新実在論


はじめに

今回は新しい現代哲学としてマウリツィオ・フェラーリス氏、マルクス・ガブリエル氏などによって提唱される"新実在論"を検討していきたいと思います。

新実在論はまだ新しく、また難解で、余り簡単な説明に成功していない様に思われます。

ここでは、できる限り簡単に、新実在論の立場を説明していこうと思います。

ユニコーンは存在するのか、或いは「1」は存在するのか。

例えば、新実在論の主要な提唱者の一人であるマルクス・ガブリエル氏は「ユニコーンも実在する」と言います
「但し、その実在というのは、空想や夢といった意味の場においてである。」と続きます。

それは果たしてユニコーンが実在すると言えることになるのでしょうか。

文脈にも拠りますが、我々は(特に哲学領域では)「概念としては存在する」と別けて、「現実に存在する」という事を指して実在という言葉を使う訳ですから、端的に誤用であると言う事も出来ます。しかし、それではつまらないので、もう少し深く考えてみましょう。

我々はユニコーンのぬいぐるみが実在する事を知っています。であれば、やはり「ユニコーンは実在する」とも言えるのでは無いでしょうか。

ところが、今度は別の問題が生じます。
「ぬいぐるみのユニコーンは、本質的にユニコーンなのか。」という問題です。
我々が"ユニコーン"という言葉に前提する性質、例えば「生物である」という要件を、ぬいぐるみのユニコーンは満たしていません。
ですから、ぬいぐるみという偶像が現実空間に存在しても、ユニコーンが存在する事にはならない、という反駁は有り得るでしょう。

しかし、ユニコーンの代わりに、数字の「1(以降、イチ)」について考えた場合どうでしょう。

我々の世界は、イチが実在するかの様な前提の上に成り立っています。しかし、イチ自体は実在しません。

一個のりんごを指さして「あれがイチだ」という事は出来ますが、それはぬいぐるみのユニコーンを指して「あれがユニコーンだ」と言うこととどう違うのでしょうか。

その様に考えた場合、意外にも、ユニコーンとイチの現実性は等価と言えるのでは無いでしょうか。

さて、ここまでの話を前提した時、二つの立場を検討しましょう。

フーカント的思想潮流

まず「なるほど!だとすればユニコーンは実在すると言っても差し支えない。」という方向で考えた場合はどうでしょうか。これは新実在論がフーカント(フーコー、カント的)思想として批判する対象です。

ウマは実在するでしょうか。
一見すれば、イチやユニコーンと違い、確実に存在するかの様に思われます。

しかし実在するウマは、実はその見た目や言動だけウマとして認識できるだけであり、人間以上の高度な思考をしているかも知れません。
或いは、逆にさも生物の様に行動しているだけで、ウマには全く意識が存在しないかも知れません。
その場合、それは我々が想定するところのウマでは無い訳で、ウマも存在しないと言えます。
であれば、ユニコーンが実在するかはともかくとして、ユニコーンとウマの実在性の違いも曖昧なものになってきます。

カントは「物自体は認識できない」という立場を取ります。
そもそも、我々は五感を経由してしか現実を認識できず、言語を介してしか思考する事が出来ません。
五感や言語がどの様に惑わされているか、或いはそれらから推測される本質が、どの様に事実と異なっているのか、確かめようもない訳です。

その様に考え進めれば、イチとユニコーンどころか、ウマの現実性すらそれらと等価と言えるでしょう。

フレーゲル的思想潮流

逆に「そんなはずは無い、ユニコーンとイチの現実性は等価ではない」という方向から考えた場合はどうでしょうか。これは新実在論がフレーゲル(フレーゲ、ヘーゲル的)思想として批判する対象です。

イチは数学的な存在です。

現実に存在すると言うべきかはさておき、形而上学的存在としたところで、それは科学体系の中にあります。
イチは狭くは数学という領域に属するでしょうが、それは物理学や化学などとも接続的であり、科学体系全体が相互保証的な一つの大きな体系を為しています。

物理実験の結果は数学に還元され、数学的に導出された予測は物理実験によって確かめる事が出来ます。
それが一致しないのであればどこかに誤りがあると信じられる程に、数学という形而上学領域と物理実験という自然科学領域は完全な一致を前提としています。

フレーゲは「真理は論理整合であるはずだ」と考えました。
この論理整合性というのが、登場する各モノと、それを繋ぐ各ルール全体の相互保証として働くのです。

科学的体系は、宗教的体系やファンタジー的体系と全く比較にならない論理整合性と知識の広さを示しますから、唯一世界を解明する体系と言っても差し支えないでしょう。

そしてイチは科学体系の重要な構成員であり、ユニコーンは違います。

その様に考えれば、ユニコーンとイチの現実性は全く別物と言えるでしょう。

新実在論の立場

新実在論はフーカント的思想、フレーゲル的思想を共に否定し、意味の場という概念を用いる事を提唱します。

フレーゲル的思想潮流では、形而上学と自然科学が融合した巨大な体系が論理整合性によって相互保証している事が重要でした。
しかし、例えばJ.R.R.トールキン氏や、J.K.ローリング氏の頭の中には、それなりの広さと、整合性を持った世界が広がっていることでしょう。
仮にトールキン氏の物語がローリング氏よりも論理整合で広い体系を持っていた場合、トールキン氏の方が現実に近い事になるのでしょうか。
そういう事では無いでしょう。整合性の強度や、体系の巨大さは、それ自体が確からしさを示すものではありません。

