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人の心が読めたとして

(恒河沙、阿僧祇、那由他……ハリカルナッソス!)


創作の世界では「人の心を読める超能力者が、『あいつうざい』みたいな本音ばかりを見てしまって、人の心の醜さに失望する」的な描写がよくある。

だが、本当にそうなのだろうか?
実際の人間は無意識のうちに、意味のわからないことを、意味のわからない順序で、理由もなく考えているんじゃないか?

冒頭の「恒河沙、阿僧祇、那由他……ハリカルナッソス!」はふと気づけば私が考えていたことだ。
「なぜ桁のでかい数字に思いを馳せていたのか」とか「なぜ不可思議、無量大数にいかずに唐突にハリカルナッソスのことを思い出したのか」とか聞かれても困る。
急に「恒河沙」という単語が頭に浮かび、何気なく阿僧祇、那由他と続けていたら、また急に「ハリカルナッソス」という単語が思い浮かんだのだ。理屈もへったくれもない。

そしてきっと、私以外の人間も案外こんな感じなのではないかと思っている。
なにせ、人間は一日に万を超える思考をするというのだ。思考の大半は泡沫のように結んでは消え、当人にすら内容を意識されることなく、とりとめもないのだろう。
冷静に考えれば無関係のAとBがなぜかセットになって現れているのに、疑問が呈されることもないまま、人の思考のカオスは本人にも自覚できないところで日々渦を巻いている。

"till the footleaf dropped gently over the threshold, a limp lid,”みたいな意識の流れの描写は、一応見た印象が似通っているものを挙げているだけ、人間の思考の中ではおとなしい方だ。
少なくとも「那由他→ハリカルナッソス」よりは遥かに話の筋が通っている。

本物の人間の思考の大半は、論理も何もないどころか、「言葉」の体をなしているのかさえ怪しい。
どこかで見たなにかのイメージのつなぎ合わせ、色、コラージュ、音、破裂音、意味のない文字の羅列、音楽、とりとめもない言葉。おそらくはそんな調子だ。

そりゃ「あいつうざい」みたいなことを考えているときもあるだろうが、そういう明快な・・・思考は、人間の思考の全体からすれば氷山の一角であり、またすぐに無明の闇に呑まれることになる刹那の閃きのようなものである。

だからきっと人の心を読める超能力者は、人々の思考のあまりの放埒さに人類の正気を疑うか、あるいは可笑しくなってきて笑いだすか、どちらかだと思っている。
少なくとも、とめどない意味不明さを受け流せるようになるまでは、思考の目まぐるしさにくたびれること請け合いだろう。

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