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「マダミヌキミニ」


その手をおいて目をつむり
ゆっくりと息をしてごらん。

猫は人の目につかないところで夢をみるために眠り

フクロウは油断しているリスにまばたきもせずじっと狙いをさだめ

イルカは遊び飽きることを知らずどこまでも泳ぎ続けているよ。


 スクランブルの信号が青に変わり、溜まりに溜まっていた人々が一斉に歩き出した。
 ミクも、肩の髪をはらい赤いスマホを耳に当てて歩き出す。東京、シブヤの、すべてが明るく輝く夜。目を上げれば周りのビルの上は大型ビジョンだらけで、若者向け飲料水のCMやアイドル女子グループのミュージックビデオをそれぞれ勝手に大音量で流し続けている。
 ミクの肩が人にぶつかる。横を見れば茶髪にピアス、黒いTシャツの首一つ背の高い男が笑いながら歩いている。その向こうの女の顔はよく見えないが、異常に甲高い声だけが聞こえてくる。ねえ、だからマジで、めっちゃうまいんだって!あー、ぜーんぜん信じてないしー・・・!
 前から大きい目がくっきり白い顔の浅黒い男が、とても大きなキャリーバッグを持って歩いて来る。この男がアジアの南の方から来たことは誰の目にもよく分かるが、そのとにかく大きくて重そうなバッグの中身は何だか見当もつかない。ミクは男のバッグにぶつからないように、そして前から来る人を避けながらスクランブルを渡り切った。
 そこでミクは立ち止まり、回れ右をした。駅の後ろに見上げて首が痛くなるほどの巨大なビルがそびえ立っているのが見えた。ミクは自分が来た方の人波がまだ続いているのを見ると、再びスクランブルを渡り始めた。歩行者信号はまだ青だが、残り時間表示はあと一つ・・・。急ぎ足で渡り駅側に着いたミクは、また回れ右をする。信号が赤になり、一斉に車が走り出す。スクランブルの周りは、また溜まり出した人々でいっぱいになっていく。
 ミクは耳元から赤いスマホを離し、電源を切ってある黒い画面を見た。そこにはシブヤの街に放たれたまぶしい光が映り込んでいた。ミクは掛けているサングラスを指で押し上げ、赤い唇をすぼめてゆっくりと息を吐いた。


 窓ガラスの向こうの青い空に雲は一つもなかった。ミクが教室に目を戻すと、頭のてっぺんまではげ上がり出っ張った腹がシャツのボタンを飛ばしそうな国語の先生が、口の端につばをためてしゃべっていた。
「この熊谷直実っていうのは、源氏の方。で、この追われる若武者は平家。分かるか、源氏と平家だ。中学生もここで古文の入り口に立つ!この世の栄華を極めた平家が・・・、栄華は映画館で見る映画じゃないぞぉ。栄えに栄えたという意味だ。その平家が、復讐に燃える源氏勢力に追われ、今滅びつつある。で、実はこの平家の若武者、ものすごいイケメンなんだ。女子は好きだろ、イケメン!」
 その時、先生が強く言った”イケメン”の”ケ”で口の先から白いつばが飛び出し、教卓の上に落ちた。ミクはとっさにふせた顔を腕に押しつけたが、白いつばは頭の中のスクリーンいっぱいに映ったクローズアップになった。ミクは急に込み上げてくる吐き気に襲われ、あわてて口元を押さえた。そしてミクはそのまま静かに手をあげた。
「ん、どうした、山口。誰か好きなイケメン、いるのか?」


 洗面所の蛇口の水を止めたミクは、口をぬぐい鏡を見た。吐きそうになったおかげで目が少し充血して赤くなっていた。これも体調が悪い理由になるとミクは思った。
 ミクは保健室のドアを小さくノックしてドアを開けた。白衣を着た若い女の先生が椅子をくるりと回転させ、ミクを見て、どうした、と高く澄んだ声をあげた。
 
 ベッドに横になったミクに、先生が白いカバーのかかった薄手のケットをかけた。
「無理しなくていいから。少し、休んでて」
女の先生が化粧の匂いとともにファウンデーションのしっかりのった顔を近づけると、その下の白衣の襟の間から豊かな胸元がのぞいた。
「勉強のし過ぎ? それとも・・・」
先生の問い掛けにミクは答えなかった。

