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春日の桜

宮古島に紅色の桜が咲く一月の終わり、仲里春日(はるひ)は、幼いとき海で亡くなった父武志にある報告をするために、島に帰って来ていた。春日は一昨年、夢の実現のために入学した東京の専門学校での勉強の最中に、自分の目がよく見えなくなっていることに気づいた・・・。
人生に起こる突然の喪失。その悲しみ、絶望、苦難から立ち上がり、人は顔を上げ前を向こうとする。その強さ、ひたむきさは時として心の声となってあらわれ、人々の胸に深く響くーー。



      1 

 窓を拭こうとした今日子が、外の右の方を見て雑巾を持った手を止めた。
「あ、咲いてる」
そう言ってしばらく目をやっていた今日子は、その姿勢のまま春日に言った。
「ねえ、咲いたよ、桜」
 ソファの肘掛に頭を乗せ横になっていた春日が、体を少し今日子の方にのけぞらせた。
「咲いた?」
「うん。今日は24日だっけ。ちょっと遅い?でも毎年この時期にちゃんと咲くんだから、すごいねえ、自然は」
今日子は一人で話しながら、石垣塀の向こうの桜の木にいくつか開いた濃い紅色の花を見続けていた。
 体を起こした春日が言った。
「ねえ、ちょっと車出して」
今日子が振り向いて聞いた。
「なに?」
春日はソファから立ち上がり、もう一度言った。
「車」
「じゃあ、ついでに・・・。ちょっと待って、窓拭いちゃう」
そう言って今日子は雑巾を手に広げ直し窓を拭きだした。
 春日はテーブルのスマホを取り上げ画面をタップした。
〝8時42分〟スマホから時刻を告げる音声が鳴った。

 「東京の桜は違うんでしょ」
今日子がハンドルを右に切り車を出した。助手席の春日の体が左に傾いた。
「東京っていうか、日本の桜は、ね」
「日本のって、宮古も日本だけど」
「こっちは違うの。何でも」
「なんでも違うかー」
「前にこっちの桜見せたら、何これ、色は赤くて濃いし、下向いてるって。宮古より本島の方が早く咲くって言ったら、北の方が?反対じゃんって言ってた」
「そうなの。ずっとずーっと北に行くと、北海道でいつ頃咲くんだろ」
春日が急に黙った。
「だいぶ遅いんだろうね」
今日子が自分で言った。 

 車は市内を抜け、海を隔てた池間島にかかる池間大橋に乗った。
「おじいはいるかな」
今日子が言うと春日がすぐに返した。
「あとで寄ればいいから、先に行って」
「わかった」
 二人の赤い車は、真っ青な海の上を行く大橋を渡っていった。

 池間島に入ると、今日子は車をフナクス海岸まで走らせ、そこの駐車場に止めた。そこから二人は少し歩いて細い脇道に入り、階段状になっている岩をロープ伝いに降りた。そこは地元でカギンミビダと呼ばれる小さな浜で、人は誰もいなかった。
 今日子が春日の肩をとんとたたいた。
「じゃあ、おじいのところへ行って、あとで来るから」
今日子はロープを手繰って岩の階段を上がっていった。

 春日は一人砂浜に座った。
 海は柔らかい陽射しにきらめく明るいグリーンで、その色は浜から離れるに連れ青さが増していき、彼方の沖は鮮やかな青一色になる。この海の下には、地元で八重干瀬(ヤビシ)と呼ばれる、世界でも有数の美しい珊瑚礁が広がっている。
 春日は寄せ返す波の音を聴いた。目に海が浮かんだ。
春日が海に向かって呟いた。
お父さん、春日。
 風が春日の肩まである髪を揺らした。春日は髪を耳にかけ、首のネックレスをTシャツの中から手繰り、その先に通してある指輪を手のひらに乗せた。


      2

 春日は小さい頃から絵を描いたり物を作ったりするのが好きだった。それが小学四年の学芸会でシンデレラ劇の魔女に今日子の化粧品を持ち出してすごいメイクをしたのをきっかけに、春日は化粧にすごく興味を持った。中学では7つそれぞれが奇抜な顔を持つ2メートルのトーテムポールを作り、高校では仮装行列でクレオパトラに金のスパンコールを使った衣装を着せ、顔には金に黒の美しいメイクを施した。
 春日が将来の進路を決めるのに決定的だったのは、高校二年の時、沖縄出身のファッションデザイナーが活躍しているドキュメンタリー番組を見たことだった。自分もこのデザイナーのように、そして自分はメイクアップアーティストになって世界の舞台に挑戦したい・・・。思いを強くした春日は、夢の実現を目指すために東京のヘアメイク専門学校に出願、入学した。


 これが、桜・・・。春日は、3月の下旬から咲き始め4月に入った頃にはもう至る所で満開の淡いピンク色の桜を初めて見た。そして春日は自分がこの桜と全く違う、濃い紅色の桜が咲く南の小さな島から来たことを自覚した。
 入学初日、一緒になったクラスの学生のみんなも日本全国の様々な地方から来ていることが分かったが、春日が宮古島から来たというと、みんなから声が上がった。海が一番きれいとか、毎日がリゾート気分とか、さらには向こうにいた方が全然いいのにと言ったりする学生もいた。春日はひとこと言ってやりたい気分にもなったが、これから付き合って行かなければならないことも考えて、やめておいた。
 授業は美容技術理論、化粧品化学や造形と色彩といった教科の他に、衛生管理や法規制度などという内容が想像も出来ないような教科まであり、春日が何よりも早くやりたい実習は連休明けからになっていた。
 桜が風に舞い散るのを初めて自分のめで見た春日は、その後知り合ったばかりのクラスの友達とゴールデンウィークの東京を見て回った。見上げて首が痛くなるくらいに高くそびえるビル。縦横無尽に張り巡らされた迷路のような道路を行き交う車の行列。エスカレーターの下に別世界のように広がる店また店の地下街。そのさらに下へと深く入り込んで行く地下鉄。その至る所を競うようなスピードで歩いて行くおびただしい数の人、人、人・・・。
 春日は自分が遥か南の小さな島からやって来た田舎者であることを見透かされないように、何にも目を奪われず涼しい顔をしながら、心の中では、東京に負けない!と、絶えず精一杯の気を張っていた。
 連休明け、ヘアメイクの実習が始まった。春日はフデ使いにセンスがあると講師に褒められ、これからやっていけそうな自信が湧いた。知識理論の勉強も頑張る気になった春日は、毎夜遅くまで教科書や参考資料に目を落とした。

