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身体性、コミュニタリアニズム

良い悪いは別として、人はどうしようもなく自分の身体から影響を受けている。

肉体の物理的な重みは侮りがたい。
腹が減ったり疲れたり眠くなったりすれば機嫌は悪くなる。ホルモンバランスに感情や欲求を支配されることも多い。
短期的な感情は、往々にして肉体の生理的な好調不調に振り回される。

あるいは、長期的な人格涵養の観点に立ったとしても、身体からの影響は計り知れないのかもしれない。
我々の身体には、様々な属性が付随している。性別や年齢や人種があるのだ。

そして我々は、こうした属性から物理的・生理的な影響を受けるのみならず、属性を取り巻く社会的環境からも影響される。
有り体にいえば「男は/女は……」「若者は/高齢者は……」という価値観やステレオタイプと、それに基づいた社会システムからの影響である。

これは、私たちの人格形成に長期的に影響を及ぼすといえそうだ。
社会から押しつけられる価値観に賛成するにしろ、反対するにしろ・・・・・・・、私たちの人格は社会という他者に取り巻かれる中で形成され、変化していくのだから。

そして、自他を分ける最初の境界線にして、私たちを「特定の価値観からの影響をより強く受けやすい存在」にするものは、身体なのである。
私たちは、身体的に・・・・「男/女に生まれたから」「ある時代に生まれたから」「ある人種に生まれたから」という理由で、特定の価値観・ステレオタイプを押しつけられやすくなる。

もちろん、人によってはそれが極めて不快な現象たりうる。
ちょうど最近は「男/女なんだから〜」という言説に、人々が不快感を表明するようになったところだから、分かりやすいと思うけれど……

しかし悲しいかな、私たちは自分の身体を選ぶことができない。

出生時に割り当てられる性別を選べない。生まれる時代を選べない。生まれる人種を選べない。生まれる容姿や健康状態や身体能力を選べない。
更に抽象的なことをいえば、私たちは、自分がどの国のどの社会のどの階級に生まれる身体なのかを選ぶこともできない。

こんな風に考えていくと、身体はコミュニタリアンがいうところの一つのコミュニティであるといえそうだ。

私たちは、自分が選んだわけでもない身体に属している。
そして、そこから自身の人格に対して、生理的・社会的に大きな影響を受けている。
肉体なるものは、精神を搭載した単なるハードウェアを超えているのだ。

「性別は関係ない」「年齢は関係ない」──それはある意味、大嘘である。

誤解しないでほしい──これは「性別は関係ないといっても、実際には男/女の本能というものがあるのだ」などという意味ではない。

むしろ、本能がどうとかいう言説に反対することも含めて、人間は自分の身体からどうしようもなく影響を受けてしまうということである。
身体の持つ特徴は、これが社会からどう扱われるのかということによって、人格形成に影響を与えている。この点で、身体の持つ特徴を「人格には関係ない」と切り捨てるのは誤っているというだけの話だ。

押しつけられたステレオタイプに心の底から反発できるのは、そのステレオタイプを押しつけられ、苦しめられるような身体を持っていたからである。
同じ特徴を持つ身体、あるいは違う特徴を持つ身体に対して共感を寄せられるのは、私たちがまさに身体である・・・からなのだろう。

身体は重い。
私たちは形而上の存在ではない。

身体の重みに思いを馳せるとき、私たちはどこまでも自由に飛翔していく精神、普遍的な善というものを疑問視しているのかもしれない。
こういったものを当然視する人間に対して、ほとほと愛想をつかしているのかもしれない。そういう人間は大抵、無意識的に自分が持つ属性を世界の中心に据えがちだからだ。この姿勢は、批判されて然るべきである。

何者にも縛られない思考などありえない。
そんなことは百も承知なのである。私だってな。

それでも、自由になりたいのだ。肉体を飛び出して、どこまでも中立的な精神でありたいと、形而上の存在になりたいと願ってしまう。
だからこれからも、私は自分の身体性の受容と拒絶を、幾度となくくり返すのだろう。

身体であることを呪っている。そして、愛してもいる。

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