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中日新聞(夕刊)「ほんの裏ばなし」

2023年5月28日(土)中日新聞(夕刊)「ほんの裏ばなし」コーナーで、『語りの種』について執筆させていただきました。

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語りの種

縁もゆかりもなかった犬山のまちに、東京から移り住んで早十数年がたつ。移った当初は今のような観光客の賑わいもなく、少し寂れた城下町の風情が気に入り、まちなかや木曽川沿いをよく歩いたものだった。

京風の切り子格子の洒落た町屋。銭湯のタイル絵の名残。鉤形に折れ曲がった道。急な坂道と段丘崖。素掘りトンネル。中央に不思議な空間のある道。モダニズム建築遺産の長屋型シャッター街。

そして、何よりも家の前にあった竹藪まわりの四季折々の表情に目を見張った。烏瓜、龍の髭、冬苺、彼岸花、蕺草(どくだみ)、虎杖(いたどり)、忍冬(すいかずら)、蕎麦、藪椿、零余子(むかご)、筍、鶯……。豊かな自然のサイクルのなかにおのずと身を置くことができた。

その竹藪も今はなく、まちなかの建物も様変わり し、新しい風景に記憶が上書きされていく。公共施設の竣工や大きなイベントといった大文字の歴史は記録に残されていくけれど、まちの日常を生きる人びとの生活や、名もなき風景は、往々にして時代とともに消えていく。そして画一化され、のっぺりとした表情の「地方」という言葉だけが一人歩きしはじめる。

だが、実際には、そこには多種多様な生活のディティールがある。細部に目を凝らし、耳をそばだてて聞いていると、まちへの感度と解像度が上がってきて、目の前の景色に別のレイヤーが重なってくる。

小さな物語でいい。留め置かないと無かったことにされてしまうものを忘却の淵から引っ張り上げ、誰かに手渡す。犬山の生活史を聴き、綴り、編むというプロジェクトを昨年から始めることにした。これは2019年から活動を始めた有志の団体「みんなのアーカイブ」が、これまでに行ってきた聞き取りや映像資料調査の一環で、この本はその成果をまとめた最初の一冊だ。

犬山の昔について教えてください。五感に残る記憶を教えてください。そんな突然のお願いに、五人の方がお話を聞かせてくれた。

芸妓さんのいる置き屋が軒を連ね、義太夫師匠の美声が聞こえたまちの音。プロペラ船が往復し、近郊からの観光客がひっきりなしにやってきた桃太郎神社。赤岩の中に奇麗な水があってキラッキラと光る小魚が泳いでいた木曽川。尼僧さんが町を歩き、保育所に関わっていた日常の風景。手作りの演劇やコーラスの舞台に、大勢の観客が詰めかけた戦後犬山の文化活動。この本にはそんな聞き語りが収められている。

そこで語られた具体的なエピソードは、それぞれにかけがえのない話でありながら、互いに緩やかに重なり合い、まちの輪郭を形作る。さらには一地方の話を超えでて、歴史の襞に分けいっていく。大正・昭和初期の、鉄道会社を中心に各地で展開された観光戦略。電力産業の基盤を作った水力発電用のダム建設。敗戦後の進駐軍と赤線地帯。戦後復興期に全国で広がった文化サークル活動……。数え上げるときりがない。

歴史は上から与えられるものではなく、小さな積み重なりでできている。過去を知ることは未来につながる。私たちの身の回りのそこかしこに、語りの種はあふれているのだ。

文・楠本亜紀

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