論の路線対立の一つとして、元ツイに対する常識的な批判、と思えるものも少なくありません。ですから、私が問題と感じるのは、返信のすべてではありません。

 元ツイへの返信を頭から約99件分見てきたところ、いい加減な数え方ですが、だいたい80件近くが批判で、擁護が6件程度、という感じでした。読んでいてはっきり分かったのですが、最初のほうについている批判は、既にこの区議会議員のツイートは、少しくらい言葉の悪い批判をしてもそれに対する批判は誰からも来ないだろう、と見切ったような感じはほとんどの批判者にあるものの、ある程度丁寧な言い方のものも多くあります。それが、多くの人から、批判が立て続けに続くに連れて、バンドワゴンのように、どんどん言葉がエスカレートして、所謂集団心理に近い状態が現出してきます。これは、明らかに記録するに値する、と思うので、批判がどういうものか、どういう言葉が使われているか、書き残しておこうと思います。

 「綱領を読んでいないのね」「私怨でもあるのか」「傷ついちゃいますよ」「あんまりです」「前代表をdisって」「なぜ立憲民主党にいらしたの」「綱領読んでますか」「イヤラシい考えで党にいて頂きたくない」「次回の選挙が楽しみですね」「なぜわざわざ入党したの」「前代表への最低の心遣いはしましょうよ」「他にいけばよかった」「前代表に対する敬意が、絶対的に足りない」「とっとと離党して」「失礼な」「不誠実であなたは信用できない人」「命取りになりかねないツイート」「離党すれば良いのに」「信用できないわ、この人は」「??????」「ずいぶんとおかしな議員」「ネトウヨに媚を売って」「なんで立憲民主党なんかに入った」「恥を知れ!!」「カネと看板を利用してきた」「創業者を追い出して嬉しがっている小物」「立憲を汚している」「どうして国民民主党に行かなかった」「典型的依存型議員、何も期待できない」「インチキ臭いマインドのあなた」「枝野人気にあやかったハイエナ」「お前もう立憲やめたら?」「自党を貶め、支持者のやる気を削ぎ」「無所属になればよかった」「維新や自民党に行けば」

  代表が変わってから「立憲民主党を名乗りやすくなった」というのは、おそらく事実に属します。コメント欄とは何の関係もありませんが、「言うべきことと言わざるべきことの判断が付かない人はこの先伸びない」だろう、と言っている人もあります。このような表現がされること自体、”仮に思っていてもいうべきでない”、或いは、”心の中で思っているのはある程度理解できる”、と考えられている事の証のように思います。このように言われるのは、感慨が事実であることは認めていて、しかし口に出すことが問題だ、という可能性が高いと思います。もちろん胸を張って満身の自信を持って「立憲民主党は素晴らしい」の意味のことを言っている議員もいるかと思いますが、議員も個別政策や有権者への訴えの方法論については、人によって色々な考えがあるのは、自然であり、当然です。であれば、少なくとも有権者の考えに対する敏感さがあれば、立憲民主党と言って、冷たい反応の人が多い時に、心理的にわずかでも辛さを感じる、というのは、人間として、普通でかつ自然なことと思います。むしろ、そのような感受性は、全国民に対して責任を負う、政治家に必要な資質の一つではないかとも思います。有権者が冷たかろうが、どう考えようが、私たちは正しいんだからと、ただひたすら訴える、という態度もあるかと思いますが、それでは有権者の心を無視しているニュアンスもあるのですから、現実的に言えば、私には、必ずしも望ましい態度と思われません。有権者の中に自分の党をよく思っていない人がいる、それを本心では少し辛く感じる、という感受性は、政治家として大切なものと思います。

  上に列挙した、問題となった区議会議員のツイートへの批判を見て頂ければ、だいたいの傾向は見えると思います。分類すると、まず、区議会議員に対して、綱領を読んでいない、なぜ立憲にいるのか、他党に行け(出ていけの意味)、立憲を利用した、というような1. 立憲の理念を共有していないという批判があります。これについては、私は、完全に不適切な批判だと思います。この議員のツイートを見ると、「政策立案型政党」、がおそらくこのツイートの核心です。ツイートは、要約すれば、単に方法論が変わってほっとした、というようなことを言っているだけです。一方、立憲民主党の理念を共有していない、と受け取れることは、実際には一切言っていません。

