義憤
一般的に、性格は悪くない方が良い。なおかつ、人は「自分は性格が悪い」と思っていない
「怒り」は中毒性の高い感情である
この二つが合わさったときに生じてくるのが、「義憤」という感情の需要だと思う。
全部が全部そうだとはいわないが、人は怒りたいから怒っているのだ。
そして「義憤」は、人に備わっているこうした攻撃性を「倫理的に」解消するための手段である。
…「理不尽に怒りをぶつけるのはダメだ」という道徳意識があるだけマシというべきか、「コイツは叩かれて当然の人間だ」という正当化によって、自らの攻撃性に無自覚・無批判になっているからダメだというべきか。
私は後者寄りの人間なので、どうにも「義憤」という言葉が好きになれない。
実際問題、人に「義憤」を喚起させるような出来事って、すでに顕在化しているわけでしょう? 明らかになったから、広く知られることとなった。
じゃあ、全く無関係な人間が、わざわざ義憤に駆られて差し上げなくても、もう問題にはなっているわけだよ。
自分とはほぼ関係のない事件への怒りに、「義憤」という名をつける意味は、自己正当化以外にない。
だったらまだ、「私が気に食わねぇから、ぶっ潰せ!!」の方が感情的に誠実な気さえしてくる。
まあ、こんなこと、私がわざわざ言語化しなくてもみんな認識していると思うけど……
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