 6月に入ったある日、通学途中の道路で春日の前を突然人が突然よぎった。こっちが歩いているのが目に入らないのかと春日は憤った。それから春日は道路や駅でよく人とぶつかりそうになったり、実際にぶつかったりした。春日は原因は自分にあるのではと思い始め、周りをよく注意するようになった。そして気づいたのは、自分の目がよく見えなくなっているということだった。
 春日は実習でカーラーを落としてもすぐに拾うことができなくなった。どこに落ちたのか床をゆっくりと見回す。すぐそこにあるのを隣の学生に拾われ、ぼうっとしていてとごまかしたが、春日は自分の目の異変を否定できなくなっていた。
 7月、春日は眼鏡店へ行って検査をし、度の強いメガネをかける。最初はよく見えると思ったがそれは気のせいで、人の行き交うところはもっと歩きづらくなり、すぐ前の方以外はよく見えなくなっていった。
 春日は怖くなった。このままじゃ、本当に見えなくなる・・・。でもそんなこと、友達にも、学校にも言えない。母今日子にも。春日は迷った末、駅近くの眼科へ行った。そこで診断は保留され、大きな病院を紹介された。そこであらためて受けた診断結果は〝網膜色素変性症〟。それは網膜の視細胞が悪くなり、目が見えなくなる病気だった。

 春日は何度も何度も心の中で繰り返した。このまま、わたしの目は、見えなくなる・・・。なぜ?どうして?わたしが何か悪いことでもした?春日は想像する。目が見えなければスマホができない。部屋を出てもコンビニに行けない。買い物ができない。駅で電車に乗れない。学校に行けない。実習で人の顔にメイクが出来ない・・・。アイライン描けた?リップ塗れた?その色、何色?目が見えなければ、何もできない。何も分からない。メイクの夢も終わり。これから先の人生も見えない。見えないで生きるのは死んだと同じ。いや、それなら死んだ方が、まだまし・・・。

 春日は学校を休み、部屋から出なかった。二日後にかかりだした友達からの電話に出ず、五日後にかかって来た学校からの電話も取らなかった。しかし春日が出た電話が一本だけあった。それは母今日子からだった。
「もう夏休みでしょ。いつ帰ってくるの?」
 春日は涙をこらえて、話した。



      3

 春日は今日子のスーパーでの買い物が終わるのを近くのカフェで待った。知った顔には会いたくないと思い、席は店の奥の方にした。キャップを被ったまま俯き加減でカフェラテを飲んでいると、席のすぐ横を行く足音がして、奥のドアが開け閉めされた。少しするとドアが開き、足音がすぐ近くでぴたりと止まった。あれ、春日?という男の声が聞こえてきた。しまった、と春日は思った。帰ってきてたんだ。どう、東京は?と聞く声が耳に響いた。春日は顔を上げなかった。声はクラスで一緒だった男子だとすぐに分かった。それと同時に春日は、横の通路の奥にトイレがあったのを思い出し、人の出入りがあるそばの席を選んだことを悔やんだ。そして春日はその男子の名前も呼ばずに、あっち行ってと言った。
少しの間を埋めるように春日は、あっち行って、今、人が来ると続けて言った。なんだ、東京に行ったからって、何かー、と男子は言葉を吐いて春日の横からいなくなった。
 宮古島は本当に小さな島で、知ってる顔と会わないでいることは不可能だ。それは本島でもそうで、那覇なら会う確率はとても高く、噂もSNSですぐ広まる。
 春日は思った。自分の目のことを人に知られてはいけない。もう見えなくなるこの目のことを、人にとやかく言われたくない。もし知られてしまったら、一体何を言われてしまうのか・・・。春日はそれだけを恐れた。

 春日は、今日子が読み上げるパンフレットを奪い取り壁に投げつけた。それは那覇の障害者センターの案内だった。
 今日子はそのパンフレットを拾い、椅子に座り直して言った。
「ねえ、どうしても」
今日子は一度息を入れて言った。
「東京へ行くの?」
春日は答えなかった。
「那覇でいいじゃない」
春日はまだ答えなかった。
「何も東京で・・・。ただ大変なだけでしょう。4ヶ月くらい行ってたからって、また新しく始めなくちゃならないんだから。それも・・・」
春日が顔を上げて言った。
「それも・・・?それも何?目が見えないのにってこと?」
今日子が少し黙って、言った。
「人だって車だって・・・」
「那覇なんて、知ってる連中ばっかりで、色々言われちゃうんだよ?どうした?目が見えなくなったのかって!。それでこれから、どうすんのさーって!」
声を荒げた春日が、泣いた。
 今日子は黙ったまま、パンフレットを片付けた。

 春日は自分の部屋にこもって泣いた。いくら泣いても涙は溢れ出てきて、止まることはなかった。
 春日は涙をぬぐいながら、はっと思った。これからわたしのことが、みんなに知られてしまう。ここにいちゃいけない。早く出ないと・・・。