 元ツイートは、「左右の真ん中にいる皆さんに信頼され、選択されるよう」と言っており、返信を見るに、批判者に、これが右寄り、立憲民主党の性格の否定、と取られている感じを受けます。しかし、実際のツイートを見ると、立憲が民主党が左右の真ん中にいる党だ、というふうにさえ、言っているわけではありません。また、単に蓋然性の話として、ツイ主の議員が、実際に立憲民主党は中道政党であるべきだ、と考えていたケースを、ありうる可能性の一つとして検討してさえ、今回のツイートの批判者が概ね肯定的に見ている、あるいは強く支持している、と思われる枝野前代表自身が、その著書「枝野ビジョン」の中で、2017年の選挙で「右でも左でもなく、前へ!」と訴えた、自身の立場に立場について「『保守』であり『リベラル』だと説明してきた(5ページ)と、前代表自身の言葉で言っているのですから、枝野前代表の言葉とさえ、大きな違いはないわけです。(これはあくまでツイ主の議員が、広い蓋然性のうちの、立憲民主党はリベラルと保守の真ん中の党と考えていた場合のケースについて考えた話しです) 私自身について言えば、保守かリベラルかというと、自分の考え方はリベラルだし、立憲民主党の支持者も大半はリベラルの考え方で、立憲民主党全体もリベラル寄りなのは明らかなので、私は長年の枝野幸男支持者ですが、この点は少し枝野前代表に同意できなく思っていたくらいです。

 この、”立憲民主党の理念を共有していないと批判している”、と要約できる批判の中には、”立憲民主党を名乗るべきでない”、”なぜ立憲から立候補当選したのか”、”他の党に行け”、”出て行け”、のような意味のツイートがかなり多くあります。ところが、元ツイートは、先程書いたように、立憲の綱領を否定することも、政策を否定批判することも一切書いていないのです。批判者は、ツイート主が泉新代表を歓迎しているらしいこと、「党が、左右の真ん中にいる皆さんに信頼され、選択されるよう、がんばろう」と言っていることのみの文言から、党から追放、のようなことを言っているわけです。所属の国会議員や党員がそのように言っているのではないものの、もし一般有権者が、これらのツイートを見ていたら、党のコア支持者(仮に実際はごく一部としても)がこれほどまでに狭量な政党であれば、政権を取ったら、どんな息苦しい世の中になるか、と想像して、多くの有権者は立憲民主党に対して、強い忌避感を持つと思います。立憲民主党と、党が進めようとしている政策の実現にとって、とてもよいことと思われません。

 次に、元ツイートが”前代表への批判だ”、”前代表への敬意が足りない”、という2. 枝野元代表への批判、敵対行為とみなすゆえの批判があります。これは、私は、1. の、立憲の理念を共有していない、という正しくない批判以上に、極めて大きな問題がある、と感じます。これは要するに、そのように批判することは、非理性的だからです。これらのタイプの批判者は、私にはトランプが大統領退任後の、トランプ支持者を思い起こさせます。私は、そもそも民主党結党時代からの枝野幸男の強い支持者です。ですから、同じ枝野前代表の支持者として、これら批判している人たちはいい方が多いと思いますし、目指す社会像も、ある程度私と共有していると思います。しかし、それと、個人崇拝や、枝野代表の批判に繋がるようなことを言わせないとか、批判に繋がると枝野代表の支持者が考える事を言う党員、議員に対して、反党行為のように言ったり、党から出ていけ、と言うことはまったく違います。いい人が多い、と思うだけに、冷静になって、批判ツイートの中のこれらの言説が適当なものかどうか、もう一度考え直していただけないかと思います。

