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【妄想】デュラハンがいる世界

「仮にデュラハンが実在したら、どういう文化になるんだろう?」という妄想


ここはおれのファンタジー世界!
現実には存在しない種族が、当たり前のように生活しているタイプのローファンタジー世界である。

さて、今日はデュラハンについて妄想する。
元々のデュラハンは「悪い妖精」らしいのだが、ここでは「なんか首と胴体が離れている人」くらいのイメージで考える。

いきなり願望フルスロットルな妄想だが、「デュラハンにとって、他者に首を預けることは信頼の最上の表現である」みたいな文化は確実にあると思う。
人間の五感のうち、触覚を除く感覚は全て頭部に集中しているからである。

身体は無事でも、頭を持ち去られたらデュラハンは何もできなくなってしまう。
何も見えない、聞こえない、においすら手がかりにできない、空気の流れを肌で感じることくらいしかできないのだ。
頭は悪漢によって遠くに持ち去られ、身体だけがその辺の人気ひとけのない路傍に放り出される。考えるだに恐ろしい。
頭/身体を探そうにも、身体/頭だけではさぞかし苦労することだろう。

あとシンプルに、頭を落とされたり思いっきり地面に叩きつけられたりするのも怖い。
デュラハンが死ぬような種族なのかは作品によるだろうが、なんにせよめちゃ痛いであろうことは確かである。

このように「やばいやつに頭を奪われる」ことはデュラハンにとってたいへんリスキーだ。
だからこそ、デュラハンが頭を預けるような人物は、そのデュラハンから全幅の信頼を置かれているに違いない。
あるいは「こいつになら頭をどうこうされてもいい」と思われているに違いないのだ。

そういうわけで、デュラハンが存在する世界のエンタメ作品では「デュラハンが頭を預ける」場面が胸熱シーンとして理解されていると思う。
バディもので二人の信頼関係が描かれるシーンとか、恋愛映画のクライマックスとかね。
「私の頭を預かってくれませんか」は告白かそれに近しいセリフとして理解されているに違いない。

もしくは「デュラハンの頭を持っている人」を見かけて「え、あいつらそんな関係だったのか……」「そんなに仲がいいようには見えなかったのに……」ってなるとか。
いきなり俗な話で悪いが、デュラハンがいる世界のBSSは「いけ好かないあいつが、自分が密かに好きだったデュラハンの頭を持っている」ことで表現されていると思う。

あと、デュラハンに対して「頭を預けてくれないなんて、私/俺のことを信用していないのか!」みたいな迫り方をするのがDVやハラスメントの一種になっていそう。デュラハラ。

「二人の関係が冷え切っている」ことを象徴する言い回しとして「頭を預けてくれない」とか、転じて「二人で出かけても手ぶら(=頭部を預けてもらえないため、手が空いている)」とかもありそうだ。

ちなみに、人間の頭部は4〜6キロあるらしい。そう考えるとデュラハンの「私の頭を預かってくれませんか」というセリフは色んな意味で重いね。

エンタメでいうと、デュラハンがいることでストーリーの幅は広がるだろう。
ベタだけど、GPSをつけたデュラハンの頭部をカバンに入れて、ギャングのアジトに潜入させるとかね。

「人間の首なし死体かと思ったらデュラハンの身体だった」ミステリーとか。
その逆でもいい。「なーんだ、デュラハンか」と思っていたら、実は人間の首なし死体でした、とか素敵なトラウマシーンが作れそうだ。
多分デュラハンがいる世界では「首のない身体」を見たときに最初に思うのは「ああ、デュラハンか」だろうから、後者の方がストーリー展開としてありがちかもしれない。

また、デュラハンがいることで他に大きな影響を受けるのはファッションだろう。
「いかにファッショナブルに頭を持ち歩くか」ということが、ファッションにおけるデュラハンの大きな関心事だと思うのだ。

オールドスタイル?は自分の手で抱え持つことだろう。
だがそれでは手が塞がって不便なので、日常的には「胸部〜腹部くらいの高さで頭を固定する抱っこ紐」的なものを使っているのではないか。

とはいえ、抱っこ紐で頭を固定するのは少々ダサいような気もする。
「頭部用抱っこ紐」は現実世界でいうところの「メガネ」「スニーカー」くらいのポジションにあるかもしれない。「便利だけど、工夫しないとダサくなりがち」「便利だけど、フォーマルではない」みたいな。

まあ、デュラハンが普通に生活をしようと思ったら選択肢は抱っこ紐一択だろうから、結局ダサさやフォーマルさを決めるのは形や素材なのかもしれない。
「こういう形でクロスしているのはダサくない」とか「革製だったらフォーマル」とか。

それはそれとして、おしゃれなデュラハンは、各々頭を持ち歩くためのファッションアイテムに工夫を凝らしているのだろう。
バスケットに入れたり、鳥籠に入れたり、お盆に載せたり……

そういえば、この世界では『サロメ』みたいな作品はどのようなポジションなのだろうか。というか、そもそも『サロメ』は存在しうるのだろうか。
「デュラハンではない普通の人間もたくさんいる」という前提なら存在しうるだろう。

だが、ファンタジー世界における「現代」の倫理観に照らし合わせたときに、どう捉えられているかは分からない。
「デュラハンと同じ状態になる=死」という「普通の人間」の恐怖感が、デュラハンに対する差別を生んできた時代があっただろうから。しらんけど。

逆に「普通の人間の、死への恐怖によるデュラハン差別」へのカウンターとして、誇示するように『サロメ』的なモチーフを演じるデュラハンもいるだろう。

さて、やたら長くなったが今日の妄想はここまでにしておこう。
また何か思いついたら追記するかもしれない。

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