      4

 9月、春日は夏の名残でまだまだ暑い東京に戻った。春日はヘアメイク専門学校を退学し、友達からの電話も着信拒否にして東京での関係をすべて絶った。目が見えなくなったことを、誰にも知られないために。そして春日は、目に障害のある人が自立して生活を送るための訓練を受けられる視覚障害者センターに通い始めた。目が見えないことを、誰からも同情されたり、ばかにされたりしないために。そして一人で生きて行くために。
 センターでは浜野という女性職員が春日の担当としてついた。春日は最初の数日は浜野に付き添ってもらい、自宅から地下鉄K駅まで5分の道、電車の乗り方、最寄の地下鉄W駅での下車からセンターまでの2分の道のりを教わった。
 浜野が春日に言った。
「仲里さんは勘がいいわ」
「いえ、K駅は知ってますから」
「W駅の方は知らないでしょ。一度行っただけで前後左右の位置関係をつかんでる。白杖もうまく使えてるし」
 春日は褒められていることより、浜野の声の感じから、丸い顔つきと40くらいの歳を想像した。
「やっぱりいい勘してる!歳はアラフォーよ。なんて、40越えてるけど。もう走るのはキツイわ!」
春日の質問に答えた浜野が、声の調子を変えて言った。 
「仲里さん、これからは、目が見えないんじゃなくて、目を使わない方法でやっていくの。パソコンもね!」
 センターでは、歩行通学から家事全般、スマホ、パソコン、そして点字、デイジーという録音再生図書まで、生活出来るよう、使えるようにと春日の訓練が行われた。 

 そんな中で春日はすぐに友達ができた。山本彩香、東京が地元の、春日と同学年の19歳。春日が宮古からと言うと、島も大変でしょと彩香が話してきて打ち解けた。
 彩香のおかげで春日は訓練より先にスマホがよく使えるようになっていた。春日が送った言葉を彩香がスマホの読み上げ機能で音声にした。
〝目を使わない方法でやっていく〟
「春日、いいね!目を使わない方法かあ」
「でしょ、彩香。わたし担当の浜野さんの格言」

 10月に入り、センターの就労支援でパソコンの授業が始まった。そしてすぐに春日は違う教室であん摩マッサージの就職支援で実習が行われているのを知った。春日が興味があると浜野に言ってみると、浜野が所長に進言してくれて、あんまマッサージの指導担当の菅井に話を聞くことができた。
「ボディケアやリラクゼーションの店で行われるマッサージは、疲労回復やいわゆる癒しのためのものです。それに対して、今ここで実習している人は、あんまマッサージ指圧師という国家資格をもっています。行う施術は医療行為で、身体の治療を目的としています。資格を取るには国家試験を受けなければなりません。受験するには指定の専門学校で三年間勉強することが義務付けられています」
「三年、ですか」
彩香が確かめるように言った。春日が菅井先生に聞いた。
「先生は国家資格を取った方がいいと思いますか?」
「それは自分がどう仕事をしていきたいかによると思います。君たち自身が考えて決めることですね」
春日と彩香が、はい、と小さな声で言った。

 談話ルームで、春日がカフェオレの缶のプルトップを開けて言った。
「国家資格、か」 
「取りたいと思ったとして、このわたしの頭で国家試験なんかに合格できるんだろうか」
そう言って彩香が缶コーラをゴクゴクと飲んだ。春日が聞いた。
「彩香はここに来る前、何やりたかったの?」
「わたし、バンド組んでて」
「ええ?バンド!?すごいじゃない!」
「キーボードやってたの。小さい頃からピアノ習ってて。バンドデビューが一番の夢だったけど、高3の頃から目が悪くなって・・・。黄斑変性症。バンドのみんなは続けようって言ってくれたけど、悪いから、やめちゃった」
「そうだったの」
「でもね、ピアノの先生になって子供に教えるの、ありかって思った」
春日が声を上げた。
「彩香、それ、今からでも出来るよ!」
「目が見えなくてもピアノは弾ける。でもね」
「でも?」
「生徒は目が見えない先生に習おうって思うかな」
「それは・・・」
 口ごもった春日に彩香が聞いた。
「春日はメイクだよね」
「そう。メイクアップアーティストを目指してた」
「ファッションとか映画とか最先端のクリエイティブ」
「うん。でも目が見えないと、もう可能性ゼロ」
 春日はカフェオレを一口飲んで言った。
「パソコンは覚えるけど、仕事にするのはムリ」
「なんで?」
「ただ会社の文書や計算の情報入力して、楽しい?」
「まあね」
「なんか、やったことが誰かのためになる方がいい」
「じゃ、やっぱ、マッサージか!」
「うん・・・。国家資格はまだわかんないけど」
 二人の後ろから、甲高い男の声がした。
「仲里さんと、山本さん」
「町田くん?」
「お話のところ、ちょっとお邪魔して、いいかな?」
声は一緒のグループで訓練を受けてる町田一輝だった。彩香がタタタッと指でテーブルをキーボードのように叩いて、町田に言った。
「町田くん、パソコン得意だよね」
「嫌いじゃない、つーか、好きかな。会社に勤めるより、いろんな仕事受けてフリーでやりたい。人と一緒にやるのは煩わしいし」
春日が町田に聞いた。
「町田くん、東京の人?」
「そう。神田の生まれの江戸っ子。ね、二人とも今度飲みに行かない?大丈夫、俺少しだけ見えるんだ、ジグソーパズルの最初みたいに、何ピース分か。だから俺が連れてくから」
「いいよ、今度ね」
彩香の返事に、よっしゃーと町田がルームを出ていった。
 ふうと息をついた彩香が春日に言った。
「町田くん、江戸っ子って感じじゃないけど。そういえば春日、お酒飲めるんだっけ」
「いや、飲めない。って言うか、わたしまだ18歳」
彩香がそっかー、と笑った。春日の目に、声が高くてPC好きの江戸っ子町田の細面の顔が浮かんできた。

 その夜、春日は部屋で先々のことを考えた。あんまマッサージ指圧師。国家試験。その道のプロ・・・。私にできるんだろうか・・・。いや、できるかじゃない、やるしか、ない・・・。春日が息をふう、と吐くと、外で雨が降り出す音が聞こえてきた。



      5

 宮古には、春日の心配をしている人が今日子の他にもう一人いた。祖父の正雄だった。正雄は宮古島のすぐ北に浮かぶ池間島沖の日本一の珊瑚礁、八重干瀬(ヤビシ)を巡るダイビングの案内をしている。
 正雄は今日子から相談を受け、春日に、池間島の事務所の電話の取り次ぎとか、パソコン仕事があるから手伝ってくれないかと話を持ちかけた。しかし春日はダイビングの仕事に関わることは絶対にいやだと言って断った。春日は父武志をこの海で亡くしていた。

