ものを書くのに疲れたら

五月の午後、なまぬるい風がゆっくり流れていく。高層階から眺めると交差点を行き交う人々はジオラマに散りばめられた人形みたいで、どこか現実感がない。大人になると多くの人が夏を嫌いになるみたいだ。悪足掻きみたいに初夏まで長袖を決め込んで、真っ黒のアームカバーと仰々しいサンバイザーに日傘まで装備して歩くご婦人の横で、さほど鍛えてもいない手足を潔く放り出したギャルが眩しい。

わたしはどこか気が遠くなってしまいそうになりながら、均質な気温が保たれたオフィスの窓際で、デスクトップのパソコンに向かって「いっそタイにでも行こうか」などと考えていた。

いつからか単調な毎日に慣れ切ってしまったわたしの脳みそが、そんな突拍子もないことを考えていることに驚いた。


タイにでも行けば、また何か書きたくなるだろうか。

書きたいことがない。

それはわたしにとって深刻な問題だった。


別に書くことがなくても死なない。それを生業にしているわけでも、アマチュアながらにそれなりの評価を得ているわけでも、ないから。でも書くことがないわたしは、死にそうではあった。

今はもう、この均質かつ清潔なオフィスの、規則正しい一部分として存在するわたしこそが「正しい自分」のように思える。

足もとの空気清浄機がコッーと音を立てている。ここから見える景色の中に数千人の日常があるのだろう。誰かわたしと同じように、今日も真っ白でも真っ黒でもない気持ちでふわふわと生きているだろうか。

ふっと、長らく触らなかったパソコンの画面がスクリーンセーバーからオフになると、黒い画面の中にどろっとした目玉が二つ鈍く映った。

「あぁやっぱり、タイに行ったって何も変わらないか」

外的環境要因が一個人に及ぼす影響は相当大きい。だから言語も住環境もスタンダードがまるで違う異国へ行ってしまえば、否が応でも多少なりとも人は変わる。わたしだって、きっと。

それでもデスクトップの画面にぼんやり映る気怠い女からは、そんな変化の兆しがちっとも感じられないのだ。わたしはいよいよ、腹立たしくなってしまった。

ほとんど発狂しそうになりながら、わたしは「だめだメールでもチェックして落ち着かないと」「今日が締め切りの経理申請があったはずだ」などと、必死の抵抗を続けていた。頼むからこれ以上、わたしをこの日常から遠ざけないで。タイに行こう、などと思ったわたしが間違っていたのだから。もう二度とそんなことは思わないから。

今日もこのオフィスは快適で、わたしがわたしの仕事と役割を全うする限り、大変快くわたしの居場所でいてくれる。

そんな歓迎ムードの中でさえ、ひとり居心地悪くパソコンの画面に向かって内に秘めた心細さややりきれなさなんかを、簡単に「削除」してしまえたらいいのに、と思いながら。

あぁ、やだ、もうすぐお昼じゃないか。ランチのメニューを決めることすら疎ましい。

続く日常のなかに、わたしはまた書きたいことに巡り合うまで漂う。きっと突然やってくる、何かに巡り会うまで。セーブモードでも省エネでもいい、息をして漂っているだけで及第点だ。甘え、でしょうか?あなたはどう思いますか?

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