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完璧な絶望

村上春樹じゃないが


絶望にとって最も絶望的なのは、自らが完璧ではありえないことである。

だがそもそも、絶望とはなにか。ここでは「自らが独立した不連続な存在であることについての、明瞭な意識」であるとしよう。有り体にいえば孤独の自覚である。

「結局のところ、人は独りで生きて独りで死んでいく。私の死が他に影響を与えることはない」
「私という人間の意識を、なんの障害もなく外部に伝えることはできない。自己を表現するにも、ことばという媒体の重さがのしかかってくる」
「私が他とは断絶して存在している以上、私のすべてを理解してくれる人間は存在しえない」
「どれだけ望んでも、私とあなたがとけあって一つになることはないし、ことばを尽くしたとて、私もあなたも最後にはお互いを理解しそこねる」

こういう永久に解消しがたい孤独の自覚が、絶望を生むのである。「私には理解者なんていない」「私に救いはない」、あるいは「私はあなたの理解者たりえない」「私はあなたを救えない」。
翻って、こうした意識のないところ──すべてがとけあって一体となる場や、おそらくは動物の世界──には絶望も存在しない。絶望とは徹頭徹尾、人間の意識なのである。

しかし、そもそも意識というのは思考=ことばによって成り立つものだ。そして、この「ことば」は自分の外部にほとんどすべてを負っている。
「ことばによる伝達」というシステムを生み出したのも、日本語やタガログ語といった個々の言語を生み出したのも、私ではないのだから。

私は借り物のことばで思考し、借り物のことばで意識を持っている。
ことばが私の中に流れ込んでいなければ、絶望することも不可能なのである。

絶望が一種の意識である限り、それはことばという自分ではないものによって生まれ、生かされているし、これに向かって開かれているのだ。
絶望は極めて個人的なものであるにもかかわらず、その成り立ちからしてことばという非個人的なものに根ざしているといえる。

畢竟、完全に閉じており個人的な意識──「完璧な絶望」というものはありえない。

絶望が絶望である限り、それはことばと相互に浸透し合う領域、すなわち他と断絶していない連続した領域を持つ。
「他と断絶している」という意識こそが絶望であるにもかかわらず。

「他と断絶している」という意識(=絶望)を持つために、他と断絶していない領域(=ことば)が必要である。
あるいは、他と断絶していなかった領域から、不思議にも少しずつ断絶の意識が形づくられてくる。

最初は連続した一つの世界があっただけであろう。
しかし人が、その世界の中身を「人間」だの「犬」だのといったことばで判明に区切りはじめた。この時点で「個々の事物を断絶したものであると捉える」ような認識が生じていたといえる。
それはやがて「自分は断絶した存在である」という個人的な意識にまで達するわけだ。

これが絶望の、ひいては人間性の完璧になりきれないところなのだ。
断絶の意識であるにもかかわらず、完全に断絶しきることすらできない。根底にそういう矛盾を抱えて苦悶しなければならない。
絶望にとっての絶望は、自らが完璧ではありえないことに由来する。

完璧な文章がありえないのもこういうわけだ。
ことばは「連続した世界そのもの」でも「不連続な存在の意識そのもの」でもない。

ことばは「世界そのもの」の豊かさを汲みつくすことはできない。ことばにすると、対象は多かれ少なかれ本来持っていた豊かさを捨象される。
この点について、テキストや画像や動画の中で、テキストの情報量が最も少ないというのは示唆的だと思う。

ことばはまた「その人が感じたこと」を完全に表現することもできない。私が見たものの美しさ、感情の複雑さ、覚えた違和感、微妙なニュアンス──辞書をひいても、熟考しても、どうしたって再現しきれないところがある。

ことばとは、あくまでも至るところに浸透して媒介するものであって、それそのものではありえない。
だから、完璧な文章というものも存在しえないのだろう。

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