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生きている人、死んだ人、そして死に逝く人と出逢って。
人が死ぬ瞬間を、はじめて見た。
死んだ人は、たくさん見送ってきた。
生きている人は、もっとたくさん出逢ってきた。
だけど、その境目は見たことがなかった。
はっきりと、くっきりと。
死んだことがわかった。
色が、空気が、音が、変わった気がした。
魂というものがあるのだとしたら、わたしはきっと、魂が肉体から離れた瞬間を目撃したのだと思う。
人が死ぬということは、なぜこんなにも美しいのだろう。
ーーー
亡くなられた方の最期の身支度をお手伝いしてきました。
はじめましての人に説明するなら、ざっくりやんわりそんな感じ。
ご遺体を綺麗にするお手伝いをしてきました。
これでもまだ、ふわふわでまっしろな、柔らかいベールに包んだ言葉を、選んで選んで、絞り出して使っている気がする。
現実はそんなもんじゃない。
だけど、知らなくて良いと思う。
大切な人の最期なら、なおさら。
死というのは不思議なもので、距離や角度で簡単にその姿を変える。
赤の他人だと不潔で不気味な“死体“。
なのに大切な人の“死体“となると、手をとり抱きしめ口づけることが出来る。
わたしは、その姿を美しいと思う。
死んだ人を抱きしめる、生きている人も。
生きている人に抱きしめられる、死んだ人も。
美しいと思う。
なんの躊躇いもなく、生と死を飛び越えて、抱きしめ抱きしめられる時間を持てるように。
わたしは、”死体”を見つめてきたから。
“死体”の美しさを、探し続けてきたから。
最期まで、死んでもなお最期まで、その人らしくいられるかどうかは、美しさにかかっている。
この”死体”の美しさは、わたしが昨日見た”人が死ぬ瞬間”に光を放つような、そんな美しさとはちょっぴり違う気がする。
そんなことを、ぼんやり思う。
ーーー
人間は、とても生臭い。
生きている人は、生きている人の。
死んだ人は、死んだ人の。
それぞれ独特な臭いがする。
その臭いが混ざることはなくて、生きている人から死んだ人の臭いがしたことはないし、死んだ人から生きている人の臭いがしたこともない。
少なくとも、わたしは感じたことがない。
だけどご家族さんが言っていた。
「昨日から死んだ人みたいな臭いがして、いやな感じがしてたんです」
この人は、目の前の大切な人が生きているうちから、死んだ人の臭いが放たれるのを感じていたらしい。
どんな臭いだろう。
わたしの知っている、死んだ人の臭いと同じだろうか。
それとも、全く別の、生きている人が放つ死んだ人の臭いがあるのだろうか。
不思議で、不思議で仕方がない。
わたしとは違った景色が見えているようで、なんだか不思議で、なんだか尊いなと思った。
ーーー
わたしはやっと、化粧をする人でもなく、おくりびとでもなく、みとるひとになれたのかもしれない。
生を幸せで彩るだけじゃない。
死を清らかに整えるだけでもない。
生から死へ、目に見えない旅をする人たちと一緒に、わたしもひとつ、なにかを渡った感覚がする。
どこにもなにも形は残っていないけれど、文字通り目に見えないなにかが、わたしの中で変わった。
それだけで、よかった。
わたしがこの世界に生まれ、今日までずるずると生きてきた意味が、あったのだと思いたい。
あと何度、わたしは向こう側へ渡れるだろうか。
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Photographer : Misato Fukagawa
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