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数字は具体的?抽象的?

最近感じた価値観の違いの話をする。

私は「数字は抽象的なものだ」と思っている。

なぜなら数字は、判断基準として最高の地位を持つとみなされているにもかかわらず、それ自体としては具体的な状況について何も語らないからだ。

数字は、様々な情報を捨象した上で表れてくる。

「売上」を示す数字それ自体には「どんな人に、何が、どういう状況で売れたか」という、文脈にまつわる情報は含まれていない。
また、「どんな人に、何が、どういう状況で売れたか」を示す数字(マーケティング調査など)にさえも「小柄で低い声の〇〇さんに売れた」とか「白いシャツを着た✗✗さんに売れた」みたいな情報は含まれていない。

データ上の数字は、あるものが条件に合うかどうかを厳格に切り分けている。
個別具体的な文脈や曖昧なニュアンスといったものは、データ上に一切残らない。

数字は求められている情報に関してのみ、最高の純度を誇っている。
だから、数字は抽象的だといえるのだ。

現実の余白を切り落とし、求めている部分(性質)だけを残して抽象化し、誰もが合意した普遍的な方法で処理できるようにしたものが数字なのである。

それゆえに、数字は何かを判断する際の基準として、最高度の信頼を寄せられている──「幸福」とか「公正」とか、他の抽象的で普遍的な観念と同様に。

……と思い「数字とか、抽象的なものに心惹かれる」という話をしたところ、こんな反応が返ってきた。

「いやいやw 数字が抽象的だったら困るでしょww」
「『売上は大体このくらいです』とか『患者数は大体このくらいです』とか言ったらダメでしょw」

…ゑ?

「抽象的」という言葉を「大雑把で曖昧」という意味に理解したのか?

なんで??(困惑)

しかも上記の反応、二人から返ってきた。
曰く「『1776年』が1775年でも1777年でもないように、数字とは極めて具体的なものだから」とのことである。

もしかして、私の数字観の方がマイノリティなのか?
いや、マイノリティなのは私の「抽象」観の方なのかもしれない。

上記の反応をした人たちは、おそらく「抽象的」ということを良い意味に捉えていなかったのだろう。
「無意味」「曖昧」「範囲が広すぎていい加減」「現実から乖離している」──そんな風に捉えていたのではなかろうか。

(そして「具体的」ということを「明快、はっきりしている」「現実に即している」「地に足ついている」といった風に肯定的に捉えている)

一方、私は「抽象的」ということを、比較的良いように捉えている。
「高次」「高度」「知的」「普遍的」──これが私の「抽象」にまつわるイメージだ。

これは、私が間違っているとか彼らが間違っているとか、そういう類の話ではない。単なる価値観の違いの話である。

だが、この価値観の違いを把握していなかったがゆえに、まず、私と彼らの間で「抽象」に関して認識の齟齬が生じた。
そして、この齟齬が顕在化したのが数字の話において、ということなのだろう。

そう考えるとコミュニケーションって難しいね。
数字の話で「なんか噛み合わないな」と思ったとしても、その根本原因が数字という概念そのものにあるとは限らないのだから。

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