なぜ、「元代表の方針等について少しでも異議があることを推測させることを許さない」事がよくないか、と言えば、政治は多くの人の命や生活に直接に関わるものであるだけに、党の政策や方針についての議論は、現実的に組織の身動きが取れなくならない範囲で、できるだけ自由に行われることが望ましい、と思うからです。

政策については、直接に人の命や生活に関わるものであるため、議論が行われることの優先度は高いです。しかし、こちらのほうは有権者との約束でもあるため、議論は外部へはあまり公開されないほうがよい、という点があります。しかし、党の路線に関する議論は、有権者との約束とは関係ありません。有権者にこの党は大丈夫か、と不安定感の心配をかけない程度であれば、ある程度公開でも議論がされたほうがよいと思います。また、政策は重要だが、党の政策実現のための方法論は重要ではないのではないか、といえば、そうではないと思います。なぜならば、方法論が効果的でなければ、当然、選挙での党の得票数は少なくなり、結果的に政権党になれない、国会で考え方や政策を実現できない、という結果を生みます。自公政権が長く続く現状では、結果的には、原発事故の可能性が高まる、不適切なコロナ対策で多数の死者がでる、飲食業者の人たちが生活苦に陥る、性別平等や夫婦別姓が進まない、入管や外国人研修生制度での外国人への非人間的な環境が続くなど、たいへん大きな影響を生みます。

 特に憂慮すべきだと思うのは、枝野元代表が立ち上げた党だから、枝野代表の事を批判する(と自分が見なす)事を言うべきでない、とでもいうようなツイートがかなり見られる事です。実際にそう感じさせるツイートは4,5件くらいと思いますが、他にもそういう気持ちがある人がかなりいるのではないか、と思わせる程度の数のように思います。ツイッターで、枝野元代表が立憲民主党を私党のようにした、と批判している人を見たことがありますが、私はまったくそのように思いません。しかし、今回のツイートに対する反応から、立憲民主党の支持者の間で、”立憲は枝野の党なのだから、枝野の考えに反する事は言うべきでない”、”枝野を批判するべきでない”、”枝野前代表の胸を痛めることを言ってはいけない”、と考えている人が、かなりいるらしい事に気が付きました。リベラル政党としてとても憂慮すべきことだと思います。これは克服していかなければならない、と思いました。政党の政策、および政策実現のための方法論は、特定の個人への感情的紐帯ではなく、理性的な議論と思考によってつくられていかなければいけません。特定の個人への感情的紐帯を不可欠のもの、と考えるならば、そういう考え方は、中国の鄧小平が言った「個人崇拝」です。この言葉が言われるのは、それが社会に対してたいへん大きな害をなす、と思われたから、わざわざこの言葉が言われたのでしょう。

 最後に、ツイートへの批判の中に、「次回の選挙が楽しみ」「辞任してください。(中略) 次の区議選で絶対に落とします」というツイート(それぞれ別々の人)までがあることは、本当に考えさせられます。引用ツイートのほうにも「こいつ落選運動したろか」と書いて、矢印して議員名を書いてあるもの、「次落とす議員や」というツイートがあります。そもそも、元ツイートをしたこの議員は立憲民主党の議員で、区議会ではよほどのことがない限り立憲民主党の議決や政策実現のための行動を共にする人です。選挙で、区民、おそらく数千人以上の付託も受けています。それを、単に党の新代表と党の政策実現のための新しい方針を歓迎するツイートをしただけで、自らその貴重な戦力をなくすような事を言っているわけです。合理性がなく、党の政策実現に対してマイナスに働く言動と思います。

  4. –政党の組織人である事、現支持者への配慮が、全国民への責任を置き去りにして全てのように言われ、強調されすぎていないか

 最後にこの項目です。これまでの項目については、理性的な人には多くは同意してもらえるのではないか、と考えますが、この項目については意見が分かれるかもしれないと思います。またそこで意見が分岐する上に、さらに、自分の物事に関する考え方が、日本人の中ではほとんど理解されない、というか、同意されない自分独自の異文化的考え方の部分もあります。おそらく、そのように一回意見分岐して、さらにそこからまた意見分岐する、ような構造の論になる、と思います。私は現在の日本文化でほとんどの人が受け入れている前提を受け入れていない、それはあまりよくない、別の考え方のほうがよい、と考えているところがあり、その部分は分離して話したいと思っています。

