「できない」を手に入れること
ドラえもんの道具で「ありがたみわかり機」というものがあります。
少しひねりのある名前のこの道具の効果は、感度が何倍にもなるといったものでは決してなく、指定したあるものが、一切手に入らなくなるという代物です。
たとえば下記の記事が少し詳しく説明してくれていますね。
https://doranew.net/arigatami/
下記は、友人の ELLE さん (@elle_kwgc) に教えてもらった視点ですが。
人と合うことも、遊びに出かけることもほとんど許されなくなった今、この時間の長さが続けば続くほど、ありがたみは高まることになるのでしょう。
少なくとも感情レベルでしか実害を受けていない限りにおいては、この時間というのを痛手と捉えるのではなく、何かそういう、蓄えが少しずつ溜まっていくものと捉えたいものです。
ここで、例えば旅行ができなくなることについて、もう少し考えてみましょう。
今の文明においては飛行機で、どんな大陸でもほとんど一足飛びに行けるようになっています。
しかしそれは同時に、異国の地が、きっと生涯のうちに一度も行くことが出来ないような、遥か彼方の地であることをやめてしまった。このような事態であるとも言えるでしょう。
本当に機会の恵まれた一部のひとのみが、数ヶ月ものときをかけてでないとたどり着けなかった、その「行けない場所」という深淵。
しかし今、部分的には、その「行けない」という権利を取り戻しています。図像の散りばめられた書籍を読みながら、そのはるか地を、夜な夜な夢見ることが可能になったのです。
あるいは、今自分の手元にある本で言えば、『大航海時代』というものがありますが、こうした本の手に汗握るスペクタクルもまた、行けないことの深遠さを強めてくれることでしょう。
現代という時代が失ったその「行けない」深みを、昔の人だけが持ててたはずの権利を、今私たちは曲がりなりにも手に入れているわけです。
あるいは、今だから出来る接し方というのも、あるかもしれません。
場所について言えば、今だからこそある Google ストリートビューや、トリップアドバイザーの360度パノラマ写真は、大航海時代にはなかった新しいメディアです。
「もし行けたなら」を臨むことができるこうしたツールは、今この時代に「行けない」からこその、新しい遊び方を作ってくれるかもしれません。
あるいはインターネットでの、人との接し方について。
例えば『ひとり空間の都市論』によれば、極端な話ネットカフェにおける皆が同じように過ごす秩序にさえ、一種の連帯感があるのだそうです。
ネットカフェという空間の形、あるいは「個室じゃない」という縛りが、独自の空気を作っているとも考えられるでしょう。
「行けない」「会えない」という共同意識のある今、もしくはそのようにアーキテクチャーに縛りのある今、それだからこそインターネットにおいて新たな連帯感を作れうる。そのように思えなくもありません。
いつか明けたら、という楽しみさを深めるということ。
「出来ない」からこそ楽しめることが有り得ること。
もちろんこの今、社会政策のことも考えなければいけません。
しかし少なくとも個人的な閉塞感について考えるときは、今だからこそ "ある" ものを考えるのも、ひとつなのではないでしょうか。
それでは、ここまでありがとうございました。
また、海や地の最果てでお会いしましょう。
参考文献
https://doranew.net/arigatami/
最終閲覧: 2020/04/23
森村宗冬, 新紀元文庫 2013
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455402.html
松本健太郎, 新曜社 2019
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480071071/
南後由和, 筑摩書房 2018
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