 6時間目が終わったチャイムでミクが教室に戻ると、残っている生徒はもう誰もいなかった。カバンを手に教室を出たミクは一番上の4階まで階段を上がり、屋上に出るドアの前に立った。鍵はどうかと思いながらミクがドアノブを回すと、きしんだ音とともにドアは開き、いきなり外の熱気がミクの全身に当たった。

 一面真っ青な空の下でまだまだ強い九月の陽射しを受けながら、ミクは屋上をぐるりと囲んでいるフェンスにもたれスマホを手にした。校舎裏のグランドでは野球部の練習の声と打球の音がして、音楽室からは吹奏楽部が練習するどこかで聞き覚えのある曲が聞こえてきた。ミクはイヤホンを耳にして聴きたい曲を選び、画面に東京のシブヤのストリートビューを出した。そして矢印の先をタップして、シブヤの様々な通りを進み、止まり、方向を変え、また進むことを繰り返した。
 近くの那覇空港から飛び立つ飛行機の騒音が、ミクの身体の奥に低く響いた。ミクは空港の方に目をやり、もうすぐだから、と胸の中でつぶやいた。


その手をおいて目をつむり
ゆっくりと息をしてごらん。

桜はまた来る春のことを思い続けながら緑の葉で全身をおおい

スイレンはみな黙りこくって音も立てずに水面に浮かび続け

コケは誰にも知られないよう密やかにそしてしっかりと広がって。


 ミクがリビングのテーブルの上にスマホを置いてソファに寝転がると、メールの着信音が鳴った。すぐに手に取り開いてみればそれはポイントゲットチャンスのお知らせで、ミクはスマホをソファに投げ出し、リモコンを手に取ってテレビをつけた。映ったのは今年の沖縄の海水浴における水死件数についてのニュースで、すぐ適当に選局ボタンを押すと、沖縄の戦隊モノヒーロー、琉神マブヤーが変な怪人と戦っているシーンが映った。小さい頃男の子に人気があったこの沖縄オリジナルの戦隊モノキャラも、次が出てこないからか再放送がずっと続いている。もう十分飽きているけどと思いながら、ミクはソファから体を起こしキッチンへ行って、帰りにコンビ二で買ってきたマルゲリータのパスタを電子レンジに入れた。


 ミクはスクランブルを渡り、渋谷センター街に入っていく。歩くにはまず手に飲み物を。ミクは入ってすぐのところにあるタピオカの店に寄った。いつもならミルクティーにするところ、今は着ているワンピースの赤と合わせ、赤いパッションフルーツティーにした。
 次にミクはファッション雑貨店に入る。そこは着るものから、アクセサリー、コスメ、グッズのすべてが揃っている店だが、ミクは何も見ずに地下へ降りた。そこにはトイレがあり、シブヤに繰り出した女子たちが顔、髪、身なりのチェックをする場所になっていた。
 長い列を待ったミクは、洗面の鏡の前に立つとすぐにサングラスを頭の上に上げ、目と唇をチェックした。斜めがけにした銀のポシェットから赤いリップグロスを取り出し唇に塗ったミクは、サングラスを掛け直し、トイレを出て階段を駆け足で上がった。
 ミクはセンター街を歩き出す。通り中に鳴り響いている女子アイドルグループの曲。ファッション、シューズ、アクセサリー・・・。開け放たれた店のまぶしいほどに明るい明かり。行き交う人々の話し声、笑い声。日本語じゃない、けたたましい言葉・・・。そんなすべての、ここにただよう雰囲気が一斉に、ミクの目、耳、皮膚感覚を刺激する。  
 ミクはあらためて自分に言い聞かせた。私は毎日スマホで、シブヤを見て、シブヤを調べてきた。だから、大丈夫。あとは初めてのシブヤにアガらなければいい。そして初めてのシブヤを、人に気付かれないようにすればいい。大丈夫、私は、シブヤを、知っている・・・。

