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ディスタンス

 明るいことや前向きなことは書きやすいのだけど、自分の心の醜い部分や暗い部分は書くことはとてもむずかしい。

 そもそも他人の醜い部分を読みたがる人がいるのだろうかという疑問があるし、自分の心の醜悪さをある種の普遍性を備えたレベルまで昇華して書くには、相当の技術や力量がいる。弱さや醜さを描いた作家の一人に太宰治がいるが、自己の弱さを登場人物に仮託しつつも、太宰はその甘えた性状を甘やかしたままには書かなかった。

 自分の内に弱さや醜さを見つけ、どのようなかたちであれ、それに衝撃を受けたとき、そのことについて書きたいと思うのだが、どうしても自分をかばうところがあって、正直に書けない。自分を良く見せようとはあまり思わないが、自分の醜い部分をそのまま書くことを恐れる気持ちがある。もしかしたらそれは技術的な問題なのかもしれないし、そのことを書く欲求なり必然が自分の内に育っていないのかもしれない。だが書きにくいことをそのままにしておいては、いつまでたっても書けるようにならないのではないか、という恐れもある。ぼくは自由に書けるようになりたいし、自由に書きたい。

 自由に書きたいといったが、他人の目に触れるものを書くことには責任が伴う。たとえ見知らぬ人であっても、誰かを傷つけることは書きたくないし、たとえば悪人や悪者を設定するという書き方にも違和感を覚える。

 ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』は映画にもなった有名な作品だが、この小説には悪人が出てこない。主要な登場人物はある罪により裁判で断罪されるのだが、彼女自身もまた一人の被害者である。この作品に出てくる登場人物たちは、皆過去の影響を受けている。過去の歴史から連続していない存在など誰もいない。彼らは過去と対峙するとき、自らとの対峙を余儀なくされる。

 自らの醜さや弱さを書くためには、まず自分自身がその醜さや弱さを受け入れ、消化しなければならない。書きながら、未消化のものを咀嚼し、消化するというプロセスもありうるが、やはり日常生活のなかで自らを消化していくのがより自然ではと思う。

 日常生活のなかでと書いたが、誰とも関わらず、ただ一人きりで暮らしていると自己の消化は遅くなる。我々は個人の内面というものが独立して存在していると思っているが、そんな独立した個というものはない。我々の個や内面世界は、他者との接触によって初めて生じる。誰かとの会話ややり取りのなかで、自分自身への理解が深まり、自分の思想が発見される。

 だから、Social Distancingが求められている現在の状況は、我々個人の内面を揺るがす事態だといえる。

 他者との接触を避ければ避けるほど、自他の境界が希薄になり、内的世界は豆腐のように柔らかくなってしまう。そのように揺らいだ内面に流入してくるのは、ネットなどからの刺激(情報)だ。

 検察庁法改正案に対するネットでの抗議や、現在世界中に広がっているBlack Lives Matter運動は、おかしなこと、不正義に対する人々の抗議の声だが、ここまで大きな広がりを見せたのは、現在の社会状況と無関係ではないと思う。それは長引く自粛により我々が経済的に困窮しているという側面とともに、他者との接触が希薄になり、個人の内面が弱まり、外部からの刺激(ネットやSNSからの情報)に大きく反応しているからではないだろうか。

 ネット上やSNSで誰かとやり取りがあったとしても、それは本当の意味で人と人とのコミュニケーションとはいえない。人とのコミュニケーションとは、もっと全的なものだ。インタラクティブで、互いに影響を与え合う。衝突があり、誤解や意見の食い違いがあり、そして気づきがある。だが人となるべく距離をとる状況では、必然的にそのようなコミュニケーションの機会は少なくなる。マスクをつけて誰かと会話をしても、どこかに張り付いているかもしれない見えない影を感じ、我々は不安と恐怖のストレスにさらされる。

 Social Distancingによって我々が直面している危機は、自己の内面の危機に他ならない。ワクチンが普及するまでの間、我々はそのような危機をくぐり抜けなければならない。我々には絶対的に他者が必要で、しかもその他者との全的なコミュニケーションが必要だ。互いの存在を間近に感じあうような、他者とのやり取りが。


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