悔い改めることは大切

こんにちは。
今回は悔い改めることの大切さについてお話しします。

「クリスチャン」を名乗る人たちの多くは、信仰に入った後も、信仰に入る前と変わらない生活をしても大丈夫と考えているかと思います。
ですが、そんなことはなく、「悔い改めなければ滅びる」と主イエスは仰せになりました。

‭‭ルカによる福音書‬ ‭十三章一節〜五節(新共同訳)
「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

上記の主イエスの教えから悔い改める必要性がわかるかと思います。
ここで大事なのは、悔い改めの定義です。
「悔い改めとは、律法違犯をして罪を犯すことをやめ、信仰前にしとった生活様式を完全に変えて改め、ただ主イエスを模範として仰ぎ見て神の律法に従い、神の御国を目指して方向転換することや。(引用元:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」)とミカエルさんは仰っておられます。
悔い改めというのは、不信仰の人たちや異教徒にとって良しとされることに行動を変えることではないことがわかっていただけたかと思います。
もし悔い改めの定義を正しく理解せずにいたら、一生神に認められる信仰を持てないまま、神の求められる完全な者となれないまま、死んでしまうかもしれません。
だから、正しい悔い改めの定義を覚えてくだされば幸いです。

今この記事を読んでる方の中には、「聖書は真理だ、キリストは救い主だ」と信じていても悔い改めを先延ばしにしている方がいるかもしれません。
しかし、それではいけません。

拙者の言うことが真実であり聖書に則る真理と感心しながらも、また、聖書が真実の書であり、主イエスこそが救世主と確信してても、「今は忙しい」とか「まだ世俗的な生活、娯楽、快楽等を楽しみたい」と思て、聞き従うのは後でええ等と後回しにしてるような人らもこのように主イエスから拒絶される羽目になる(ルカ十四章十五節〜二十四節参照)。なぜなら、先延ばしにするな、神の声を聞いた「今日」中に解決するように聖書(ヘブライ三章七節~八節、十三節、十五節、詩編九十五章七節~十一節参照)にあるさかい。決断するんは「今日」から出来るやろ。

引用元:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」

上記で言われてることはしっかり覚えておくべきだと思います。

そして、悔い改められる時間というのは有限であることも忘れてはなりません。

‭‭ルカによる福音書‬ ‭十三章二十四節〜二十七節(新共同訳)
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」

上記聖句から、主は期限を定められておられ、いつまでも悔い改めるのを待っておられる訳ではないのが分かります。
今は終末の時代であり、悠長にしている暇はありません。悔い改めは先延ばしにしないでください。

そしてもちろん、死んでしまったら悔い改めることはできません。
この地で死んでしまってもそのあとの陰府で悔い改める機会があるという「セカンドチャンス論」という教義が「キリスト教」の人たちの一部で信じられてるようですが、これは聖書を読めば嘘だとわかります。
セカンドチャンス論が嘘であることについては、聖書も確認しつつ死後の世界について解説されてる⬇️のリンク記事をご覧ください。


そもそもの話ですが、なぜ多くの人は悔い改めようとしないのでしょうか。
多くの人は神のことよりも何かを優先しているから悔い改めを先延ばしにしてしまってるのがその大きな理由だと思います。
しかし、こちらの記事で解説されているように、そうしたことは偶像礼拝となる行為ですし、神に服従できてない証拠ともなります。
もし、悔い改めたりするために必要なことがわからなくて、悔い改めを先延ばしにされている方がいるのでしたら、⬇️の二つの記事を読んでみてください。

こうした悔い改めを蔑ろにする人が多いのは、パウロの教えによる影響も大きいのではないかと思います。

画像内の文章の引用元:真の聖書福音と預言「安息日の重要性とモーセの律法」

パウロは律法廃止論を主張していました。その影響から、悔い改める必要がないと考える人が増えてしまったのだと思います。
しかし、主イエスは、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」[マタイによる福音書‬ ‭五章十八節]と述べられています。
だから、律法が廃止されたと考えるのは主イエスの教えに逆らう反キリストになってしまいます…。

また、律法が廃止された、と考えて悔い改めを拒むのは、神の律法が束縛だと思ってるからではないでしょうか。

しかし、⬆️の真さんのツイートで述べられている通り、律法は自由の律法であり、束縛するためのものではありません。
むしろ、律法違反をしている人は罪の奴隷となっており「自由」ではありません…。
また、自由について言及されてる聖句であるヨハネによる福音書八章三十二節について誤解してる方も多いかと思うのですが、その解釈については⬇️のミカエルさんの解説が参考になるかと思います。

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章32節
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

悪魔の子は上記の箇所だけ切り取って、律法廃止論の根拠にしたがるのです。彼ら彼女らは真理というのは自由をもたらすのであって、クリスチャンに束縛を与えたり、規律を作るものではないと吹聴します。
(中略) 
上記引用聖句のすぐ前を読みましょう。
新約聖書 ヨハネによる福音書 8章31節
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば」と条件を付されています。

引用元:真の聖書福音と預言「自由と律法に対する誤解

自由については不信仰の人も誤解してる人が多いと思います。
是非上記解説の引用元記事「自由と律法に対する誤解」をご覧ください。

先ほども言いましたが、今は終末時代であり、とても悔い改めを後回しにする時間などありません。

マイナンバーカードによる思想管理の可能性があります。
また、マイナンバーカード以外にも共謀罪が存在しており、いつ聖書の教えが規制されるかわかりません。
そんなわけないと思う人も多いと思いますが、かつての治安維持法のもとで日本は聖書の教えも監視対象だったのです。
詳しくは⬇️の記事をご覧ください。

悔い改めを先延ばしにせず、なすべきことは何か、よく考えて行動するようにしてください。

今回の記事は以上です。
最後までご覧くださりありがとうございました。

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