 ミクが四つ角を曲がりもう一本の通りを歩いていくと、向こうに大きなゲーセンが見えた。その店先に、何か戦隊モノらしい着ぐるみが立っていた。戦隊モノは何かポーズをとって客の呼び込みをしているようだった。通りを渡って近づいていくうちにミクは気づいた。緑の顔に金色の目がついたシーサーのようなあの顔・・・、まさか、琉神マブヤー・・・!?沖縄の琉神マブヤーが、シブヤにいる!?ミクはありえない偶然に驚き、呆れた。
 マブヤーは少し向こうに立っているミクに気づき、伸ばした両腕をゆっくり回し腰の横でためて右腕を突き上げる変身ポーズをとった。そしてマブヤーは、さあどうぞ、とミクに店の中へ入るように手招きをした。ミクが周りを見ると他に人はいなくて、それが自分だけに向けられたものだと分かった。どうして、ここでマブヤーに・・・と思いながら、ミクはその手の先が指す店の中に目をやった。そこにはクレーンゲームが並んでいるのが見えた。
 ここ、シブヤに来て、いつもやってるクレーンゲームなんて・・・。そう思いながらも、ミクの気持ちは揺れた。マブヤーが横で大きく頷いた。ミクはマブヤーの顔の黒いシールドをじっと見たが、その中はまったく見えなかった。
 
 ミクが店に入るとそこにはずらりとクレーンゲームが並んでいて、何組もの男女のカップルや女子グループがお目当てのグッズをつかみ上げようと楽しんでいた。グッズはおなじみのキャラクターものが多かったが、そんな中ミクの目に、耳の長い白いぬいぐるみがとまった。シナモロールのシナモンだった。
 欲しいけど・・・。一瞬の思いがミクの頭の中をいっぱいにした。ミクはゲームをするかどうか落ち着いて考えようとしたが、ミクの指はすでに、斜めがけにした銀のポシェットのファスナーをつかんでいた。


その手をおいて目をつむり
ゆっくりと息をしてごらん。

この一瞬にありとあらゆるところで
ありとあらゆることが起こっているよ。

一滴一滴のしずくはたまり集まりやがて流れてうねる川となり

一粒一粒の砂は積もり広がりそして果てしない砂漠となり

空の上でジェット気流はトップスピードのまま駆けめぐることをやめず

深く暗い海の底では熱くたぎるマグマの荒い息づかいが響いている。


 ガチャ、と鍵を開ける音がした。ドアが開くと、グレーのスーツを着たミクの母美奈子が黒いバッグを肩に、スーパーの大きなレジ袋を両手に下げて入ってきた。
「ただいま!ごめんごめん、遅くなっちゃって。なんだか話し好きの人で、契約まで時間かかっちゃって。今すぐ作るから・・・」
美奈子の言葉をさえぎるようにミクが言った。
「もう食べた」
「え、食べちゃったの?何を?」
「パスタ」
「ミク、それだけじゃ栄養が・・・」
ミクが怪人と戦う龍神マブヤーから目を話さずに言った。
「わたし、東京に行きたい」
キッチンの床にレジ袋を置いた美奈子が顔を向けた。
「え、東京が、なに?」
ミクがもう一度、ゆっくりと声を上げた。
「わたし、今度の週末に、東京に行きたいの」
美奈子にミクの声は聞こえたが、返す声はすぐに出なかった。

 カフェの店先で、美奈子が明るい笑顔でワイシャツ姿の男にお辞儀した。
「貴重なお昼休みのお時間いただき、すみませんでした。ご検討いただいて、ご連絡いただければ、またすぐに伺いますので。今日はどうもありがとうございました!」
美奈子は、頭を軽く下げ歩いていく男の後ろ姿を見送った後、バッグからスマホを取り出し、画面をスクロールして“沙織”という名に電話をした。
「ああ、沙織、元気?・・・寝てた?ごめんごめん、あのね、ちょっと相談なんだけど。今度の週末、金、土って、どうしてる?・・・そう、実は、ミクが東京に行きたいっていってるの。・・・そうなのよ、金、土に。・・・もう、どうしてもっていうから。・・・え?なんかね、スカイツリーに上りたいっていうのよ。・・・そうなの、で、日曜に帰るって。月曜は学校があるから。・・・そうなのよ、冬休みにすればって言ったんだけど・・・」


