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性格の悪さ=メタさ

性格の悪さは、嘲笑の対象に対して「高次」に立ったときに出てくる。

例えば、YouTubeでしばしば見かける特定の層を揶揄する動画(「こういうイタいヤツいるよね」とか「道徳の授業っておかしいよな」とかそういうアレね)。
ああいう動画のコメント欄には、だいたい「この動画で揶揄されているタイプの人間じゃなくて良かった」「こういう人ってある意味幸せそうですよね笑」みたいなコメントが書き込まれているものだろう。

そしてこの手のコメントには「私はこの動画で揶揄されている人間とは違って賢く、自分を客観視できる」という意味が込められているわけだ。
さらに興味深いのは、こういうコメントを書く人たちは往々にして「自分の性格が悪い」のを大っぴらに認めるということだ。それこそ誇らしげなくらいに。

しかし言うまでもなく、たいていの場合人間の知性に大差はない。
ある対象に対して、人が高次の立場に立ってバカにできるのは、べつにその人が有能だからではないのだ。

では何が重要な要素なのかといえば「時間」である。川の流れや熱の移動が一方通行であるように、高次の立場に立てるかどうかということも「時間」という一方通行の要素によって大きく左右される。
だって、時間的に後になれば、先に行動した人間の欠点も見えやすくなるだろう? いわゆる事後諸葛亮というやつだね。高次の立場に立って、全体を俯瞰して、状況に対して冷静で客観的な判断を下すためには、時間的に後にいる方が絶対に有利なのだ。

兎にも角にも「知性の高さがもたらす優位性」より「時間的に後にいることがもたらす優位性」の方が圧倒的に大きいと、私は思っている。

そもそも、嘲笑の対象は過去にしかいない。対象は、少なくとも嘲笑する人(の主観)にとって、落ち着いて観察・分析できるくらいには固定化されている必要があるからだ。
そして、「固定化されている」というのは「過去の出来事である」ということを意味する。現在は絶えず流れ去っていくものだから。「ソリッドな観察対象」とは常に過去の痕跡にすぎないのである。

さて、それにしても、ああいうコメントを書き込む人たちが誇らしげに自分の性格の悪さを認めるのは、いったいどういうわけだろう?
まさか「時間的に後にいることによる特権的優位性を自覚したうえで、これを利用して相手をバカにする己の性格の悪さ」を誇っているわけではあるまい。

おそらくは単純に「性格がいい?─バカ─対象」と「性格が悪い─賢い─自分」という構図を頭の中に思い描いているのだろう。
でもって「性格が悪い─賢い」の「賢い」の部分を、性格の悪さを誇示することで暗にほのめかして、悦に入っているのだと推測する。

とはいえ「性格がいい─バカ」の部分には疑問の余地があるだろう。「バカは一見道徳的なようでいて、実は真に道徳的な判断すらもできない」という意識があるに違いないからだ。
「性格がいい」の部分は「幸福」と置き換えてもいいのかもしれない。そうすると「幸福な豚」という典型的なイメージが出現する。

この邪推が当たっているかはおくとしても、面白いのは「性格の良し悪し」と「賢愚」がしばしば相反するものとして捉えられていることだ。
さらにいえば「性格の良さ」より「賢さ」が重んじられているのも興味深い。

ここで似非インテリ仕草をかますと、実にハイデガーまでの西洋哲学的な発想だと思う。
つまり、第一哲学(=形而上学、存在についての哲学)が倫理学と無関係であるどころか、聡明さが倫理と手を切らざるをえないような哲学の発想ということである。

まあ、私はハイデガーエアプなので、これ以上深く突っ込むことはしないが。

読まなくていいよ

この現象の原因が何なのか、私にはよく分からない。
「賢さ」というものが「答えを見通す力」であり、「性格のよさ」が「答えなど知りえない未知に根気強く向き合うこと」だとすれば、両者が相反するのも分かるが。

賢さを信じる人は「真の未知」などないと思っていて、それゆえにモタモタと何かに向き合う人間を「無意味に・・・・時間をかける要領の悪いバカ」だと思って軽蔑している。
賢さが道徳を包摂すると思っているから、道徳なんてものをわざわざ別個に追求する人間の気がしれない。そういうことだろうか?

脱線した。そろそろ話をまとめよう。

「性格が悪い」というのは「バカにする相手よりも高次に立っている」ということである。そして「相手よりも高次に立てるか」というのは、賢愚よりは時間的な前後関係によって決まる。
性格が悪い人間は「時間的に後にいる」という特権を大いに行使しているのである。もちろん、こんな文章を書いている私もね。

あなたもお望みならば「この文章よりも後にいる」という特権を行使すればいいのだ。


↑この辺見てたら思いついた

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