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お子様前哨基地

子どもの頃はみんな創造的だったっけ、いつか戻ってきてくれると信じている


「最近どんな本読んだ?」「どんなゲームやってる?」「なんか作った?」という質問をしなくなったのは、いつからだろうか。
いつしか友人にこの質問をしても「最近本読んでない」「ソシャゲしかやってない」「なんも作ってない」といった答えしか返ってこなくなったのである。

クソしょうもねぇ感想だが「昔はこうじゃなかったのに……」と思ってしまう。
今も付き合いが続いているのは、なにかのジャンルに狂ったオタクくらいだ。

私はなにも「面白い私/つまらないみんな」みたいなくだらんことが言いたいわけじゃない。
そうじゃなくて、本当はみんな、私も含めて、面白い人間だったはずなんだ。いや、今も潜在的には面白い人間であるはずなんだよ。

以前はみんなもっと創造的だった。勉強ができるかどうかとは別に、それぞれが気負わずに・・・・・楽しいことを追求していた。
失礼な物言いになるが──学校の勉強はできない子でもザリガニを釣ったり、金魚や蛙を捕まえたり、地質調査をしたり、お祭りを企画したりしていたのだ。
昼休みになると、校庭に出て遊ぶこともあったし、図書室で本を読むこともあった。大抵みんながそうだった。だから、当たり前に校庭のジャングルジムでタイムアタックをしたし、「最近読んだ面白い本」の話にもなった。子どもだからというのも大きいが、競争に性差などの「盤外で考慮される要素」はなかった。クラス内で流行りの本だってあった。

かつての私たちは好き放題に本を読み、好き放題にゲームをし、好き放題に遊んで、好き放題に絵やら物語やら歌やらを作っていた。
今新しいことを始めるときに感じているような心理的ハードルもなかったし、「よしやるぞ!」と気合を入れる必要もなかった。

なにせ、当時の私たちの活動にはそこまで金がかからなかったのだ。あとSNSもYouTubeも今ほど発達していなかったから、集中を遮るものが少なかったともいえる。
本は図書館か児童館で読める。ゲームは同じのを何百時間も遊ぶ。公園で遊ぶ分には金もとられない。絵でも物語でも、A4コピー用紙にかけばよかった。
そこには金と情報が少ないがゆえの様々な制約があったものの、なお自由だった。少なくとも心理的には、今よりもずっと軽やかで伸びやかだったと思う。

もちろん、これは理想化されたノスタルジアなのかもしれない。
つまり「失われたから、実際よりも美しく思い出される」というわけだ。

まあ、この点については深く考えるだけ無意味だろう。
「過去は実際に美しい」にせよ「過去は実際より美しく見える」にせよ、私が求めるものは変わらないからだ。

私は、面白い君に再会したい。隠れているだけで、本当はまだいるんだろ?

生産的に非生産的なことをしよう。くだらない話をしてくれ。あるところは大人びて、あるところは子どもっぽく、いびつな遊びのかたちを楽しもう。
例えばドリップコーヒーを淹れながら、おやつに三ツ矢サイダーゼリーを作ったりね。別に、私の提案どおりにする必要はないんだけど。

「この年代の人間にとって」なにが自然で、なにが不自然かを考える必要はない。世間のいう「調和」なんてくそくらえだ!
テキーラが好きで、市民プールが好きで、帝国主義論が好きで、ショートケーキが好き──変か? だとして、それの何が悪い? というか、君もそうだろう?

本当は、君だって「大人のふりをしている」だけなんじゃないのか?
やろうと思えばいつだって、鉄と土埃とレモンとザリガニのにおいのするここに戻ってこられるんだろう?

私が待ちたい気分になったとき、気まぐれに待っているよ。
たとえ「常識」とか「年相応」が押し寄せてきても、君が戻ってきやすいように、この前哨基地を守って待っているから。

とはいえ、ここを守って死ぬ気もないけどね。当たり前だろ? 子どもなんだから。
我々はその場にあるものを絶対的に愛するし、飽きたらすぐどこかに行くものさ。これだっていわば「戦争ごっこ・・・」なんだ。

本当に命をかける必要はない。だからといって、本気じゃないということでもないんだ。
それを「お遊びは何かがかかっていないから、本気じゃない」だなんて、大人は全くもってわかっちゃいないよね。

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