 さて、まず、問題となっているツイートは、少なくともこれまでの立憲民主党が「人気がなかった」と言っているか、もしくは、立憲民主党が「自分がよさを訴えられる自信が完全にはない政党だった」と受け取られるものではありました。

 このツイートを批判した人のうち、一定の割合の人は、以下のように受け取ったと思います。

ツイートは、セールスマンが自社製品について、「人気のない商品だった」、もしくは「自分がよさを訴えられる自信が完全にはない商品だった」、と言っているのと等しいから、

1. 組織に損害を与える行為だ、または

2. 商品を買った、或いは買う可能性のある客に不信感を与える行為だ、

 比喩的に言えば、このように受け取られていると考えてまず適切な比喩になっているものと思います。

 次に、これに対する私の考えをお話しします。

 まず、すぐ思う事は、問題となっているツイートは、果たして批判ツイートをしている人や、ツイッターで批判をしている人が言う程に、本当に党にダメージを与えたり、党の信頼性を損なう、ものなのか、ということです。

 大田区に、立憲民主党の議員は三人いるようで、自分の知識で考える限り区議会議員選挙は大選挙区制だと思います。そうすると、一つの党で一人しか当然しない小選挙区制の衆議院議員選挙と比べると、東京23区の区議会議員選挙では、政党の意味はだいぶん薄まっていて、代わりに議員個人の政治姿勢や信頼性の比重が高いと思います。だから、そもそも投票の段階で、どの程度に政党が考慮されているのか、という問題があります。

 次に、党員やコア支持者以外の人がこのツイートを見た時に、本当にどのくらいが立憲民主党は信頼ができない、と考えて明らかなダメージがあるほど支持する気持ちが少なくなるのか、という問題があります。議員の元ツイートは、批判の返信や引用ツイートをしている人から、とても否定的に捉えられています。しかし、実際のツイートを細かく具体的に見ると、言葉自体はすべてポジティブなものです。ツイートの中の「立憲民主党を名乗りやすくなった」と書かれた部分が、批判している人たちから、「枝野代表を批判している」(感情的な言葉使いをしている人は、(枝野前代表を)「面罵している」、と批判しています)、”これまでの立憲民主党を否定している”、つまり、党の連続性に対する信頼を大きく毀損している、と考えられています。しかし、冷静に考えて、大田区民でこの議員に投票した人のうち、このような、すべてがポジティブな言葉のみで書かれたツイートを読んで、そこまで深く「裏切られた」であるとか「自分の考えと違う人に投票してしまった」、と考える人が実際にどれだけいるでしょうか? 私は無視できる程度に少ないのでないか、と思えます。もし、そのように考える人がいたとしたら、この議員のせいではなく、国会議員と、地方組織の代表のそれぞれ多数が泉健太を新代表に選んだ時点でそう思っていた、と思います。

 また、日本全国で、東京都の大田区の議員の一人がこうしたツイートをしたからと言って、立憲民主党から裏切られたと考えたり、立憲に対する信頼を、問題となる程度に失う、人がどれくらいいるか、のほうも考えてみましょう。私は、これも無視できる程度に少ない、と思います。大田区民でない人については、このツイートが、党幹部や国会議員のツイートであれば、話は違うと思いますが、ツイートをした庄嶋たかひろ議員は、実際には区議会議員にすぎません。市議会議員や町会議員と同じレベルの議員です。立派な議員と思いますが、党の中での影響力は大きくないと思います。その中で、このようにポジティブな言葉のみでつづられた言葉から、論理的演繹から否定的意味を考えだし、しかもそれを証拠に基づかず、随意の断定的な否定的解釈で理解する、というのは、以前の枝野代表の路線のよほどの強い支持者でない限り、私は恐らく、普通にはないことだと思います。

