芸能人の歳の差婚を巡る論点整理

はじめに

37歳の男性お笑い芸人が、19歳の女性タレントと結婚したという報告に世間は湧いています。社会の反応の中には、少なからず批判もある様です。

普段は割と抽象的な政治哲学について書いていますが、今回はこの実例を用いて考えてみたいと思います。
尚、今回は結論を出しません。(毎回そんな感じもしますが。)
幾つかの対立する立場をピックアップし、論点整理をしたところで終わりです。

法律こそ絶対的な基準なのか。(コミュニタリアニズムVSリバタリアニズム)

今回の件の一つのポイントとして「法的には問題無い」事が挙げられます。
法的には問題無いと言っても、この前女性の婚姻可能年齢は18歳に引き上げられたばかりであり、17歳では認められない訳です。
19歳と17歳に、絶対的な差があるかと言えば、実際のところ無いでしょう。
だから「なんだか法が規制しようとしている事ギリギリの事をしている」という感覚を得るのは無理からぬことです。
「そもそも法は何を規制しようとしているのか、根本的な倫理的な問題は何か」という事は次章に譲り、ここでは触れません。

先ず第一に考えたいのは「合法なことは何でもして良いのか?それとも、法律と別に、良識に基づいた基準が必要なのか?」という事です。

リバタリアンの立場

意外にも、リバタリアンは法律を重視します。
リバタリアンはアナーキストの親戚であり、法律などという国家権力的なものを毛嫌いしそう、という漠然としたイメージはあるでしょう。
しかし、実際には、彼らの多くは法律と世間の声の両方を気にしなければならない状態を、法治主義と人治主義による二重管理だと認識します。
どうせ従わなければならないルールがあるのだとしたら、それはより少なく、より明確なものである事を、彼らが求めるのは自然です。
なるべく人間の曖昧さを排し、明文化された最小限の規範としての法律というものを彼らは歓迎します。
対して、世間の批判や常識などは、正規のルートを経ていない、非正規な規範として嫌いがちです。

なので、今回の話題で言えば「19歳との結婚は法律的に問題無いのだから、何の問題も無いのだ。」という姿勢を取るでしょう。

一見すると彼らの上記の様の姿勢は強固な論理性に守られた最小限のもので、非常に合理的に見えます。
しかし「世間の声の側も一人一人はただの個人であり、法の範囲内の自由な権利に基づいて批判を行っているだけなのでは?」と問われると、答えに窮しがちです。
結局、リバタリアンの求めるところは、権力から個々人に対する影響をミニマムにしたいという事なのです。
それは彼らの意思、思想であり、リバタリアンもまた絶対的な合理性の徒ではありません。
彼らは国家権力や身近な支配(労使や家族間など)だけでなく、"世間"を主体として認識している点でコミュニタリアンと共通しており、その"世間"の権力を抑制しようという点でコミュニタリアンと真逆の立場にあります。
だとしても、彼らは「批判もまた自由」という事を渋々認めざるを得ないのですが。

コミュニタリアンの立場

対して、コミュニタリアンにとって「法律と共通善(世間の良識)」が相補的に漸進していくというのは最も重要な前提です。
前に歩く為には、右足を出したら、次に左足を出す様に、法律は次の良識を作り、良識は次の法律を作らねばなりません。
なので、彼らにとっては、法の範囲内の行為であっても世間がそれに批判的である状況が発生するのは必然であり、必要な事です。

以前、歩きタバコ対策の標語として「マナーからルールへ。そしてマナーへ」という解り辛い標語がありました。
一説によると「千代田区内はルールとして歩きタバコを禁止しているけれど、区外に出た途端に歩きタバコをする人がいる。ルールで定められてなくても、ルールを内面化し、マナーとして(区外でも)実践しよう。」という意図が込められていた様です。これぞコミュニタリアニズムです。

ですから、今回の話題に関しては「19歳との結婚は如何にも法的基準ぎりぎりであり、良識から批判されるべき事態」と考える人が多いのではないでしょうか。

一方で、世間を重視する彼らの姿勢は、容易にポピュリズムの行き過ぎに転じます。そして、それ自体が世間から拒絶される事もあります。

例えば、私刑系Youtuberというのが流行りました。
私の記憶だと、その走りはあるYoutuberが祭りのくじに当たりが入っていない事を暴くという2017年の動画で大ブレイクした事でした。
グレーだったり、違法不法でも検挙が難しく野放しになっているけれど、世間に非難される様な事をしている人達を糾弾する動画は、賞賛を集めました。
しかし、私刑系Youtuber側の素行の問題や、飽きもあったのか、徐々に批判の声の方が大きくなります。そして世間の声に後押しされる様に、最近とうとう私刑系Youtuberから逮捕者が出ました。
世間の声はポピュリズム的な行き過ぎを生むし、そしてある時急に手のひらを反す、という事がよく判る事例でした。