 春日の父、正雄の息子武志は、正雄の下で八重干瀬のダイビングの仕事をしていた。小さい頃から自分の家の庭のようにして遊んですべてを知り尽くしている海が仕事場になるのは、正雄にとって必然だった。
 十五年前の二月、武志は新しいダイビングルートを探すと言って、一人ボートに乗り海に出た。正雄は夕方になっても帰って来ない武志を探しに、事務所の従業員二人を連れて向かった。海へボートを出すと、武志のボートは程なく見つかったが、武志の姿はなかった。正雄は従業員二人と海に潜った。珊瑚礁のいたるところの隙間にも武志はいなかった。
 正雄は今日子に、海に出た武志が帰らないと連絡を入れた。今日子はすぐに春日になんと言っておこうかと考えた。
 正雄はすぐに警察に捜索願を出し、翌日から地元の仲間たちも加わって八重干瀬の海一帯の捜索活動が始まった。しかし一週間たっても武志は見つからなかった。捜索は二週間で打ち切られ、正雄は海で亡くなったことになった。

 今日子は春日に、武志はヤビシの竜宮へ行った、と言った。春日は自分も行くと言って、きかなかった。
 春日は、毎日お父さん、お父さんと家の前へ出て帰りを待った。
ある日春日が今日子に、ごめんなさい、と言って握った手を出した。今日子がどうしたのと聞くと、ゆっくり開いた春日の小さな手には、武志の結婚指輪があった。お父さんと遊んでいて隠したままだったと春日は言った。
 今日子はその指輪に紐を通し、春日の首にかけた。お父さん、ここにいるからね、と言って。



      6

 春日は談話ルームで彩香に言った。
「わたし、専門学校行って、マッサージの国家資格取る」
「決めたんだ」
「うん。持っていれば、人は安心して、手技を受けてくれるし、信頼もしてくれると思う。これを取らなくてどうするって」
彩香がうん、と大きく頷いて言った。「実は、わたしも!一緒にやっていこ!」
「彩香・・・!」
春日が声を上げ手のひらを向けると、彩香がパチンと手のひらを合わせた。
「それでさ、わたしちょっと夢があって、春日に相談しようと思ったんだ」
「なに?」
「わたし、自分のマッサージの店が持ちたい」
「うん、いいね!」
「それには春日と同じで、人から信頼されるために国家資格が必要だと思う。それでね」
「うん」
「わたしの作った音楽、店で流すの、どう?」
春日は体を起こして声をあげた。
「いいね!彩香、いいアイデア!」
「それでその曲を店のサイトで配信。そういうの町田くんにやってもらう」
「自分のしたかった音楽が、そういう形で・・・。あ!」
「どうした?」
「わたし、ヘアメイクの人たちとかカメラマンとかモデルとか、現場で身体酷使してる人たちを診てあげたい!」
今度は彩香が体を起こした。
「それ、いいね!多忙な業界人のところへ、出張!」
「彩香の夢聞いてたら・・・、ありがとう、彩香!」

 春日は彩香とマッサージの国家資格が受験できる専門学校を受験することにした。今日子には電話で相談、正月に2泊3日で宮古に帰り、今日子を説得、許しを得た。春日は慌ただしく東京に戻り受験に備えた。

 春日と彩香はK専門学校に無事合格し、4月から通うことになった。東京の桜、ソメイヨシノは去年より早く開花し、3月末には満開になったが、その薄いピンク色に染まった景色を、春日は自分の目で見ることはできなかった。


      7

 春日は、物心ついた頃から歌を歌うのがとても好きだった。今日子が歌ってくれた童謡のメロディーをすぐに覚えて口ずさみ、言葉が話せるようになるとその歌詞を大声で歌い続けた。チューリップのうた、ぞうさん、かえるのうた、ぶんぶんぶん・・・。今日子も武志も最初の頃はかわいいね、上手だねと言っていたが、春日が覚える歌のレベルが上がって、クリスマスなどジングルベルから赤鼻のトナカイ、きよしこの夜を完璧に歌い切るようになり、二人の話は、将来は歌手に、というものになった。
 年が明け、武志は今日子と相談して、宮古島のヒカン桜が満開になる来月二月に開かれるのど自慢大会に、春日を出すことにした。みんなの前で歌うんだよと言われた春日は、小躍りして喜んだ。歌う曲は〝涙そうそう〟。春日は来る日も来る日も武志の前で練習した。春日が張り上げる高音はとても気持ちよく伸びて、聞いていた今日子も、子供の部門ではもちろん、総合優勝もするんじゃないかと思うくらい、春日の歌は上手かった。
 赤い花びらが釣鐘のように咲いたヒカン桜の下で、島ののど自慢大会が開かれた。司会の人が、さあ次に歌ってくれる子は、仲里春日ちゃん!と声をあげた。春日はこの時のために今日子に買ってもらった白いワンピースを着て、たくさんの人を前に舞台に立った。アコーディオンの前奏が始まる。春日は上を見上げた。そこにはヒカン桜がまるで自分に向かって花びらを開いているように見えた。春日は前を向いた。大勢の人が春日を見ている。生まれて初めて握るマイクの重さを感じながら、春日は〝涙そうそう〟を歌い出そうとした。でも、声が出ない。アコーディオンの人は春日の様子を伺いながら前奏を繰り返した。でも春日は、声を出そうとすればするほど喉が締まってしまい、どうしても歌い出せなかった。見ている人たちがみんな、なんだ、どうしたという表情になった。春日は舞台の上で頭が真っ白になった。見かねた司会の人が背中を押して袖に引き揚げさせた。武志は春日の前にしゃがんで、どうした、と優しく言った。春日は涙が込み上げ、大声で泣き出した。舞台に次の子がいて、司会が眉を潜め武志に顔で合図を送った。武志は春日を抱き上げ、春日の顔を胸に押し当て会場を出た。
 大勢の人の前であがったのね、初めてなんだからしょうがないわ、と今日子は春日を慰めた。武志はずっと残念がっていた。本当にうまいのになあ、と。春日はその言葉にまた涙が出て止まらなかった。