 そのような思考が生ずるのは、常識的に考えて、泉新代表の下での立憲民主党が、枝野前代表の下での立憲民主党とたいへん異なったものになっており、且つ、枝野元代表の元での立憲民主党と比べ、泉新代表の元での立憲民主党はあまりよくない、或いはとてもよくない、という頭のフレームワークを多かれ少なかれ持っている人、ならではのことのように思います。そうした頭のフレームワークを持っていない人でも、そのような思考で懸念を感じることはあるかと思いますが、私はそこまで考えるのは恐らく杞憂だろうと思います。立憲コア支持者の中で、よほど枝野好き、泉嫌い、という好悪がはっきりしている人以外では、選挙時の投票行動や立憲民主党に対して抱く信頼性の面で、問題となったツイートが与える影響はほとんどないように思います。仮に、誰かの立憲民主党所属議員が明示的に、「立憲は批判ばかりしていた党だ」、とか、そのような内容のツイートをした場合は別です。しかし、実際には元ツイートはそういうものではありません。

 私なりに、このツイートを一言で要約すれば、”泉新代表の体制を歓迎し、自分がいきいきと活動しやすい状況になった”、という内容となり、これ以外の事は書いていないと思います。それなのに、これが否定的な意味でとらえられるのは、背景に、立憲民主党のコア支持者のうち、一群の(必ずしも多いと思いません)人たちの間で、枝野前代表の下での体制を好意的に見ていて、泉新代表の元での体制を、それからの逸脱、或いは少なくとも懸念すべきもの、と考える強い気持ちがあるからだと思います。私は、現象としては、直接に泉新執行部をけなせば、自分の支持する立憲民主党に対する自傷行為の様になるので、新体制になってから、気持ちがくすぶって行き場がなかったところ、たまたまそうした一群の人の間で、批判のコンセンサスの得られそうな、党の中で発言力もあまりない議員のツイートが見つかったから、そうした気持ちの、よく邂逅した出口になって一斉に批判され、そこで一種のクリシェである「組織人」の思考パターンが援用された、というような感じを受けています。

 さらに私の考えをお話ししますと、「立憲民主党を名乗りやすくなった」というのは、おららく事実です。この事実である、という点を私はきわめて重視しています。ある党が「問題外である」と思っていたり、「駄目な党である」と思っていたりする人がかなりの割合で存在する場合、そう思われている党名を「名乗りにくい」、というのは事実、真実に属します。人々がある特定の集団が自分の生活を脅かす、公共のためによくない、と思っている時に、自分がまさにその集団を代表していると話せば、相手は、なんだその自分の生活を脅かす集団の人、という気持ちになりますから、当然感情的な摩擦、角逐が生じます。この時「名乗りにくさ」などない、というのは、単なる強がりであって「精神論」だと思います。精神論には精神論の、良いところもありますが、一方で、常に事実を覆い隠す作用があります。時間を節約するため、90点でなくて40点くらいの、やや品質のよくない間に合わせの比喩で言えば、太平洋戦争で、本当は補給に不安がある、とか相手の物量がこちらをずっと上回っている時に、上官に向って、”どこどこの島を攻めるのに私は不安を感じません”、と言っているのと同じようなものだと思います。「兵士は何事も精神力で乗り越えなければいけない、それが軍人としての職業道徳だ」、と考えられている時に、周りから”それに反する”と批判される恐れのある本当のことを言わない、ということです。戦争中は、日本で実にたくさんこんなことがあったと思います。

