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フローラルな香りが苦手な理由を考えた結果の産物


花とは衰微する宿命の象徴だ。

興味深いことに、花は植物が子孫を残すための手段であり、あくまでもプロセスの一つであるくせに、それ自体が愛でられる。

花は枯れると分かっていながら愛でられる。いや、枯れると分かっているからこそ愛でられるのだろうか。
花の持つ「贅沢である」という価値は、花の命が短いことに由来するからだ。

花を愛でるとき、私たちは水切りだなんだとこれを長もちさせるための工夫をこらすが──結局、やさしい配慮にもかかわらず、季節の移ろいを映して枯れていく花をこそ、人は愛しているのだ。
そして、自分の配慮に値する「好きな花」を求めてもいる。路傍に咲く花の名前など知りはしないが、好きな花の名だけは覚えているものだ。

儚いものとは花である。そのくせ、目的に奉仕するのも花である。
花が花であるゆえんは、命としていつかは死ぬ定めにあり、生殖して子孫を残すための形でありながら、その姿のままで死んでほしいほどに美しいことだ。

その姿のまま死ぬことを望まれるから、花は儚い。

実をつける前に刈り取って、花瓶に活けて、枯れて死ぬまで眺めていよう。
いや、実なんていらないから、見た目の美しさに特化した奇形の方がいい。

枯れて死ぬところが見たくなければ、造花やプリザーブドフラワーでもいい。
永遠に幼くみずみずしい花は、プラスチックで少し頽廃的だ。

けれど、花は死骸すら美しいのだから、ドライフラワーにして飾ったっていいんだ。
しおれる、枯れる、散る。老いて死ぬこと、それどころかかさついた残骸ですら美しいものとして鑑賞される花の歪さよ! まるで美の標本だ。

いいや、こんなにも美しいなら、いっそのこと食ってしまおうか!
もちろん、果実のように美味しくもないし食いでもないが。ただ美しいから食うんだ。
ここでいう花は、食うという行為に適合しないから食われている。ゆえに食うという生き物の営みの中に、贅沢の息吹をもたらすのだ。

「徒花」という言葉は両義的だ。

実を結ばずに散った花を「むだ花」だなどといいながら、無為に咲いて散ってゆくという営みそのものに美を見出す。人は儚く散ってゆく桜も徒花と呼ぶだろ。
表向きには無為に咲くことを悪だなどといいながら、そこにはやはり滅びの美学がある。「散ればこそいとど桜はめでたけれ」っていうじゃないか。
後世に何も残さなくても、いや、何も残さないからこその美しさがあって、人はそれにいたく惹かれている。

けれどそれは、未来への配慮という理性にも、生殖する生き物の本能にも反すると思われているわけだ。
だから白昼堂々肯定するわけにもいかなくて、少し後ろめたい頽廃的濫費の彩色を施される。
 
明朗快活な太陽と水と土に生かされて咲くのに、こういう薄暗い後ろめたさがあるのが花のよいところだ。……よいところか? 少なくとも魅力的なところだ。

それと面白いのは、「散華」のようにある種の死に際が花に喩えられることだ。
何か大きな目的に殉じて死んでゆくさまが、果実のために死ぬ花に似ているからだろうか?
いや、散華はやっぱり耽美のモチーフなんじゃないか? 花はそれ自体で美しいからだ。つまるところ、散ってゆく花は何かのために死ぬのではなく、ただ己の運命として死ぬのである。

理想は見せかけであり、現実を覆い隠すヴェールでしかない。
まあ、ヴェールを剥ぎ取った現実はいかにも生臭く汚らわしく、大抵の場合生きるには値しないだろう。
しかし、現実を生きるに値すると「見せかける」理想こそが、結局は最も多くの命を呑み込んできたわけだ。

理想=見せかけ=ないもののために殉じることには、花も人もどこか悲壮感が漂う。
けれど、次の生命のために死んでゆくことが生き物の宿命なのだとすれば、この悲哀から逃れるすべはない。次の生命とは「未来」であるがゆえに、これもまた「ないもの」なのだから。

この宿命を救済してくれるものが、それ自体のために死ぬ、己の運命のために死ぬという「閉じた美しさ」なのかもしれない。死をもって、自己は他とは切り離された存在として完結する。誰だって死ぬときは孤独だ。

それは悲劇かもしれないが、生命の循環からの解脱という意味では救いだともいえる。「私の死」や「私の死骸」は、理想ないし次の生命のための糧となるかもしれない。だが、「私」それ自体は何者にも供されない。

「死んだらそこで終わり」というと救いがないように聞こえるが、これは裏を返せば「私は私というものを、自分のためだけに使い切れる」ということでもある。 
自分では「何かのために死ぬのだ」と信じていても、一つの死は、死にゆくそのものだけの運命だ。人類の理想も、生き物としての宿命も、この閉じた物語をものにはできない。

死んでしまうから悲しい。けれど、その有り様が誇り高い。
だからその姿を花に喩えるのだ。たとえ実を結ばずとも、花は美しいというだけで価値があって、救われている。
命もそうだ。その死の帰結がどうあれ、生き抜いて完結したという穢しがたい事実に「散華」ということばで賛美を送っているのだろう。しらんけど。

対する果実は徹頭徹尾、供されることに意味がある。

実り、食べられ、消化され、糞便となり、地に還り、そうすることで再び新しい果実の糧となる。
あるいは食べられることなく単に爛熟し、やがて腐り落ち、やはり地に還って糧となるわけだ。

このように、果実は常に生命の循環の中にある。この循環は永続的だから、その中にある果実もいつだって「若い」。
果実は衰微しない。それが果実のよいところであり、いやらしいところでもある。
果実は輪廻を巡りながら、いつも図太く地上を生きているのだ。

それで、だ。
私が花の香りを嫌がる理由も、今話してきたことの中にあるのだろう。

つまり、花に混じる「あとは無為に滅びてゆくだけの耽美で頽廃的な印象」とか「完成されているがゆえに何も受けつけず己を誇示する、挑発的で蠱惑的な印象」とかが苦手なのだ。
花の香りは「これ以上はあふれ出す」寸前まで美をなみなみと湛えていて、それがどうにも性に合わない。花には「これから先」がない。だから今この瞬間を永遠のものにしようと、嗅ぐものの鼻を甘ったるさで麻痺させてしまうのである。

まあ、全部こじつけといえばそうなのかもしれないが。
分からない。私はなぜ花の香りが苦手なのだろうか。

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