 
 金曜日の昼下がり、ミクの乗ったシャトルバスが大崎駅の西口ターミナルに着いた。羽田なら近いのだが、沖縄からのLCCは成田空港着で安いだけ時間がかかる。
 ミクがバスを降りると、向こうからデニムのGジャンに白のバギーパンツ、茶色い髪をラフに結い上げ大きなサングラスをかけた母の妹沙織が、手をあげて歩いて来た。
「ああ、ミク!よく来たね!」
「サオリン!」
ミクは今日初めて出す声で、沙織の名を呼んだ。

 沙織とミクは、駅のすぐ側の大きなビルの中にあるスターバックスに入った。スタバは沖縄にももちろんあるが、ここは天井が吹き抜けになっていて、カウンターも半円形の見たことがないもので、見渡せば客もきちんとした身なりをした大人ばかりだった。観光客や子ども連れ、中高校生の多くいる沖縄の店しか知らないミクは、今トレーナーを着てリュックを担いでいる自分が、どこかの田舎から出て来た子供がいると思われないかと顔が熱くなった。

  バジルチキンサンドを頬張りながら、沙織が低くハスキーな声で話す。
「いやー、ミクも中学生か。まったく月日の経つのは早いもんだ!私が沖縄へ行ったの三年前か、あの時は、ミク、まだ小学生だよ!」
「サオリンは・・・」
ミクは沙織が見た目変わらないというつもりだったが、沙織が即反応して返した。
「何、ミク、私は年を取ったって?何を言ってるのかな?ま、ほんとだけど。アラフォーよ、アラフォー!しかし姉さんもよくかわいい娘を一人でよこしたなあ。ミク、なんかお母さんの弱みでも握ってて、おどしたの?」
沙織の茶色っぽい目にくっきりと描かれたアイシャドウを見ながら、ミクは首を横に振った。
「ま、いっか。可愛い子には旅をさせろっていうもんね。ん、聞いたことない?ま、いいじゃん、古いかもしれないけど、ほんとのことだから。しかし、スカイツリーねえ、できたのいつだっけ。でもなんか、まだまだ人でごった返してるって聞いたけど」
メイクのせいもあるだろうが鼻筋の通った美人顔の沙織を見ると、丸顔で地味な母美奈子とは顔も会話のノリも似ていない、とミクはあらためて思った。
「まあしょうがない、一度行っといてみるかね、ネタの一つに。webで日時予約しておいたから、延々と並んで待つことはないでしょう!でも私、夜は仕事だから付き合えないよ。悪いけどミク、今夜も明日の夜も家にいて。まあねえ、沖縄には高いところないもんね。あったところで海しか見えないし、あはは!なに、ミクはイヤなの、沖縄? 」
次々と繰り出される沙織の話にミクは抹茶フラペチーノを飲みながらだいたいのところでうなずいていたが、最後の質問にはストローをくわえたまま返事をしなかった。

 翌日の午後、スカイツリーの350mの高さにある展望台”フロア350”に上がったミクと沙織は、いきなりパノラマに広がった地上の景色を目の当たりにした。
 「すごいわ、これは・・・!東京っていうか、どこまで見えてんだろ、ねえ、ミク!」
沙織が声を上げ、ミクの答えを待たず自分につっこんだ。
「沖縄までって、そんなわけないか!」
 周りの人々が話すのが聞こえ、南の方は房総半島から東京湾、三浦半島、相模湾、小田原あたりまで、ということらしかった。そう言われても関東の地理がよく分からないミクには、富士山はどっちに見えるのかということぐらいで、それもすぐに西の方が曇っていて富士山は見えないという声が聞こえてきた。
「うーん、残念、富士山はおがめないか。でもさ、ミク。あっちの海の方、見てごらん」
腕組みをしていた沙織が、手を伸ばし指差した東京湾の方にミクは目をやった。
「ミクはあの海のずーっとずーっと向こうの沖縄で、この景色をずーっとずーっと見たいって思ってた。それでほんとに空を飛んで来て、見たいって思ってたこの景色を、今自分の目で見てるんだよ!これって、すごくない?ほんと、すっごいことだよね!」
「うん、やっと見れた」
ミクは沙織の言葉に頷いた。しかし、ミクの本心は違った。
 サオリン、ごめんなさい。東京に来たのは、スカイツリーに上って景色を見るためじゃない。口実は、これで、終わり・・・。
 海の向こうの、雲で白っぽい空を見ながら、ミクは胸の中でそうつぶやいた。