 ですから、私は、組織である政党にとっても、日本全体にとっても、事実が情報としてきちっと流通し共有される事は極めて大事だと考えています。

 組織人として言っていいことと悪いことがある、という考え方があります。これについては、程度の問題であるのと、組織の性格によって異なってくると思います。

 「組織人として、言っていいことと悪いことがある」。これは、みなさん、おそらく、当たり前のことと受け取っている方が多いと思います。しかし、私が思うに、この考え方には多分に「イリュージョンの保持」という負の面もあるように思っています。すなわち、私は、この考え方は、組織が一糸乱れず行動しているようなイリュージョン、統一が取れていて瑕疵がない、というイリュージョンが、組織の目的達成のために、とても大切であり、それを守れないのは組織人として問題がある、という考え方だ、と解釈しています。そして、日本は諸外国に比べてこの考え方がとても強いように感じています。私は、企業においては、このイリュージョンは、政治の世界で以上に大事だと思います。外向きの話と、内向きの話は別々にして、イリュージョンを保持する、ということです。イリュージョンを保持しないと、生活の元になる金銭を稼ぐことが困難になる、という現実の論理的な要請があります。例えば、企業がある製品を販売している場合、その企業内部で、その製品の設計コンセプトは、他社の対応する製品と比較してよくないところがある、と考えている人がいた場合、そうした考えが社外に公開された場合に、製品の売り上げが悪くなる可能性があります。ですから、企業は、外に向って社内で製品が自社内で自信をもって開発された、というイリュージョンを保持しないと、売上等を通じた十分な収入を確保できないから、「組織人として、言っていいことと悪いことがある」として、社内で意見の相違があることを外部に見せないことが、企業内の道徳になっている、と思います。皆お金で生活しているのですから、お金を稼ぐことが目的である「企業」においては、この考え方は、極端に消費者に不利益がない限り、合理的なものだと思います。

 では、政党についてはどうでしょうか?この「イリュージョン」が有効である範囲は「企業」よりずっと狭まるように思います。企業は一般消費者にとっていくらでも替えのあるものですし、生活に関わる範囲も、ひじょうに狭い範囲だけです。利益を追求しても一般消費者への影響はあまり大きくありません。一方、政治は替えがあるといってもせいぜい数党程度で、それも実質的には与党と野党第一党くらいの選択肢しかなく、しかも、日本のように数十年のうちほとんど同じ政党が与党、という国もあります。しかも、政党の影響は、生活のほぼすべての面に極めて重大な結果をもたらすものです。ですから、政党の政策策定や活動は、イリュージョンではなく、実質、真実、事実、に基づいて行われるべきである、と私は思います。

 ですから、政治家には、政党という組織の構成員である前に、直接に自分の選挙区の全住民、また広く全国民に対して責任を負う態度が求められる、と思います。ですから、企業人と違って、政治家には、政党の構成員であることより、住民への直接的責任が優先する側面がある、というのが私の考えです。この考え方は、おそらく、ある程度常識的なもので、自身の所属する党が、国民の利益に反する法案に賛成したりする場合に、一般には「造反」と言われますが、議員が、所属する党の方針と異なる投票行動を取る場合があります。これは、リベラルの人の間でも、倫理的な行為として認められていると思います。

 では、前代表時代は党名を名乗りにくかった、と話すことは、選挙区住民の利益に合致するでしょうか?あるいは、「”名乗りにくかった”、という事実を話さない」ことにより、党に対するイリュージョンを維持することは、それに見合うだけの公益性があるでしょうか?

 私の考えは、私の見方が正しいとしての前提の上でですが、立憲民主党に対して忌避感を持つ何割かの人からの、議員への心理的風圧があったのは事実であり、隠そうが隠すまいが事実は事実です。しかも一般に広く知られていた事実と思います。「名乗りにくかった」という事実を話しても、ほとんどの普通の住民は何とも思わないでしょう。過半数の人が同意するか、特に何とも感じないことであれば、それを話しても、投票行動や、党に対する評価には、概ねニュートラルに作用することと思われます。一方、党内的に言えば、事実を話しただけで、これほど洪水のように一部の支持者から批判が巻き起こる状況なのですから、このような一部の支持者を抱えた、党内の、「物言えば唇寒し」、的な状況に一つ風穴を開けて、自由な情報流通、事実に基づいた判断を促進する方向に作用する、と思いますので、こうしたツイートがされたことは、党にとって、全体としてプラスか、悪くても若干のマイナスくらいの影響に止まると思います。

