女の獣
クソデカ主語カーニバル💃🎉
「女の狂気」みたいなものがめっちゃ好きなので書きました。ラブレターです。
混じりっけのない女の本能っていうのは、食欲だ。
女はみんな、自分の裡に血なまぐさい獣を飼っている。こいつは何かにつけて外にのさばり出ては、涎を垂らして目につくものを片っ端から呑み込もうとする。
この貪婪な獣は、鏡に映る自分さえも喰えると信じているんだ! だから女は美に取り憑かれる。鏡を見つめる女にとって、美とは最初の他者だからだ。美しさとは力であり、それゆえにすべてなのだ。
女たちはすべてを獣の食欲に供して、それでもまだ足りない。いやいや、この獣が飽くことなんてない。柔肌を舐めて、骨をしゃぶって、化粧を嗅いで、衣を噛んでも、やっぱりまだ足りないとばかりに舌をベロンベロンさせている。
だから次は、自分の外にある他者を呑もうとする。それで「共感」するんだ。
ここでいう共感は、相手が喜んでいるという事実を喜ぶことじゃない。相手のものだった喜びを、自分のものとして簒奪することだ。相手の喜びにかこつけて、自らを満足させるんだ。
喜びでなく悲しみでも同じことさ。相手の悲しみを認識したことをきっかけに、自分の悲しき過去を思い出し、自らの過去を憐れんで涙を流すんだ。
それはいわゆる「道徳的な」態度ではない。己の過去に由来して涙を流す人間は、いかに相手に寄り添っているように見えても、本当の意味で寄り添っているわけじゃないからな。
こういう意味での「共感」はむしろ、他者への捕食行為なのだ。
けれど、私はこの獣が嫌いじゃない。というか大好きだ。その美しい傲慢さの前では、真理もこうべを垂れるしかないからね。
思えば「道徳的」だからといって何になる? 道徳は正しさを求める。正しさとは普遍性のことだ。普遍性は人を殺す、しかも大量に。
普遍性を信奉する人間たちがいかに理性的に大量虐殺を招き、その後の焼け野原で嘆いたことか。バカバカしいとは思わないか? それでも大半は、人間であることを疑いさえしないんだから!
だったらまだ、一対一のむき出しの捕食─被食関係の方が健全だろう。獣は自分の行いを正当化しない。獣だからね。そこには言葉も弁明も不要であって、ただ端的に喰らい合うんだ。
しかも女の獣がやる捕食は、命までは取らない。やっている本人にすら自覚できないほどひそかに、相手を呑み込んでしまうだけだ。
「不道徳だな、その自覚もないのか?」──女を愚かだと笑ったとて、この獣の力を削ぎ落とすことにはならない。ライオンを所詮動物と笑っても、その力が少しも陰らないのと同じだ。
むしろ獣にとっては、愚かさこそが力だ。余計なことを考えず、少しもためらわずに大口開いてぱくり。気づけば自分を愚かだと笑っていた者は腹の中である。獣はしばし自分の怒りを愉しんで、それからまた獲物を探しにゆく。清々しい生き様だ。
もちろん、女は「獣を飼っている」のであって、「獣そのものである」わけではない。ゆえに女を「愚かな獣そのもの」だと思ってバカにする人間の言うことは、しばしば的外れである。
暴力をもっとも効率的に組織するのが理性であるように、もっとも残虐で毛艶のよい獣を飼っている女は、きわめて聡明であるに違いないのだ。だから恐ろしい。そして魅力的だ。
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