 大井町駅の側の裏路地にあるスナック「サザン・ウインド」は、土曜も常連客で盛況だった。胸の開いた白いブラウスにパープルのタイトなスカートをはいた沙織は、沖縄方言全開のハスキーな声でカウンターに並ぶ常連客を相手にしていた。
「戦争なんて、ぜんぶ男たちのやってることさー。だからオス、プレイっていうんだ。それで女は涙を流すことになっちゃうわけよ」
沙織はそう言いながら、客の一人がアルバイトの若い女の子に手を伸ばすのを目にとめ、たしなめた。
「ちょっと、岡田さん、うちのミイちゃんに手出さないで!ミイちゃん、歌うからカラオケ入れて。ウチナーの女が流す涙といえばぁ、そう!”涙そうそう”よ!あはは!」

 ミクはドアを締め、沙織に渡されたスペアキーでカギをかけた。黒いサングラスを掛けたミクはノースリーブの真っ赤なワンピースの裾を翻し、蛍光灯に照らし出された廊下を歩き出した。足元の銀のフラットシューズはとても歩きやすく、迷いに迷ったがやはりハイヒールにしなくてよかったとミクは思った。
 エレベーターのドアの前に立ったミクが、上の階へと上がっている表示を見て、下へ降りるボタンを押した。最上階8階で表示が止まり、少しして表示が7階になり6階になった。
 誰も乗っていませんように、ここ3階まで途中で止まりませんように、とミクは祈った。


この一瞬にありとあらゆるところで
ありとあらゆることが起こっているよ。

天上の月は来る日も来る日もその表情だけを変え続け

太陽は働き盛りで黙々と爆発を繰り返し赤く燃え続けている。

遥か彼方の星たちは華々しくあるいはひっそりと

それぞれの長い一生を終えながらまた新しい一生を始めていたりする。


そして宇宙は

そんな森羅万象のすべてを抱えて時間や空間のこともおかまいなしに

今、あるんだ。


  休み時間、女子が二人、窓の外を見ながら話していた。
「あー、毎日この景色、飽きたー」
「そー、なんか、すごい景色が見たいねー。うんと高いところから、とか」
「沖縄で一番高いところって、どこ?」
「どこだろ?どっか高い展望台ってあったっけ?」
女子の一人が聞くと、一人がカバンからスマホを出して調べ始めた。
「スマホ持ち込み禁止ですけど。いや、遊びじゃなくて調べものなんでーす!ということで、そこをなんとかお許し願いたい!あ、おもろまちにある、リュークスタワーだって。ウエストとイーストがあって、高さは104.8メートル!」
「へえ、それって働くところ?マンション?まあ、どっちでもいいか。ねえ、東京のさ、スカイツリーって・・・」
「知ってる、スカイツリー!上ってみたいね!」
「高さ634メートルだって!東京が全部見えて、もっと遠くまで見えちゃうんだって」
「634メートルって・・・。よくわかんない。どんだけ高いの?」
「ムサシだって!6、3、4で、ム、サ、シさー!」
「ムサシって、なに?」
「ミヤモト、ムサシ、だっけ・・・?」
「ミク、知ってる?」
机にうつ伏せていたミクは、顔を上げ、ただ首を横に振った。
 スカイツリーが、いい。
東京で見たいと言えば、何がいいかと考えていたミクは、今耳にしたスカイツリーにすることにした。