 このツイートが、なぜこれほどまでに強烈な反応を呼び起こしたかを冷静に考えていただければ、枝野前代表の支持者或いは枝野元代表時代の立憲民主党のあり方をよしとする人たちの間に、一部、新代表に対してかなり強い警戒心を持つ人があって、その人たちの間の強い思いがあってこそ、このような激烈な反応が一部で起きている、と言って間違いない、と思います。新代表の模索する新しい党のあり方に、この議員が割とあっけらかんと支持の気持ちを書いたら、それが、これらの人たちの間の、新体制を信任しづらい、というもやもやした気持ちをもっていた人たちの、よく邂逅した気持ちの出口になった感じがあります。議員の元ツイートは、前代表時代の体制をかなり全面的に近く支持していた一部のコア支持者の人たちを、若干憂鬱にさせる要素はあったと思います。ツイートの文言の一つ一つはたいしたことないんですが、ツイートに添付された新代表の写真、”名乗りづらかった”、”左右の真ん中の人に訴えたい”、などの文言、など、色々と、それらの人たちの気持ちに沿わない部分が重なっていたため、相乗効果で、それらの人たちのいらだちが増幅されたと思います。ツイートに対して、ここまで洪水のように批判が多く書かれたのは、私の印象としては、本当の理由は八割がた、新代表や新体制、あるいは代表選投票に加わった党内の有権者に言うべきことが、出口としてこちらに流れたからだ、という気がします。そして、議員の元ツイートに、過失の部分はとても少ないように思えます。

 さて、一般には言われない、もう少し深い話をしようと思います。

 私は、中国での生活が十年以上あるんですが、日本の組織人、社会人とか、個人より組織の一員としての倫理を重んじるものの考え方、価値観に疑いを感じています。それは実体験に基づいています。まず、そのような考え方、価値観に基づかずとも社会は十分滑らかに回転することを、自分の目で見て体験したからであり、個人を組織の論理に優先させた社会のほうが、その中で生活する人の幸福感や、社会が自分の気持ちにフィットする感じも高まる、と思ったからです。

 中国社会での経験をお話しします。たとえば、銀行に入って何時に閉まるか、と聞きます。この時、「我们5点下班」と言われたことがあります。下班、というのは勤務が終わって帰ることです。日本であれば、職員はどんなことがあってもお客さんのために働く、という理想、別の見方をすれば組織としてのイリュージョンを保持するために、そんな言い方は絶対しないと思います。一方、中国人は「みんなの生活が第一」、とでもいうかのように、「誰の生活も尊重する」、という共通認識のようなものを持っているように感じました。ある時、スーパーで買い物をしていて店員に何か聞いたら、”この商品は他の店のほうが安いよ”、と言われたことがあります。こんなことは中国生活でも十年余のうち一回だけです。中国にも、このようなことを言う人はほとんどいないと思いますが、それでも中国ではそういう人が存在する余地があった、ということのように思います。スーパーの職員、としての身分より、目の前の客との関係のほうが優先しているわけです。次にまた別の話です。銀行が混雑して、窓口の順番待ちで多くの人がとても長く待っていたことがありました。ある女性が銀行の職員の女性に向かい、待ち時間が長すぎる、と文句をいいました。職員の女性は、丁寧にですが、比較的明るい調子で「そうね、でも人(職員)が少ないのよ。私達もたいへんなの」というような話をして、休みがない、とかそんな話を文句を言ってきた女性としていたような気がします。相手の女性もそれ以上文句を言うでなく、二人の女性は打ち解けた様にそのまま雑談をしていました。日本じゃ考えられないことだと思います。要するに組織人としてかくかくあるべし、というより、それぞれに人間個人、という感覚が強く、客の立場であっても、客という自分の身分より、同じ1対1の人間同士という感覚が、団体の成員の側でも、客の側でも共に同じように優先している感じがありました。個別に言うと、これは単なる私の推測ですが、この一件に対する私の推測は、十年余の間の無数の体験や見聞を元にしているもので、この一件に対する皆さんの見方、あるいはこの一件に対する私の見方の正しさとは基本的に関係がありません。

