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人の幸福は数値化できるものばかりではない

”幸福”や”不幸”という言葉だけでみれば、人はどちらを求めるのか、どちらの方が居心地がいいかというのは語らずとも明白な事実ではないでしょうか。

人はだれでも幸せになりたい。幸せでいたいと思っているはずです。

不幸を望むのは”誰かを幸せにすることの代償として”というシチュエーションが思い浮かびますが、それは相手が幸せであってほしい(幸せに対してポジティブな感情を抱いている)ということの裏返しであり、結局はその人も”幸福”がいいと思っていることになります。

でも、幸福って簡単に数値化できるようなものでもないと思います。むしろ、数値化することにそれほど意味はないのではないかとすら思っています。

たとえば目の前に10名の人がいて、それぞれに1万円をプレゼントしたとします。

基本的に、嬉しいという感情を抱くと思うのですが、どれくらい嬉しいかというのは人によって様々です。

裕福な人にとっての1万円と、明日食べるものも危うい人にとっての1万円は価値が違います。

裕福でも手持ちのお金がない場合、その現金が非常にありがたいと感じる場面もあるでしょう。

子どもと大人では嬉しさの種類も違うのではないかと思いますし、意識がない人は1万円もらっているという感覚すらないので、幸福であるとすら感じないかもしれません。

結局は、幸福というのは脳で感じていることなのですが、目に見える形で定量化できるものでもなく、定量化できるのだとしても、2万円与えることにより幸福の度合いが高まったとして、それがその人の人生にどのように貢献できるのかは不明です。

1万円よりも2万円の方が、描ける未来像がより幅広くなるのだとしたら、金額の大小そのものが幸福を規定しているのではなく、どのような未来を描けるか、その幅や質によるものなのかもしれません。

ただの薄っぺらい紙に、金額という価値を見出し、それがその人にどのような未来像を描かせるのかという、その人の経験や記憶というものと照合されて生成されたイメージが、幸福というのの正体なのかなと、私は思います。

病院で患者さんと向き合っていると、検査値がどう変化したか、関節可動域がどの程度増加したのか、連続歩行距離が何m増えたかなど、数値の増減で医療者も患者さんも一喜一憂しているけれど、それで幸福度が増減するのは医療者からの価値の刷り込みによるものなのかもしれません。

連続歩行距離が1m増加したから、医療者は嬉しいと感じるでしょうが、患者さんからしたらそこに全く意味を感じていないなど、価値観の相違が見られることがあります。

結局のところ、医療従事者が提供しているのは幸福です。健康で長生きしたいという願いを、数値だけで判断できる基準のみで規定しているのは、ちょっと違うんじゃないかと最近は思っています。

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