後悔を消すことは出来なくても、喪失を癒すことは出来なくても、"美しい"死顔は救いにはなれるかもしれない。
「綺麗になったね」
大切なひとを亡くしたご家族さんが、ご遺体を前につぶやく。
お身体を洗って、髪型を整え、すきな服に着替え、化粧をする。
湯灌という儀式を通して”綺麗”になっていく故人さま。
わたしの仕事は、亡くなられた方の最期の身支度をお手伝いすること。
一般的な”美しさ”とは違う、けれど確かにそこに存在する”美しさ”を最大限に引き出すこと。
全ては、後悔のない”最期”のために。
二度と再会が訪れることのない、永遠の別れのために。
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「綺麗になったね」
ご家族さんが使う”綺麗”という言葉の幅が、とてつもなく広くて深くて多様であることを、わたしは湯灌師になって初めて知った。
ただ、顔色が良いことを指してはいない。
ただ、汚れが落ちたことを指してはいない。
ただ、出血や腹水がお手当てされたことを指してはいない。
ひとつの言葉で表することが出来るほど、単純な想いではない。
「綺麗になったね」
たったこれだけの言葉に、後悔や無力感や喪失や戸惑いや絶望が、入り混じっているんだと思う。
皆なにかしらの老いや病気を抱え、最期を迎える。
苦しかったり。
悲しかったり。
辛かったり。
苛立ったり。
本人はもちろん、周りで支える人たちも、いろんな想いを抱いて自分の生活との両立に粉骨してきたに違いない。
わたしなんかが、簡単に想像できるものではない。
他人が外野から、簡単に口出しできるものではない。
それでも、どれだけ最善を尽くしてきたとしても。
「あの時ああすれば良かった」
「希望を叶えてあげられなかった」
「あんなこと言わなければ良かった」
「あの選択が間違っていたのではないか」
そんな後悔が、少なからず押し寄せてくるものなんだと思う。
多くの遺された者を見てきて、わたしはそう思う。
そんなご家族さん達が、安堵のため息をつく。
「綺麗になったね」とつぶやく。
わたしの仕事は、この瞬間のためにある。
もう、どうすることも出来ない後悔や無力感や喪失や戸惑いや絶望を、ほんの少し軽くすること。
そのために、故人さまの”美しさ”が必要だ。
そのために、亡くなられた方の”美しさ”を追求し続けている。
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全ての故人さまが必ず”美しく”なれるかというと、残念ながらそういうわけではない。
死因やご遺体の状況によって、叶えられない”美しさ”もある。
こればかりは、どうすることも出来ない。
死は不可逆的であるのと同様に、わたし達の身体も元には戻らない。
わたしも、無力だ。
だからと言って、簡単に諦められるわけがない。
わたしの目の前には、亡くなられら方と、大切なひとを亡くした方が、悲しみの渦に呑み込まれた状態でいるのだから。
正解なんて、存在しない。
出来る限りの、全力を尽くす。
それは化粧をすることかもしれないし、シャンプーで髪をさらさらにすることかもしれないし、手を握ってもらうことかもしれないし、口をお閉じすることかもしれない。
「綺麗になったね」
ご家族さんの、この言葉が全てだと思う。
故人さまに向けられた笑顔と、ありがとうの言葉が全てだと思う。
最期だから。
どんなに願っても、これが最期のチャンスだから。
叶うなら、なるべく穏やかな心で、お別れの挨拶が出来ますように。
わたしは今日も、そんな想いで働いている。
わたしは今日も、そんな想いで死化粧をする。
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Photographer : Misato Fukagawa
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