 「組織人としてかくかくあるべし、というより、それぞれに人間個人、という感覚が強い」という事は、単に今あげた例だけでなく、十年間余の中国生活を通じて、いろんなところで普遍的に共通している中国人の生活感覚だと感じています。そして、それは全体的に中国国民の幸福感には大きくプラスに働いている、というのが私の長い間の強い感想です。例えば、何かサービスを受ける場合、客の状況がイレギュラーケースで、サービス提供側のルールには反する場合、担当者の判断で、客である私に便利な形でルールが多少破られる、というかルールの柔軟解釈がされて、客と担当者双方の心情的には常識的と考えられる形でケースが処理されることが中国でとても多かった印象です。日本であれば、ルールがこうだから駄目だ、と言われそうなケースでです。客とサービス提供者側の間の人間的な紐帯、人間的な常識が、組織の論理をはっきり越えている感じがあります。例えば、私は、日本の電話カスタマーサービスは、中国のそれと比べて、丁寧な言葉遣いがされる反面、著しく組織防衛的と感じます。明らかに実用上は何の問題もないのに、すべてルールに逐一したがって処理しようとされるため、電話口でとても不便を感じる、という経験は、日本国内の皆さんも、皆さん時々あるのでないか、と思います。中国のカスタマーサービスは、言葉はぶっきらぼうな人も多いですが、一般に、同じ生活者として常識的と思われる柔軟な、組織防衛的でない、情緒的に受け入れやすい対応がされる事が多い印象です。

 組織人ということがひじょうに強調されると、確実性は高めますが、一種のイリュージョンを保持することのために多大なエネルギーが消費されるため、目の前の人のニーズに応えようとしたり、目の前の人への思いやりの気持ちからの行動がかなり阻害される傾向があるように思います。組織の論理、というのは、根本的に若干利己的な面があるのじゃないでしょうか。

 要するに、組織人倫理が強調されると、内向きに話されることと、外向きに公開されることの間に、知らぬまに疎隔ができて、組織内部と外部の間に、大きな壁が築かれる、あるいは大きな溝ができやすいように思います。内と外を分けず、組織人としての意識も比較的小さく、外部の人と内部の人がそれぞれにお互いを同じ生活者、同じ個人という目で認識している習慣があれば、この組織内部と外部の間にあるデコボコは、適当にならされて、シームレスな人に優しいものになりやすいように思います。

 日本で、よくデータの改ざんとか、当時の安倍首相の擁護とか、隠蔽工作とか、原発の問題とか、冤罪の問題とか、オリンピックの強行とか起こりますが、みな組織防衛の考え方に基づくものでないでしょうか。このような、日本のあらゆるところで見られる問題は、組織は如何にあるべきか、という考えが、同じ人間としての普遍的倫理に優越していて、「その場を共にする人を守ること」が、人としての資格、と考えられている文化によるところが大きいように思います。

 この議員のツイートについては、ツイート自体は、基本的に、外に向って開かれた明るいものだったように思います。外にいる有権者と直接につながろうとするものだったように思います。これに対する激越な洪水のような批判には、私は、「あなたは、どちらの味方なのか、日本人なのか」とか、人類の普遍的利益とかいって「日本の現政権と利益相反になってる外国の勢力の側につくのか」、という、外国に関する議論でよくある、国内での論争と似たような論理構造を感じます。単に現在の執行部の姿勢を支持して、明るくがんばろう、というだけで、党名を「名乗りやすくなった」という単なる真実である事実判断が表明されているだけで、党に対する批判は何もないツイートが、ここまで一部の立憲民主党支持者から批判を受けるのは、内部利益を優先させないとみなした人への、内側からの「仲間でないもの」という非難が起こった、というのが、他の要因はありつつ、今回のツイートに対する批判の主要な事のいきさつのように思います。

 私は、今回のことは、大きな意味で、立憲民主党のみならず、日本のリベラルの在り方に対する警告であり、また別に、小さな意味で、組織を優先する文化に対する警鐘であると思います。

 これは、立憲民主党と、その目標とする政策を支持し、その目指す社会像の実現をめざす人は、今後このような状態を如何に変えていったらいいか、よく考えるためのよいチャンスであると思います。

江南 著作物、記事一覧
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