科学体系は、その中に現実社会を対象とした物理学や生物学の領域を含んでいるというその点に於いて、ユニコーンの実在を語るのに適切である訳です。
一方で、例えばユニコーンのぬいぐるみを抱いた少女と、それを買い与えた父親の間では、科学体系を持ち出して「ユニコーンは実在しない」という事は不適切かも知れません。
つまり、その状況、環境が持つ意味の場が存在し、科学体系も一定の範囲の意味の場の中でしか意味を持たない、相対的な世界観のうちの一つであるという事です。

科学体系は物理学を含んでいるという点で「宇宙」を説明するには適切であるかも知れませんが、それは「世界」を解明するのに適切であることを意味しないという事を、新実在論は強調します

この強力な相対主義(つまり、科学的な論理体系も、ファンタジーの体系とすら比較可能な一つの体系に過ぎないという相対化)は、ともすればフーカント的な思想潮流と合流を果たすかに見えます。

しかし、意味の場という考え方は、フーカント的な思想潮流が自分勝手な現実を主張する事を、メタな次元から抑制します。

現実の生物学という意味の場で話しているなら、その意味の場に適した論証過程が求められるのであり、ファンタジーという意味の場を持ち出してウマとユニコーンを同等に扱う事を許しません。

「ファンタジーという文脈においてユニコーンは実在する」という事を擁護する一方で、「現実の生物学としてユニコーンは存在しない」という事をも積極的に主張します。

都合が悪くなると唐突に認識論に逃げ込む事も許しません。認識論の哲学的検討は、その認識論という意味の場の中で行われるべきだからです。

つまり、全ての主張が相対的である事を認めた上で、その相対的関係性を意味の場に照らして指摘してしまうというのが新実在論の立場なのです。

新実在論は政治的にどの様に有用か

まず、新実在論の想定するフーカント的思想とは、ずばりポストモダニズムの事です。

インターネットの発展と共に混乱したリバイバルを起こすポストモダニズムに対する新しい反駁として、価値があります。
ポストモダニズムがどの様な問題となっているかは、「嘘だらけの世界」などで以前書いたので、ここでは割愛します。

一方で、ポストモダニズム批判が急拡大し、「自分勝手な認識は慎め」という風潮となった場合、統一的な価値観が目指され、それが強い全体主義に結び付く場合も想定されるのではないでしょうか。
新実在論は、フレーゲル的思想潮流をも否定することで、その事を充分懸念した主張となっていそうです。

ただ、この様な筋からの新実在論の利用には問題点もある様に感じます。

新実在論のフレーゲル批判は、政治レベルではなく、根本的な哲学レベルで「宇宙は説明できても、世界は説明できない」という立場を取り、その事によって批判します。

一方で、現実社会でフレーゲル的思想潮流が悪しき全体主義化する時、そこで問題となるのは、自由な思想を許さない社会システムであったり、専門的知識を大衆が検証できないことによるデマの拡散だったり、或いは論理的な誤りといったものに拠るでしょう。

実際に、これらはファシズムの成立、コロナ禍に於ける医療知識の混乱、共産主義の失敗などに見て取る事ができます。

しかし、それらの現実的問題は「哲学的厳密には、フレーゲル的思想が世界を説明する事ができないはずだ」という批判とはっきりとは接続されていません。

つまり、フレーゲル的思想潮流の"政治"という意味の場での正当性を失わせる為に、政治上で何が問題なのかに向き合うことなく、"哲学"という意味の場に遡って根本的にちゃぶ台返しをする手法を用いている事になります。

それはポストモダニズムの詭弁の根源として新実在論が批判するのと、全く同じ事を新実在論者として行ってしまうという矛盾を生じさせます。

この様な課題を克服し、どの様に新実在論が政治利用されるか、今後に注目です。

終わりに

さて、今回もお楽しみ頂けたでしょうか!

ところで、大体私は記事を書こうと思うと「関連する項目をwikipediaで調べ、そこから色々と調べものをして広げていく」という事と、「SNS上などでのその思想の賛同者の生の声を見てみる」という事をして、イメージを膨らませていきます。

何故なら、例えば著作を読み込むなどの形でその思想に触れると、著者の視点に引っ張られてしまい、客観的にその思想を見る事が出来ないからです。

或いは、客観的・批判的な視点に留まる事を決意しながら思想書を読む事も出来ますが、研究者でも何でもない素人にとって、それは苦行が過ぎると思っています。

ところが、新実在論はwikipediaを読んでも余りに何も書いていないのです。単語が難しいとかではなく、情報量が少なすぎて理解のしようがない。

せいぜい「ポストモダンと科学絶対主義を共に否定する立場」くらいの事しか判らないのです。
しかも、SNS上で「私は新実在論者の立場から~」などと語っている人もお目にかかりません。
大衆に理解された形での新実在論というものが、まだネット上に無いとすら言えます。

ですから、これを書くのは非常に苦労しましたし、同時にまだ誰も言ってないことを言いたい私としては、面白くもありました。(実は、この記事に関して、確かな出典のある哲学は太字の部分のみで、それ以外は私自身の哲学認識によって繋いでいるのです。)

そんな訳で、誤りも色々とあるかも知れませんから、何か気になる点がありましたら、コメントお待ちしております。

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