      8

 「あ、ここだ」
彩香がドアの把手を動かした。
「開かない・・・。あ、このドア、横に開く!」
すぐ後ろで春日が言った。
「横にスライドするってこと?、わたしたち、学校に試されてるって感じ?」
ルームの中から男の声がした。
「思い込みはよくないってことかな」
「え」
二人は驚いて振り向いた。男の落ち着いた声がまたしてきた。
「ドアは押す、引く、それしかないって、思い込んじゃいけないってこと」
「あの・・・、うるさくして、すいません!」
春日と彩香は頭を下げた。
「いいよ、新入生でしょ」
「仲里です」
「山本です」
「ようこそ、K専門学校へ。僕は星野。3年です。二人とも、これからへこたれないで頑張って」
立ち上がって言った星野が、ルームから出ていった。
 「やばい、やばい。人がいたんだ」
彩香が声を潜めて言った。
「へこたれないで、だって」
面白い言葉だと思った春日は、それが上の方から聞こえたので、この人は背が高いと思った。

 次の週、春日は彩香とまた自習ルームに寄ってみた。スライドドアは春日が開けて、ちょっと咳払いをした。
「そんなのいらないよ。わかるから」
低く柔らかく響く声がすぐに返ってきた。
「あ、すいません」
「仲里さん、と山本さん、でしょ」
星野がすぐに二人の名前を言った。
「他に人はいないから、どこに座っても大丈夫だよ」
二人はありがとうございますと言いながら、真ん中の大きなテーブルの椅子を手繰り寄せて座った。
 星野が椅子を回転させ、こちらを向いた音が聞こえた。
「どう、勉強の方は」
「授業の名前聞いただけで、わたし医者になるんだっけって感じです」
彩香が不満気味に言った。
「それは大変だ」
星野が少し笑って、すぐに言った。
「まあこれからだね。でもさ、国家資格を取ってプロになるって本当に大変だと思う。自分でも今さらながら」
「星野さん、3年で・・・」
春日が聞くと星野が大きく頷いた。
「うん、来年の2月に国家試験」
「どうですか」
「これは勉強するしかないからね。それ以外に出来ることは、ないなあ」
星野の言葉に、気合いだけでもなく諦めているわけでもない、納得ずくの感じが出ていると春日は思った。
「二人にちょっと聞いていい?」
星野の問いかけに、二人は首を傾げ、はい、と言った。
「確かな手技があるけど、人とのやり取りは苦手。手技はもうちょっとだけど、コミュニケーションが上手。自分だとしたら、どっちがいい?」
「わたしはコミュニケーション苦手なんで」
彩香がすぐに答えた。
「え、わたしはどっちも出来るようになりたい」
「春日ずるい!」
春日の答えに彩香が口を曲げた。
「いいね。どっちも出来るようにか。まあ実際に君たちが前にしたお客様が君たちの人当たりとか、君たちの手技をどう感じるかは、分からないけど」
「あ、はい・・・」
二人は星野の言葉がよく理解できないまま返事をした。
 星野が唐突に聞いて来た。
「人間の骨の数は何本?」
「ええっと、200・・・」
彩香が暗記したはずの数字を思い起こそうとした。
「千里の道も一歩から。これは本当だよ」
そう言って星野がルーム出ていった。
「骨、204だっけ、6だっけ」
彩香が聞いてきたが、春日には正しい骨の数よりもその前に言った星野の言葉が残っていた。

 学校はJRのY駅から5分の所にあり、二人は道をすぐ覚えた。しかし始まった授業は医療概論に、骨、筋肉、血管、リンパなどの解剖学と生理学、そして週2回の手技実技で、二人の頭と体は覚えることばかりの状態が続いていった。

 連休も明けた5月のある日、二人が自習ルームに行くと、星野の他に勉強している学生がいるようだった。星野は立ち上がり、飲み物でもと言った。
 星野と二人は自動販売機がある休憩スペースのテーブルについた。缶コーヒーを開けながら星野が聞いた。
「どうですか、その後、二人は」
「勉強、大変です」
「苦しいです」
星野が頷いて言った。
「それでも国家資格を取ろうとしているってことは、やりたいことがあるんだよね」
「はい。あります」
「僕もそうなんだ。資格を取ってまず先輩のところで修行するつもりだ。それでプロとして独立する」
やりたいことを聞かれると思った春日は、自分のことを言い出した星野が意外だった。
「で、その先のことなんだけど、お客様に来ていただくには同じ資格を持ったプロ同士の競争になるってことを先輩から聞いた。それにはやっぱり知識と手技、そしてこの人に任せて大丈夫、っていう安心感を与えられる人柄が大事になるんだって。もうすべては自分にかかってるんだって思うと怖くなるよ。ああ、ごめんね、先輩が弱音吐くみたいで」
「星野さん、頑張ってください!」
彩香が声をあげた。
 その先どう働くか・・・。こちらに聞くのではなく自分のことを言った星野に、春日は好感を思った。