 上下を何度も見直したミクは、開いたアームをシナモンの長い両耳の上に下げる。これならうまくいく・・・。ミクがアームを閉じると耳と顔に爪がかかった。予想とは少し違う形になったが、ミクはそのまま引き上げにかかる。するとシナモンが少し前に傾きながら上がった。そのまま、そのまま、落ちないで・・・!ミクの願いに反して、アームから顔の方が外れたシナモンはそのまま前のめりになって落ちた。
「うーん、残念!」
声に驚いてミクが右を向くと、そこにはガラスに手をかけ、金髪を垂らしてうつ伏せになったシナモンを見ている男がいた。
「これ、厚みがそうないから、つかむところ考えないと」
左からも男の声がした。ミクが振り向くと、そこにはスキンヘッドで耳と唇の下にもピアスをした男が腕組みをして針金のような細い目でシナモンを見ていた。
ミクの心臓がドクンと鳴った。ミクはゲーム台から左足を引いたが、左の男がその後ろに足を出し、右の男が体を寄せてきた。男は金髪をかき上げ、ミクの顔を覗き込んだ。
「いい色のドレスですねぇ、おじょうさん!」
男の目がミクのサングラスに注がれ、右手が顔に向かって上がった。
「こんなきれいな子が一人だなんて、ちょっとおかしいんじゃない?彼と待ち合わせかな?」
スキンヘッドの男が腕組みを解いて黒いジャンパーのポケットに手を入れて言う。
「彼が来ないんなら、ちょっと、俺たちと遊ばない?」
ミクの心臓の動悸が激しくなり、顔が熱くなった。
「何も怖がらなくていいからさ。ね、行こう!」
金髪の男がゲーム台から体を離し、ミクを促した。その時、入り口の方を見たミクの目に、琉神マブヤーが立っているのが見えた。次の瞬間、ミクは全身の力を振り絞り、ダッシュした!
「おいおい、なんだよ!」
いきなり走り出したミクを二人の男が追いかけた。ミクがゲームをしている客の間を駆け抜け、入り口の前にいるマブヤーに飛びついた。後ろからの衝撃にマブヤーがどうしたのかと振り向くと、ミクがマブヤーの背中に回り込んだ。マブヤーの前にミクを追う男二人が立った。
「なになに、逃げないでよ〜」
スキンヘッドがマブヤーの後ろにしがみつくミクに声を掛けた。マブヤーは男二人を交互に見て、背中のミクを見た。
「ほら、行こう」
金髪の男がマブヤーの後ろのミクに手を伸ばそうとしたとき、マブヤーが両手を広げた。
「なんだ?見たことねえぞ、こんな戦隊モン」
金髪の男が肩をマブヤーにぶつけた。のけぞったマブヤーの背中が後ろのミクに当たった。マブヤーは体勢を立て直して構え、両腕をゆっくり回した。そして素早く腕をクロスさせ、右腕を真っ直ぐ上に伸ばした。
「ふざけんなって!そこ、どけよ!」
スキンヘッドがマブヤーの頭を手で小突き、金髪が胸を押した。
 その時、ミクがマブヤーの背中を思い切り押し返して走り出した。その勢いでマブヤーは二人の男におおいかぶさった。
「な、なんだ!?」
マブヤーを押しのけてミクを追おうとする二人の前に、マブヤーが立ちはだかった。
「邪魔すんな、この野郎!」
スキンヘッドがマブヤーを突き飛ばし、よろけるマブヤーに金髪が蹴りを入れた・・・。

 ミクは走った。若者が行き交う雑踏の中を必死に走った。掛けていたサングラスはどこかにいった。目から涙があふれ、頰をつたい後ろに飛んだ。明るくまぶしいシブヤの光がすべてにじんで、ミクは、何が何だか、分からなくなったーー。


この一瞬にありとあらゆるところで
ありとあらゆることが起こっているよ。

君自身にも起こっている。

偶然にも
君はヒトとして命を授かった。

それは君を君にしている細胞のひとつひとつのすべてが
生と死を繰り返し絶えず生まれ変わりながら
今、存在していることなんだ。


そして
君は人として心を持った。

その心で君は思い考え迷い悩み苦しみ泣き笑い愛しながら今、
成長しているんだ。

ありとあらゆるところで
ありとあらゆることが起こっている今。
君はまさに君として
今、生きているんだ。

この一瞬に。


 はげで腹の出た国語の先生のだみ声が、昼下がりの気だるい教室に響いた。
「”能”ってわかるか。あの能面をかぶってやる、日本の伝統芸能だ。ちょっと脱線するが、この「敦盛」は、その”能”にもなっていて・・・」
ミクは窓ガラスの向こうの空に浮かぶ雲の一つに目をやった。
「敦盛を討った直実は、その後出家して坊さんになった。その直実の前に敦盛が現れるんだ。それで平家の無念を話し、舞を舞うわけだ。みんな分かってるか、この敦盛、亡霊だぞ、亡霊!」
 舞を舞う亡霊・・・。雲の形が少しだけ変わるのを見ながら聞こえてきた言葉が、妙にミクの耳に残った。

