![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/90020169/rectangle_large_type_2_5259dd391852c041bc0851d7144de438.jpg?width=1200)
おくりびとがUSJで踊り狂うゾンビを見つめて。
人が死ぬ瞬間をはじめて見たと、言葉を紡いだ次の日に。
わたしは、ゾンビと踊り狂う人間を見ていました。
USJが3年ぶりに開催したホラーナイトというイベントに、誘ってもらって行ってきました。
そもそも、わたしはホラーが苦手です。
怖いものは、怖い。
確かにそれもあるけれど、死者をコンテンツとして消費してしまうような感覚が、どうしても苦手です。
みんな、誰かの大切な人だったはず。
幽霊だろうが、お化けだろうが、ゾンビだろうが。
その人を産み落とし、愛し愛されたかはわからないけれど、誰かしらと何らかの関わりを持って生きたはずのその人を。
わたし達が勝手に絶叫して勝手にスッキリするための、掃き溜めにしてしまっていいのだろうか。
そんな想いが、どこからか湧き上がってくる。
幽霊も、お化けも、ゾンビも。
実在するかなんて、わからないんだけどね。
ーーー
USJで踊り狂うゾンビの中に、そんなわたしの心を鷲掴みにした個体がいる。
ツタンカーメンと思わしき仮面を被ったゾンビである。
ツタンカーメンは実在したエジプトの王様で。
その王様が死して干涸びてミイラ化しているはずで。
ということは、かぴかぴの死体であるはずで。
なのにわたしの目の前で、ゾンビになって踊り狂っているのだ。
どういうことなのだろう。
ゾンビって、ミイラ化した状態からでもなれるものなのだろうか。
動くたびに、ぽろぽろと朽ちてばらばらになってしまいそうな気がする。
だけど、目の前のツタンカーメンゾンビは、踊り狂っている。
不思議だ。
そんなかぴかぴツタンカーメンゾンビを、一生懸命写真に納める人間たち。
不思議だ。
仮にミイラがゾンビになれたとして、それでもツタンカーメンは、重くて首がもげそうなぎんぎらの仮面を被り続けるのだろうか。
不思議だ。
ミイラだろうがゾンビだろうが、他者に見られるとことを想定しているなんて。
なんて、不思議で面白いんだろう。
ーーー
人が死ぬことを、大抵の人は知らないんだなと思う。
頭では知っているのだろうけど、経験としては知らないんだなと思う。
目の前の大切な人が、死んで、動かなくなって、朽ちて果てるのを。
簡単には想像できないのだなと思う。
死んだ人と、死にかけの人と、死に逝く人と出逢う中で、わたしはそう思っている。
だからこそ、ゾンビと一緒に踊り狂うことができるのだ。
そうやって、エンターテイメント産業は回っている。
わたしの日常は、死んだ人と、死にかけの人と、死に逝く人と近づきすぎたのかもしれない。
ゾンビになった人の過去に想いを馳せ。
ゾンビになった人を大切にしていた人の涙を想像し。
ゾンビになっても尚、死ぬことが許されない人の心を見つめてしまう。
(目の前のゾンビが生きた人間によって作り出されたファンタジーだと一応は理解しているけどね)
わたしは、大切な人が死んでも尚、ゾンビになって踊り狂う姿は見たくないと思う。
わたしは、自分が死んでも尚、ゾンビになって踊り狂うなんて死んでも避けたいと思う。
さっさと腐って、自然に朽ち果てたい。
ーーー
Photographer : Yukihiko Kuga
ご覧いただいて、ありがとうございます。サポートいただいたお金は、これからもいろんな活動に励むために使わせていただきます。生きること、死んでいくこと、美しさとはなんなのか。わたしなりに探し続けていきますので、引き続きよろしくお願いします。