      9

 授業が終わり、彩香が先に帰った。彩香にK区主催で8月に行われるピアノ演奏会の出演依頼が来たという。母の知人が推薦したらしく、彩香は、聞いてからにしてほしいわと言いながら、地元のK区役所に向かった。
 春日は一人で自習ルームに行くと、ドアの前で星野と会った。外へ出ない?という星野に春日は従った。
 外は梅雨明けの夏の日差しが強かった。星野はシャツの肘のところを春日に掴むように言った。春日は星野に彩香のことを話しながら、星野について行った。
 駅前のカフェで、春日はアイスカフェラテを、星野はコーヒーを頼んだ。席に座った春日はお金を払ってくれた星野に礼を言って、実習のことを話し始めた。
「ツボを押さえるのに、本当に力がないって感じます」
「ポイントを外してなければ、あと親指の使い方もあるけど、そんなすごい力までは必要ないよ」
「いや、それにしても・・・」
「男とは、違うだろうけど」
「やっぱり男の人の仕事なんでしょうか。女には無理なのかなって。それならボディケアとかやってる方が・・・」
「そう思うんだ」
「だって力がなくちゃ・・・、男と女じゃ圧倒的に違います」
「体重増やすか」
「それセクハラです」
春日が言うと、星野が謝った。
「失礼。でも女性だと他にもいろんな問題があるかな。客にいやらしい目で見られるとか」
「それもセクハラです」
春日は少しムキになって言った。星野が一呼吸置いて言った。
「女性には、女性の仕事の仕方があるって思うんだ」
「女性には女性の?」
星野が座り直して春日に言った。
「体の不調、病気を何とかしてほしいと思うのは男だけじゃない。お客様は女性も多い。その中には女性の施術師がいいと思ってる女性も多いんじゃないか。リラクゼーション、癒しとかのイメージはやっぱり女性でしょ」
「それは・・・」
「国家資格を持った女性が、女性客に特化した治療マッサージを行う、とか考えてみるといい」
春日は、あ、と思い、言葉が出なかった。
「羨ましいよ。男より、女性の方が仕事の可能性が広がってるんじゃないかな?」
星野がコーヒーを飲んだ。春日の目に星野の笑顔が浮かんで来た。

 春日のスマホが鳴った。彩香だった。すいませんと言って春日は画面をタップした。
「春日?打ち合わせ終わった。町田くんに相談したいことがあって連絡取ったら、会おうってことになって。春日今どこ?」
「星野さんと一緒、駅前のカフェ」
「じゃ、星野さんにも聞いて。一緒に食事どうですかって」
春日はスマホを耳から外して、星野に聞いた。



      10

 春日はのど自慢会場から泣き続けたまま家に戻った。春日の涙はようやく止まったが、機嫌はよくならなかった。今日子はしばらく放っておいたらと言ったが、武志は春日をなんとかなだめようとずっと春日のそばにいた。武志が絵本のページををめくって見せても春日は首を横に振り、おもちゃを差し出しても 春日はおもちゃを掴んで思い切り投げ出し、大好きなうさぎの人形を渡されると、さすがに投げはしなかったが横に退けた。武志が抱っこしようとすると、春日は手足をばたつかせ、武志をぶったり蹴ったりした。
 武志に押さえ込まれ、やっと静まった春日は、武志の指にはめられていた指輪を目にして、これがしたいと言った。武志は指輪を外して春日に渡した。春日は指輪を目にして覗いたり、自分の指にして回したりしていた。
 お母さんといっしょの印だよと言った武志に、宝探し、と言って春日は武志に目をつぶるように言い、その間に指輪を隠した。
 最初は棚の時計の下。武志は春日の足音と時計を動かす音ですぐに分かって見つけた。次は大きな法螺貝の置物の中。春日は今度は足音を立てずに隠した気になっていたが、武志には法螺貝に指輪が触れた音が聞こえて、またすぐに見つけた。三度目、春日は思いつき、横にあったうさぎの人形を取り上げた。春日はその胸ポケットに指輪を隠して自分で抱いて、部屋の中を時々止まったりしながら一回りした。いいよの声に目を開けた武志は、春日の歩いた後を探したが指輪は見つからなかった。
 そこに電話が鳴り、今日子に呼ばれた武志は電話に出た。武志は春日の頭を撫でて花見の飲み会に出て行った。

 その二日後、武志は帰らぬ人となった。
 新しいダイビングポイントを探すと言って一人モーターボートに乗って海に出たきりで、夕方になっても武志は戻らなかった。父正雄は従業員らと海へ出たが、そこには武志が乗って出たモーターボートが沖に流されて見つかっただけだった。

 自分のせいだと春日は思った。お母さんといっしょの印だよ、という武志の言葉が春日の頭の中に響いた。春日は武志の指輪を隠したことを今日子に言った。今日子は春日を抱いて言った。大丈夫、春日のせいじゃないから、と。
 今日子はその指輪に紐をつけ、春日の首にかけた。