一つの方向に進み続ける訳にも行きませんから、結局彼らもまた「常識からの批判」一辺倒ではなく、常識を方向転換する「批判の批判」を歓迎せざるを得ないのです。

かくしてリバタリアンとコミュニタリアンの世間の声を巡る戦いは、批判の応酬を消極的に肯定しながら、良識と自由の境界を探り続けています。

大きな歳の差のある結婚、十代との結婚は妥当か。(リベラリズムVSコンサバティズム)

リベラリストの立場

では、先ほどの論点を分離して、そもそも「大きな歳の差のある結婚、十代との結婚は妥当か」という問題に向き合うと、どういう事になるでしょうか。

リベラリスト(社会自由主義者)は、身近な支配(労使や家族間など)に強い警戒がありますので、その観点から反対します。
年齢差があれば、その分人生経験の差があるでしょう。
その様な力の不均衡な2人が同居した時に、力の強い方が支配的になる可能性はあります。

彼らの考え方では、支配関係は悪です。
男性が支配するとか、年長者が支配するというのが旧態然としているからいけないのではなく、「個人間に上下関係が生じ、一方が他方の言う事に従わなければいけない状態が生じるのが、自由な状態ではない」というのが本来です。
そこから転じて、男性や年長者が支配している状況の方が、より典型的に生じ易く、また社会通念に担保されている分、転覆不可能な固定化されたものになり易いといった視点がある訳です。

改めて語るまでもありませんが、支配的関係は支配される側に不都合な、横暴なものになる可能性があります。
仮に具体的にそうならなかったとしても(例えば同じものを食べ、同等の生活をしていたとしても)、その生殺与奪の権を支配する側が握っている状態自体が、本質的に不平等とも言えるでしょう。

また、そもそも結婚生活というのは大半が密室で行われる訳ですから、不条理な事も発生し易いです。そして、今はどうか判りませんが、本来結婚とは一生に一度の決断だった訳ですし、今もその様な社会通念は(辛うじて)残っています。
結婚後の関係を別としても、その様な重大な決断を、十代の人間が適切に行えるのか、不当に誘導される恐れはないのか、といった懸念も考えられます。

コンサバティビストの立場

対して、コンサバティビストは個人間の力関係に応じて生ずる自然な関係を尊重します。

この尊重するというのは、必ずしも強者の立場に利するものではありません。
そもそも我々は、身近な関係の中で弱者としての利益を享受してきました。例えば「お金で人の時間や労力を買うのは奴隷制の所業なので行ってはならない。出来上がったサービス、製品にしかお金を払ってはならない。」という法律があったらどうでしょうか。
確かにブラック企業は無くなるかも知れませんが、契約のフレキシブルさが失われ、より辛い状態に追い込まれる人が多数発生する事は想像に難くありません。
つまり、会社員(法的に言えば使用人)の立場に甘んじる事には多くの利益があり、事実、多数の労働者がその生き方を選択しています。

また「子どもは親に支配される恐れがあるので、引き離して其々自活するべきだ」となったらどうでしょうか。
我々は子ども時代を生き残れなかったに違いありません。

つまり、支配関係とは上のものの為にあるのではなく、皆が幸せになる為にあるのであり、時に庇護的なものです。
ですから、コンサバティビストからすれば支配的な関係は敢えて避けるものではありません。
また、必ずしも年長者が、或いは男性が庇護する側にならなければならない訳では無いですが、年長者や男性が支配的に振る舞う可能性が高くとも、そもそも互恵的関係である以上、それに批判的である必要は無いと考えます。

ここでの対立の本質は「他人に横暴にする事も自由か」や「伝統か、革新か」ではなく、「庇護的な関係を互恵的な関係の一つの形として認めるか、その様な関係を横暴の温床として否定するか。」なのです。

その様に考えた時、これもまたどちらの立場も理解できる難しい問題です。

あとがき

さて、今回もお楽しみ頂けたでしょうか。

どの立場の意見も一理ある、難しい問題ですね。
良かったら、皆さんの意見もコメントで教えて下さい!

P.S.実は、もう一つの論点として「芸能人のプライベートを大衆が語る事の是非」を入れようかと思ったのですが、上手く整理ができずボツにしました。
今回の記事では、個人の事情に触れず、でも一般論として社会を考える糧とするというスタンスを取っていますが、これも一つの回答なんじゃないかと思います。

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