 学校が終わってミクは一人で近くの小禄駅からゆいレールでおもろまちへ行き、ショッピングセンターを見て回って家へ帰るのにまた乗った。ゆいレールは那覇空港と首里を往復し、新都心のおもろまち、国際通りに近い牧志、県庁などの駅があって便利なので、住民をはじめ観光客もよく使っている。
 空いている座席に座ったミクは、向かいに座っている青年に目がとまった。ちょっと長めの無造作な髪。細身に白T、上に緑のシャツを羽織って、手には今時スマホではなく、文庫本に目を落としている。
 車両が次の安里駅で止まった時、本からふと顔を上げた青年の切れ長の目が、ミクの目と合った。青年はミクを見て、ほんの少し首をかしげた。ミクはあわてて下を向いたが、まだこちらを見ている青年の視線を感じた。
 車両が発車してしばらくしてミクが顔を上げてみると、また青年と目が合った。その時、青年が何かに気づいたように少し顔を上げ、そして切れ長の目を細くして微笑んだ。ミクはその笑顔の意味が分からず、またすぐに下を向いた。
 車両が牧志駅に着くと、青年は立ち上がり、開いたドアからホームに出た。ミクはその背中を目で追ったが、青年は階段に向かわず、後ろ姿のままホームの真ん中で立ち止まった。どうしたのかと思いながらミクが見ていると、青年はその場で腰を落とし、両腕を伸ばして円を描くように回して腰のところへ持っていった・・・。
 え・・・? 
 ミクは驚いた。
 腰を落とした後ろ姿の青年は、両腕を素早くクロスさせ、右腕を真っ直ぐ上に伸ばした。
 それは・・・、まさか、琉神マブヤー・・・!?
 乗降ドアが閉まり、車両が動き出した。ミクはドアに駆け寄りガラスに張り付いて、ホームの青年を見続けた。青年は振り返らずに歩きだし、階段を降りていった。

 舞を舞う亡霊・・・。
ドアに持たれたミクに、今日、妙に耳に残った言葉が浮かんで来た。ミクは首を振った。
違う、そうじゃない。あの人は、あの時の・・・、あの時の・・・。
ミクは、ドアの窓に顔を寄せ、見えるはずのない青年の後ろ姿を追った。


その手をおいて目をつむり
ゆっくりと息をしてごらん。

感じることができるだろう?

君が君でいることを。
君が君であることを。

だから君は
自分をたしかに受け止めて

一瞬一瞬

今の自分でいればいい。
次の自分であればいい。

君の思う存分に。


 ミクがベッドから起き出しドアを開けると、母美奈子が明るいグレーのスーツの上着に袖を通していた。
「おはよ」
ミクが美奈子に声を掛けた。美奈子がショルダーバッグに掛けた手が一瞬止まった。そしてミクを見て言った。
「おはよう、ミク。朝、食べていってね」
ダイニングのテーブルには目玉焼きとにんじんサラダが出ていた。
「ありがと」
ミクの返事に美奈子は笑顔でうなずき、ドアを開け出て行った。

 校庭を歩くミクに、女子二人が、声をかけてきた。
「おはよう、ミク!あれ・・・?なに、これ?」
「え、なに?あ・・・、どうしたの、今どき?」
カバンを見た二人が笑った。
「何でもない。もらいもの」
そう答えたミクのカバンには、琉神マブヤーの小さなソフビがぶら下がっていた。

 放課後、ミクは屋上に上がった。
 校舎裏のグランドでは野球部のランニングの掛け声がして、音楽室からは吹奏楽部のそれぞれの楽器の音程を確かめるような音が鳴っていた。そして那覇空港を飛び立った飛行機の低く響く騒音が遠のいた時、一瞬、ミクに聞こえていた周りの音がすべて消えた。


僕も手をおいて目をつむり
ゆっくりと息をしてみよう。

やっぱりたしかに感じるよ。

そんな君に今
出会える奇跡を――


 ミクは背筋を伸ばして、晴れ上がった真っ青な十月の空を、見上げた。

                                                                (終)

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