      11

 星野と春日が打った拍手が境内に響いた。拝殿に礼を終え、階段を降りながら星野が春日に聞いた。
「何をお祈りしたの」
「星野先輩が国家試験に合格しますように」
「それはありがとう。自分のことは?」
「どうか神の手をお与えください!」
「そりゃすごい!」
二人は笑って、T宮境内のベンチに座った。
「なんか、神社って静かでいいですね。星野さん、今日はありがとうございます」
「いや、なんも。こういう雰囲気が好きで色々神社巡りをしてるんだけど、ここM駅なら仲里さん一駅で近いなって思ってさ」
「あの、星野さんって出身はどちらですか」
「僕は北海道生まれ。高校でこっちに来て・・・、あ、なんも、で分かった?」
「いえ、それは。北海道、そうなんですか!」
「北海道弁だからね、なんも、なんもって。今でもつい出ちゃうんだ」
「わたしも、すぐ沖縄でしょって」
「沖縄ね。甥っ子が美ら海水族館に行ったよ」
「ああ、ジンベイザメですか」
「それももちろんだけど、コブシメっているでしょ」
「イカの仲間ですね。宮古の海にいるんですよ」
「そうなんだ!甥っ子がそのコブシメが好きになっちゃって、それで童話を書いたんだ」
「え、童話?」
「うん。甥っ子を喜ばせようと思って。そうか、僕は宮古の海のことを書いたのか」
「童話、よく、書かれるんですか?」
「実はさ、僕は、童話作家になりたいんだ」
「そうなんですか!?」
春日は驚いた。星野はあんまマッサージを極めようとしているとばかり思っていた。
「前から作家になりたいと思ってたんだけど、高校の時、緑内障になって目が見えなくなった。だいぶ悩んで、最初からプロの作家は無理で生きていくのに職をって考えたら、パソコンよりあんまマッサージだなって。人を相手にする方が人生の体験が広がるって思ったんだ。あんまマッサージ指圧師になってしっかり仕事しながら、童話作家になるために作品を書いていく、そうしようって。それで東京の叔父さんに世話になって・・・、あ、ごめんね、自分の話ばっかりで」
「いえ、すごいです・・・」
「仲里さんは?」
「わたしは、ヘアメイクの専門学校に通っていました。メイクアップアーチストになりたかったんです」
「ファッションの世界」
「はい、でも途中で目がどんどん悪くなって・・・。でも島には帰りたくなくて、東京で生活訓練受けました。それでこの先何をしていくかって考えて、わたしも人のためになることと思ってマッサージを選びました。そしたら後から夢ができたんです」
「後から夢が?」
「はい、ファッションや映画の現場の世界で頑張っている人たちの身体や心のケアができたらいいなって」
「それはいい!一度目指した夢が活きてる!」
「すいません、聞いてもらって」
「なんも、なんもだよ」
星野のわざと言った方言に春日は笑った。
「じゃ僕が書いた宮古の海の話、読んでくれますか?」
「ぜひ!」
「後でメールで送るから」
「はい、お願いします!」
 二人の前に群がっていた鳩が一斉に羽ばたいて、十月の澄んだ青空に飛び立った。
 その夜、星野が童話を送って来た。タイトルは「こぶのすけ、うみをいく」。春日はすぐにリーダーの音声を聞いた。南の海の小さなコブシメの子こぶのすけが、カメやタコ、マンタやジンベイザメなどいろんな海の生き物に会い、年上のコブシメこぶまるに出会う。こぶのすけは人間の子どもに捕まるがまだ小さいことで海に放してもらい、こぶのすけとこぶまるは大きな海の冒険に出て行くという話だった。
 春日は星野の童話に感心した。そして星野が、あんまマッサージ師を目指しながらこうした童話も書いて、作家になるという夢を実現しようとしていることがすごいと思った。春日はすぐに星野に返信した。
 星野さん、面白かったです!こぶのすけが、人間の子と見つめ合ったシーンがとてもよかった!



      12

 待ち合わせはS駅の前に6時。春日と彩香は町田のナビゲーションで複雑な駅構内をくぐり抜け5分前につくことができた。二人が着くなり町田は耳に着けていたイヤホンとマイクが一体になっているヘッドセットを外し、これがいいんだと二人に着けてみるように言った。
 春日のスマホが鳴った。出ると星野からで、もう近くにいると言う。星野の電話の声はすぐに近づき肉声に変わった。星野はみんなと挨拶を交わし、四人は町田が予約している焼肉屋へと移動した。
 席はトイレに近いこと、一人一人のタレはつけてもこぼれないよう深めの皿にというお願いもちゃんと店に通っていた。星野と町田はビール、彩香はレモンサワー、春日は烏龍茶を頼んで乾杯した。春日の誕生日が年明け1月の21日と知った町田は、もう20歳になるんだから別にいいじゃんといったが、春日は首を縦に振らなかった。みんなは早速ロース、ミノ、タンなどの肉を焼いて食べ始めた。焼け具合はそれぞれが箸の先で確かめるが、まだ早いだの焼き過ぎだのと言葉が飛び交った。
 話も色々飛び交ったが、町田がデジタル話を始めるとみんな聞き入った。
「これからは生活周りもみんなネットワークでつながって、口で言えばなんでも応えるようになる。だから目の障害がある僕らだって、その辺何の問題もなくなるってわけ」
「自動車だって行き先言えば自動運転でしょ」
「そうなんです。大抵のことはAIがやってくれちゃう」
「人間はどうするの?」
「人間はAIがまだ考えていない、これからのことを考えるんだ」
「よくわかんなーい」
みんなが笑った。
 星野が話し出した。
「僕らはマッサージで目を使わない。って言うか指で見る」
「AIはどうやって患部を割り出すんだろう。何かセンサー的なものかな」
「すごいこと考えてますね、星野さん」
「いや、AIに仕事取られたら、これから困るからさ」
みんなが笑った。

 店を出て、町田が二次会の場所を予約してあると言い、みんな後に従って歩いた。ものの5分で着いた店はカラオケ店だった。
 春日は焦った。歌は、歌だけは絶対に歌えない。でもここで急に帰るわけにはいかない。では何と言えばいいのか・・・。立ち止まっていた春日は背中を彩香に押された。
 四人が案内された部屋に入ると、すぐに町田が店員に画面にスマホリンクを出して撮影してもらい、町田のスマホで曲の検索ができるようにしてもらった。新しモノ好きが一人いると本当に助かるとみんなが口々に言った。
 じゃあまず自分が、と言って町田が最初にサザンを歌い出す。みんなの手拍子が上がった。次に今時の歌を彩香が歌う。春日は曲を考えていると言って歌わないようにしていたら、じゃあ僕がと星野も歌い出した。
星野が歌い終わると、突然、聴きなれたイントロが流れ出した。
「さあ、春日、待ってました!歌はもちろん沖縄宮古島の、〝涙そうそう〟!」
町田の声が上がり、彩香が春日の手にマイクを押しつけてきた。
 もうだめだ・・・。春日は顔を上げた。すると一瞬、紅色の花びらがこちらを向いて開いたヒカン桜が目に浮かんだ。春日がはっとするとヒカン桜は暗闇に消え、春日の心が静かになった。春日はゆっくり息をすった。
 え・・・?
春日は自分の歌声に驚いた。
歌える・・・?
春日は歌う自分に戸惑いながらも、そのまま歌い続けた・・・。

 春日の歌が終わった。部屋がしんとした。みんな、呆気にとられていた。

彩香ため息をついて言った。
「なんていい声・・・」

 やっと町田が口を開いた。
「春日、うますぎる」
星野が言った。
「すごい」

 歌い終わった春日は放心していた。
人前で、初めて、歌えた・・・。


  S駅まで町田と彩香が前を行き、春日は後ろで星野のダウンの肘に手をかけて歩いた。白杖の軽い音をさせながら、星野が春日に言った。
「年の瀬にいい歌を聞かせてもらった」
「いや、そんな・・・」
「お礼と言っては何だけど、今、詩を書いていて。出来たら送ります」
「星野さん、詩も?」
「うん、僕はもう試験だけど、君たちも、さ来年には」
「そうですよね。わたしたちも」
「そんな、頑張ってるみんなに向けて書いてる。自分に向けても、って、ちょっとおかしいけど」
「どんな詩なんですか」
「桜の詩。卒業で桜って、歌でも定番なんだけどね」
「あの、沖縄の桜は、一月の終わりから二月に咲くんです」
「へえ、そうなんだ!」
「種類が全然違って、ヒカン桜といいます。見てくださいって言えないんですけど。色が紅色で濃くって、釣鐘みたいに下向きに咲くんですよ」
「北海道の桜はソメイヨシノだけど、ただ咲く時期が遅くてさ、4月下旬で、もうゴールデンウイークだ。3月の卒業の頃はまだ雪」
「雪、ですか。ちょっと想像つかないです」
春日がふうと息をつくと、少し笑った星野が、言った。
「でもさ、桜の種類が違っても、季節を感じて咲こうとする、桜の・・・思いって言うのかな、それは変わらないよね」
咲こうとする、桜の思い・・・。星野の言葉が春日の耳に残った。
「出来たら読んでください。でも一番勉強しなきゃいけない時期に詩なんか書いてて、困った先輩だ」
二人の笑い声に、彩香と町田が振り返り、いいカップルみたいと声をかけた。


 年末の30日、春日のケータイに星野からの詩が、送られてきた。良いお年を、という言葉とともに。
 詩が読み上げられると、春日の胸が震えた。


「君に咲く桜」

時を知り 立ち上がる君に
はなむけの言葉より
肩に手をやり力を込める
また会おう

くだらないことに腹の底から笑い
どうしようもない悲しみに胸の奥で泣いた
吐き出された心無い言葉に憤り
人の幸せをわがことのように喜んだ

分かち合った日々の思いが胸の中に輝く

そして今 
ただ前を見つめる君の眼差し
彼方にはまばゆい光が広がる


もうすぐ桜が咲くだろう
それは、君の新しい兆しに咲く桜
それは、君の進みゆく道に咲く桜
それは、君の見果てぬ夢に咲く桜

また、会おう


時が来て 踏み出す君に
別れの挨拶より
心の中で大きく手を振る
また会おう

軽はずみな一言が人を傷つけ
大切なことは何かと今さら気づく
消えない不安に弱音を吐きながらも
自分の覚悟にだけは嘘がつけない

ぶつけ合った刹那の思いが胸の奥を打つ

そして今
君が上げた声は起きた風に乗り
澄み切った大空に響き渡る


もうすぐ桜が咲くだろう

それは、君の新しい兆しに咲く桜
それは、君の進みゆく道に咲く桜
それは、君の見果てぬ夢に咲く桜

また、会おう


 星野さん、いい詩です。送っていただきありがとうございました。国家試験、頑張ってください。わたしたちも星野さんについていけるよう、頑張ります!では、良いお年を。仲里春日



 星野が死んだ。
年明け3日の日に、駅のホームから落ちたという。
春日は泣いた。泣いても泣いてもとめどなく、涙が溢れた。


 春日は彩香と、星野の詩に曲をつけることにした。
そして春日は、学校で行われた星野の追悼の場で、「君に咲く桜」を歌った。



      13

 春日は目の前の海に、その下に広がっている珊瑚礁、八重干瀬(ヤビシ)に向かって呟いた。
 お父さん、聞いて。わたしね、本当に、思いもしないことばっかり起きるんだ。東京へ行ってこれからヘアメイクの勉強始めるって言う時に、突然、目が見えなくなった。もう本当に死のうかと思った。それから悩んで悩み抜いて、思い切って目標変えて、マッサージの学校へ行った。そこでね、いい先輩と出会って、その先輩の話聞いて、なんかね、生きていけるって思ったんだ。でも、その先輩、年が明けて突然、死んじゃった。ホームから落ちて・・・。もう本当に、思いもしないことばっかり。本当に、悔しいことばっかり・・・。

 ただね、わたし、ずっと歌えなかった歌が、この間、みんなの前で歌えたの。あの時、お父さんが、春日は本当に歌がうまいからって言って出たヒカン桜ののど自慢で、わたしはみんなの前で突然声が出なくなって、歌が歌えなかった。それからわたしはもう、人前で歌を歌わなくなった。でもそれがね、この間みんなの前で、なぜか、なぜか歌が、歌えたの。マイク持って、ちゃんと。どうしてって後から思ったんだけど、それはきっと目が見えなくなって、そこにいる人たちのことが気にならなくなったからかなって・・・。
 あとね、亡くなった先輩が、とてもいい詩を残していってくれた。それも、桜の。わたし、その詩に友達と曲をつけて歌にしたんだ。
 それで、今日島の桜が咲いたから、聞いてもらおうと思って来ました。あの時、歌えなかった分まで。
 じゃ、歌うね。

 春日は指輪を手に握り、歌い出す。
〝君に咲く桜〟を・・・。


 階段の方から人の気配がした。今日子と祖父正雄がロープ伝いに降りて来るサンダルの足音が聞こえた。
 今日子がふう、と息をはいて言った。
「おじいと来た」
「そう」
「春日、元気か」
「うん、おじいは」
「元気すぎて困ってる」
春日が笑った。
 今日子が春日の横に立ち、言った。
「桜の報告?」
「うん、それだけじゃないけど」
「なに?」
「内緒」
「なーんだ」
「それ、おじいにも教えろ」
「いや、びっくりして心臓が止まったら困る」
「何を言うか」
寄せ返す静かな波の音に、三人の笑い声が響いた。
 春日の目の前で、いつもの黒いTシャツに白い短パンで、腕を組んだ武志が笑った。

                               

                               (了) 


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